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最初の問いかけ

   みなさんは、日本語で考えをまとめようとしたとき、次のように感じたことはなかっただろうか。言葉が自分の心の深みに届かない。心の奥を言い表すことができない。感覚的には言い表せるが、言葉の意味が明確でない。適切に言い伝え得たかどうかわからず、落ち着かない。まわりの世界を言葉で切りとるとき、なぜかしっかりとつかめない。何かを考え、そのことを言い表そうとすると、言葉は出るには出るが、地に着いていない。言葉と自分の存在が切り離されている。言葉によって人との関係を作ることができず、何か他のものに頼らないと人の気持ちがつかめない。

   このように感じることはないだろうか。考え語ろうとする自分を少しでも対象化して見つめ直せば、誰しもこのように感じるのではないだろうか。人生の節目節目でどのように生きていくのかをという「理(ことわり)」を考えたり、考えたことを言い表そうとすると、たちまち自分の言葉の乏しさに直面する。最近の中学生や高校生は、自分のことや世の中のことを、自分の言葉でつかみ、考えそして語る力が極端に弱っているといわれる。思い当たることはないだろうか。

   人と語らうとき、漢語を羅列すれば勢いはよい。七〇年前後の学生運動で行われていた演説がその典型だ。けれども、結局訓読みしてわかることしかわかりあえない。音訳された西洋語を使うことで何か新しいことを言った気になるが、しかしそれは、感覚の表面をはかなく通り過ぎていくだけである。新しい思想の紹介や、それをかみくだいた書物はあふれている。しかしそれらの言葉は、生きている場やはたらく場での言葉とは切れていないだろうか。生活の場の言葉は、とりわけこの半世紀、何ら深まってはいない。現代日本語は人間が考える言葉として非常に底が浅い。

   私は、いろんな場で高校生の教育に携わってきた。ところが、高校生とともに日本語で真剣に考えるとたちまち行き詰まる。現代日本語はひとつひとつの意味があいまいである。とくに近代になって翻訳のためにつくられた言葉や音訳洋語の意味を日本語で説明しようとしても言い換えしかできない。基本的な言葉の意味と言葉相互の関連は少しも明確になっていない。これらの事実に何度も出会った。多くの高校生は携帯電話での会話などの場では感覚的に訴える言葉でやりとりし、絵文字を使い自分たちの世界を作っている。言葉そのものが弱いから絵文字に頼る。しかしそれはやはり一時的なその世代だけのものである。高校生が、その言葉と自分自身のあいだを見直すことをはじめるや、たちまち彼らは自分たちの言葉に不安を抱きはじめる。

   彼らが意味をはっきりさせるために辞書に頼っても、現存する現代日本語の辞書は「言い換え集」にすぎない。真に言葉の意味を定めるものは皆無である。一体ここにはどのような問題があるのだろうか。問題の本質とここからの活路、つまりは日本語世界での言葉と人間の再生の途はどこにあるのだろうか。いちど考えてみてほしい。


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