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部落解放運動に関する私の意見〜
十数年の実践と経験、歴史と客観的事実に照らして正しい総括を行い、闘いの基本方向を明らかにしよう!


  2006年の今日、部落解放運動に対する風当たりは厳しい。運動の側からいえば、1980年代、既に問題は噴出していた。これは、党派の立場から職場の討議資料として部落解放運動に関して書いたものである。


問題を根本的に考え、運動を根本的に刷新しょう!

  私は、職場に正しい統一と団結をうちたてようと思えば、どうしてもこの十数年の「解放教育」運動の総括が必要と思うようになった。なぜなら「解放教育」運動は今、ゆきづまり転機をむかえており、わが職場もこれを避けて通ることはできないからである。

  われわれは、「解放教育」をかかげ、教育運動と労働運動、そして部落解放運動を統一的に闘わんとしてきた。「部落の現実に学び、教育改革を進めよ。」「生徒の全生活に係わり、生徒を鍛えよ。」このように主張し行動してきた。そして、「一般人は差別者である(差別の根源は階級支配ではなくおくれた意識や観念にある)。」との考えを軸に実践してきた。

  われわれが依拠してきたのは、次の部落解放同盟の「三つの命題」であった。

  1、被差別部落出身者は市民的権利が保障されず、主要な生産関係から除外されている。
  2、被差別部落民は、労働者階級の低賃金のしずめ石となっている。
  3、差別観念は空気のように社会意識として一般大衆の中に普遍的に存在する。

  われわれはここに依拠し、そしてその個別の現象と闘うことが部落解放に結実すると信じて、それを実践してきた。すなわち、就職と教育の機会均等を実現するため、就職差別をした企業への「糾弾」、行政交渉、そして就学保障、進学保障の条件整備に取り組んできた。教科指導では、「その内容を変革し、落ちこぼれをつくらない。」ことをめざしてきた。更に、差別意識をほり起こし自覚させることをとおして差別観念をなくしてゆくこと、これを教育のもうひとつの柱としてきた。

  このようにしてわれわれは、情熱をこめて日夜真剣に取り組んできた。正面から闘ってきた。これは、われわれの誇りである。しかし現実はどうであるか。部落差別は今日なお根強く残っている。差別と貧困の結果としての家庭崩壊も増加し、学校教育からの「落ちこぼれ」も、むしろ質的にも量的にも拡大している。結婚差別・就職差別はあとを断たず、「地名総鑑」の得意先は皆一流企業であり、内部の昇進にさえ差別が存在する。

  ささやかな「改良」の成果すら「部落はとりすぎだ。」との逆差別と分断の材料にされている。行政権力は「同和事業見直し!」を叫び、逆差別をあおり、「行革」によって教育福祉が切り捨てられた人民の怒りをそらす手段としている。権力の分断支配の手段として部落差別は逆に強化されたではないか。

  長く「同和対策事業」のなされてきたところですら「残ったのは、家と、道と、借金、差別意識」との現実ではないか。また、意識や言葉を「糾弾」する「運動」は、部落解放運動に対する敬遠を生み、また「共闘」は真に労働者階級の主導権のもとのものとはならず、逆に教育労働運動や「共闘する」と言う労働運動が、解放運動の一部を請け負う下請けになってしまっている。そして「教師は地域の活動に参加せよ。」「いや、職場でもっとやらねばならぬ。」との論争はなんら解決せず、職場にあっても「事をあらだてかってのような分裂と対立を生むくらいなら、なあなあですます方がましだ。」との考え方が支配している。これが現実である。

  われわれは、教育労働者として、日本の教育を復興してゆくテコにせんと「解放教育」をかかげて闘ってきたのだ。目先の労働条件を犠牲にしても、理想に燃えてやってきた。であるがゆえにこそ、この現実を直視し、この現実を打開する道を明らかに掴まねばならない。問題を根本的に考え直し、運動を根本的に刷新しなければならない。

問題の本質は何か!根本的な真の解決の道は何か!

1、部落差別は、むしろ逆に強化された。この事実の本質たる、差別は権力支配の産物であることをつかめ!

  われわれは「主要な生産関係から除外されている」ことを変えねばならぬ、と就職保障に取り組んだ。しかし、やはりその企業の下で搾取と収奪にあえぎ、内部に差別が存在するではないか。「落ちこぼれ」が差別を再生産している、との立場から、授業の改革に取り組んだ。しかし、やはり質的にも量的にも「落ちこぼれ」は拡大した。「社会意識を変えねばならぬ。」と学校内外で「啓発」に取り組んだ。しかしその結果、隠れた差別はいっそうひどく強くなったではないか。部落差別は逆に強化された。これがわれわれがとり組んできた結果の事実である。

  なぜこのようになったのか。問題を明らかにするのは内因論に立ち、われわれの主体の内部の思想を検討しなければならない。われわれが依拠したのは「三つの命題」の思想である。そして力一杯闘いぬいて、この現実である。よって問題の本質から問い直そう。階級社会にあって、根本は権力問題である。この立場に立って部落差別の本質をつかめ。

  それはつまり、ブルジョア権力にとつて差別は本質的な階級支配の一つの政策なのである。部落差別をはじめとする全ての差別は、階級対立と階級闘争の産物であり、支配階級の支配を維持・拡大するための組織された暴力たる国家によって、おし進められてきた。従って部落差別は、独占資本とブルジョア独裁・国家権力のもとで本質的には解決されない。支配と抑圧・搾取と収奪という階級支配とそのために組織された暴力としての国家が存在するかぎり、一切の差別を根絶することはできない。

  これが問題の本質である。断じて観念や意識が差別の原因なのではない。この本質は歴史的事実からも検証される。

  差別は太古より存在したのか。否である。原始共同体社会、それは階級なき社会であり、従ってまた一切の差別のない社会である。原始共同体社会は階級対立の発生によって崩壊し、この階級対立のまっただなかから国家(政治権力)が生まれてきた。日本では耶馬台国から大和朝廷を中心とする古代天皇制国家である。人民は良民と賎民に分断され、律令制導入後はこれが法制化され、互いの通婚は禁止された。まさに、一切の差別は階級支配と国家の発生とともに生まれている。このことを正確に掌握しておくことが部落問題を論じる場合の大前提である。

  中世封建性においては、律令制は崩壊し、身分制度の法制化も崩れた。だが支配階級たる封建領主とその国家権力は、「散所者」等の階層を次々とつくり、農奴の中にさらに貧しい人々を細分化したあらたな賎民制に再編した。そして近世封建性(封建社会の完成−階級対立は農奴と封建性)は1603年、江戸幕府が開かれ完成した。幕府は、士農工商の身分制度、「えた」「非人」の賎民制度を確立した。住所の制限(地域としての部落の発生)、職業の固定、通婚の厳禁、服装まで区別の強制、検地帳、宗門帳、人別帳でも明確に区別をした。崩壊した法制上の賎民制度は、近世幕藩体制の確立とその国家(封建制社会)の完成とともに、より一層徹底して制度化された。

  明治維新はブルジョア民主主義の確立を旗印として勝利したブルジョア革命であり、成立した明治新政府はブルジョア独裁の政府であった。だが政府は、成立するや民主主義の旗を完全に投げ捨て、天皇制と特権身分を残し、これを階級支配の一つの道具とした。明治政府は、過酷な搾取・収奪に対する農民一揆が多発するなか、1871年(明治4年)に「えた」「非人」の名称を廃止し、身分・職業とも平民同然とするとの布告(「身分解放令」)を発するとともに「新平民」等の官製差別用語まで作り差別をあおり、人民支配の道具(労働者や農民の怒りをそらす道具)として部落差別を再編した。第二次世界対戦後もこれは貫かれ、国家権力は階級支配の手段として部落差別を徹底して利用している。以上である。

2、改良主義的運動はかならず分裂した。この血の教訓のもと、全てを階級闘争として闘おう!

  運動をやればやるほど「解放教育」をかかげた運動は分裂し内部の統一は崩れてきた。部落解放運動もまた、諸潮流に分かれている。なぜか。やはり問題の本質を正しくとらええず、階級的視点を内部に確立しえなかった結果である。ではその確立すべき視点は何か。

  部落差別は、他の民族差別・障害者差別・性差別と同様、階級支配の産物である。故に部落解放闘争は階級闘争(自己の闘争を全人民の闘争と一体のものとしてとらえ、人民各階層の闘争もまた自己の闘争としてとらえる思想)として、独占資本の権力支配を倒し、人民の権力支配を実現するという政治目的のもとに闘わねばならない。

  一貫して人民闘争・人民戦線・人民権力をめざす基本的勝利を実現させ、その力で分断支配をはねかえし、前進せよ。労働者・人民の「差別意識」は独占資本とその権力支配(差別の元凶)に対する闘いと行動のなかでのみ、はじめて克服される。階級闘争のないところに、問題の解決はない。これが第二の本質である。

  実際にわれわれの経験をふりかえれば、このように闘った時のみ、前進したではないか。70年のこの地の教育闘争は、差別の元凶でありながら居直る国家権力(具体的には市県教育委員会)に対する怒りと「同じ苦しみを孫子にさせてはならぬ」との教育要求を土台に権力に対する人民闘争として闘い、偉大な勝利を実現した。

  73年、国家権力は無実の石川一雄氏に死刑判決を出すべく準備していた。これに対し、国家権力と戦略的に対決した革命闘争たる70年闘争とこれに結合した部落解放闘争の高揚、「石川のいのち、わがいのち」をスロ−ガンとする部落大衆、広範な人民の決起、この階級闘争が、権力の死刑策動を打ち砕いたではないか。

  逆に階級闘争の観点を放棄し、目前の勝敗、目前の成果にまどわされた時、運動は分裂した。68年以降今日に至る部落解放同盟と全解連の分裂は、議会主義のはんちゅうで、選挙という目前の成果を第一としたために引き起こされたセクト的分裂ではなかったか。75年の兵庫における部落解放同盟の分裂は、結局改良的成果に対する主導権争いが土台にあったのではないか。

  73年以降、兵庫高教組中央を支配する一部幹部は、部落解放運動のどの潮流を支持するかの問題を直接労働組合の内部にもちこみ、組合を分裂させたうえ、「八鹿高校事件」をひき起こした。「八鹿高校の教育は差別教育だ。差別教育糾弾!」これが当時の解放同盟の主張である。「八鹿高校は民主的同和教育がされている。解放同盟の介入反対!」これが当時の八鹿分会、そして高教祖本部の主張である。そして話合いを求めた解放同盟と、それを拒否して集団で職場をはなれんとする教師との間で衝突にいた到ったのだ。1974年秋であった。

  この対立する考えは、しかし、いずれもが一つの学校内で差別のない教育が実現できる、つまり教育によって(少なくとも学校内の)差別はなくせる、との立場に立っているものであり、本質的に同一の思想である。その上で、現に差別はあるのか、ないのかをめぐり対立したのだ。

  この対立は、部落解放運動の本質とその勝利の方向を明らかにし、正しい解放運動の路線を樹立し、共通の主敵たる権力にむけ、共に闘うという立場に立つ以外、解決しない。敵権力は、この兵庫における人民運動の分裂につけこみ、1978年、高教祖本部反対派の組合員に懲戒免職攻撃をかけたのだ。

  この時、兵庫高教祖は、それまでの対立を理由に、この攻撃を我が事として闘わなかった。敵権力はこれを一点突破として高教祖への弾圧と懐柔を行い、今や兵庫高教祖は、力も権威も失ったのである。まさに、階級的観点に立ち闘う以外に、何ら前進はないのである。われわれ自身、70年代後半、部落解放運動のどの潮流を支持するのかを、直接職場に持ち込んでしまい、職場や地域の教育労働者の中に深刻な対立をきたしていた。

  1977年には、兵庫の定時制高校から当校への異動を希望した教師に対して、そのもとの職場の分会が、その異動を阻止せんがため除名する、ことまで起こった。その評価をめぐって職場自身が完全に分裂した。当の教師は既に県を退職し、一方当校への着任も決まらず職を失うという所に追いつめられた。私は、解放教育を掲げる分会が、思想信条の違い、政治活動・サ−クル活動の故をもって組合を除名したことが信じられず、驚き悩み苦しんだ。そしてやはり組合の原則を投げ捨ることは誤りと考え、その意志を明らかにし、その立場で行動した。

  この対立は深まる一方となり、1979年度末には、3人の教師を教育現場から追放する攻撃が起こった。地元の解放運動とは対立する立場にあった3人を、校長、教頭が画策して追放せんとしたのだ。結局、敵権力が職場の対立につけいり、地元の労働運動・解放運動弾圧の突破口とせんとしたのである。

  私は当時、兵庫高教祖西阪神支部の支部長をしていた。そして職場の対立の図式からは3人と逆の立場にいた。この時も、権力はここまでやるのか、と驚き、そして、たとえいかなる思想・信条・立場の違いがあろうと、生活と権利への攻撃には一致して闘わねばならないと考えた。わが分会は兵庫高教祖とは違った。組合の初心に立ちかえり全力で闘った。結果これをはねかえし(1年後の職場復帰)、これを職場の団結回復への突破口としたのである。まさに闘わねば、何等解決はないのだ。

3、権力めざし、人民政府樹立めざして闘おう!

  解放運動と労働運動が、心からの真の団結をめざしたのは、わが地域ではむしろ70年71年の出発の時であった。以降、量は拡大し外見は「共闘」が広がった。しかし内実はむしろ「敬遠」が深く進行し、階級的団結は弱まった。なぜか。私自身、次の本質を思想的につかみきれておらず、階級的団結が上べのものとなっていた。この立場からの思想建設・政治建設がなされてこなかった。

  部落差別の根本原因は階級支配にもとずく階級社会にその原因がある。である以上、独占支配を打倒し、階級支配を廃絶しないかぎり、部落差別は根本的には解決しない。そして部落解放運動の主敵は、全日本の労働者階級と人民の共同の主敵たる、独占資本とブルジョア独裁・その国家権力であり、真の勝利の道は独占資本とブルジョア独裁の打倒、人民権力と人民政府の樹立以外にない。これが第三の結論としての本質であり、問題の根本的な真の解決の道である。

  この本質を思想としてつかみ、日常の実践の方向を明らかにせよ。全ては、権力の問題であり、敵が権力をもって人民を分断・支配する以上、我々はこれに対抗する力・労働者権力を職場・地域に樹立し、下から築かれたこの権力を土台として全ての闘争を推進せよ、ということなのである。「権力をめざして闘う、」この立場ではじめて真に階級的団結を実現することができるのだ。 

  以上、われわれは自らの経験と実践、客観的事実に立脚し部落問題の本質とその根本的な解決の道を、三項目に明らかにした。この立場から、われわれ自身がこれまで依拠してきた「三つの命題」を省みれば、それは決定的に権力問題を欠落させた、改良主義・経済主義であった。つまるところ、結局は部落の解放と労働者階級の解放を一つのものとして闘う正しい路線がない故の結果である。

闘いの具体的実践方向!

  では正しい部落解放運動路線とは何か。それは権力をめざす部落解放運動であり、次の「部落解放運動四原則」にもとずく闘いである。われわれが明確にした、部落問題の根本的な真の解決のみちを、労働運動において追求してきた方向によって具体化し徹底して深めるなら、次の四原則として定式化される。

部落解放運動四原則

1、経済闘争(改良闘争)の分野では、生活権を守りぬく闘争、生活条件を改善する闘争、日常の切実な要求を解決する闘争、これらの闘争を一貫して前進させる。ここに運動の土台があり、差別を根本的になくする闘争のエネルギ−がある。

労働運動においてわれわれは、たえず生活権を防衛する闘争、賃上げと労働条件を解決する闘争、労働組合運動の権利と自由を守る闘争に取り組み、これを一貫して勝利させる。

2、 政治闘争の分野では、断固として抵抗権を行使する。社会生活、政治生活、地元・地域のすべてのところで民主主義的自由と人権が確実に守られているかどうかをしっかりつかみ、守られていなければこれをほりおこし、徹底してこの分野の闘争を強化する。この場合最も重要なことは、この闘争を必ず本質(国家権力)に向けておし進めねその勝利を必ず既得権として行使し守りぬくことである。

労働運動においてわれわれは、政治的原則、基本的権利は断固としてこれを守る。たとえ一時的に目先の経済的利益が犠牲になっても、われわれは原則をゆずり渡してはならない。

3、部落解放の要求、これは民主主義の要求である。独占資本のブルジョア独裁のもと、現在の日本においては、”生活と権利・自由と民主主義・独立と平和”という切実な焦眉の人民的要求は完全に奪われ、ふみにじられている。

闘争にあたっては必ず、この主要で根本的な民主主義的要求のスロ−ガンと堅く統一させ、あらゆる分野で共同闘争・共闘体制・共闘機関を組織し、統一闘争をおし進める。こうしたなかで、部落差別が、他のすべての差別(民族差別・障害者差別・性差別など)と同様、独占資本とブルジョア独裁、その国家権力による、人民に対する総合的な差別政策の一貫であることを認識し、他の全ての差別に反対する闘争とともに、すべて全人民的な闘争の一部として闘い抜く。そしてこの闘争のめざす主敵は、日本独占資本とブルジョア独裁、その国家権力であり、政治の本質を変革しないかぎり根本的勝利を得ることはできないことを、一貫して明らかにする。

労働者の生活と権利は奪われ、生徒の教育権も現実に無い。部落においても基本的権利は奪われている。現象は多様である。しかし本質は一つである。現代日本の人民は民主主義を奪われている。敵は独占資本とその国家権力である。よって闘いは全て共通の主敵に対する民主主義をめざす全人民的闘争の一部として闘われねばならない。

4、 基本的勝利を一貫して追求せよ。つまり思想上の勝利(闘争を通じて差別の根本原因に対する認識がいかに深まったか、また階級的政治意識、思想的団結がどう高まったか)、政治上の勝利(人民の政治的自覚と統一はどう前進したか)、組織上の勝利(組織はいかに強化されたか)を一貫して追求し、ここに全闘争の勝利の基準をおく。

”独占資本とブルジョア独裁の打倒・人民政府樹立”のスロ−ガンのもと、全ての闘争の成果を敵権力への対置に帰結させ、労働者階級の指導のもとの統一戦線を一貫して追求し、これを人民の権力へと帰結させる。人民の権力、それは表現と形態は多様性を持つが、その本質は、人民の意志を決定し、人民の意志を提起し、その要求を獲得し広める部隊、人民の闘争組織、団結した組織、つまり労働者階級の指導のもとに団結し統一した人民の力・実力・暴力である。

労働者階級は政治と経済を分離せず一つにし、労働者の要求と人民各階層の要求を一つにし、全てを階級闘争として闘うとともに、独占打倒のスロ−ガンを高く掲げ、人民闘争・人民戦線・人民権力をめざす基本的勝利を前進させなければならない。

  以上である。

  我々がここにみずからの実践と経験によってかちとった四原則は、初期水平社が血のにじむ試行錯誤のなかでかちとった方針の更に徹底した深化でもある。1922年(大正11年)3月3日、京都岡崎公会堂で約2千名の部落民の参加のもと全国水平社創立大会が開かれ、初めて闘う部落民の組織としての全国水平社が生まれた。水平社の結成は、偉大な一段階を画した。部落民自身の手による自主的な闘う組織として結成され、自らの闘争によって解放をかちとることが決意された。

  だが水平社の第1回大会(1922年)から第4回大会までの間、部落差別の根源をブルジョア独裁と国家権力に位置づけることができず、差別行為に対する「徹底糾弾」にその中心がおかれた。これは差別は観念・意識の所産であるという哲学上の観念論であり、この発想は部落民以外は差別者である(労働者階級と人民を敵視する)というところまで発展し、運動は孤立し、敬遠された。

  1926年(昭和元年)の第5回大会では、こうした誤った路線が正され、部落解放運動は階級闘争として闘わねばならないという方向が確立された。だが水平社はこの正しい原則を正しく実践することができず、経済闘争、改良闘争、差別反対闘争を無意味なものとし、身分組織は真の解放の妨げになるので解散し、階級組織に参加すべきである、との結論に到った。

  第1回から第4回までの路線が、行動(「徹底糾弾」)は戦闘的でも、その本質は階級闘争を否定した右の誤りであったとすれば、第5回大会以降の路線は原則的正しさを獲得しながらも歴史的制約としての未熟さからその具体化を誤った結果としての「左」の誤りであった。

  だが1932年(昭和7年)に到り、このゆきすぎは正しく解決され、「部落民の悲惨な生活を改善するありとあらゆる日常闘争を積極的に展開して、それを通じて大衆の階級的・政治的自覚を高め身分闘争と階級闘争を正しく結合統一する」という方針が確立された。これを部落委員会活動と呼んだ。われわれは実にこのような偉大な闘いをやってきたのだ。この教訓を忘れてはならない。

権力に対して共に闘おう!

  真に部落解放を実現する道は、この道以外にはない。どんなに厳しく険しい道であろうと、この道しかない。

  労働運動と解放運動の統一とはこの基本政策を樹立し権力に対して共に闘うこと以外にない。

  われわれは、権力をめざす労働運動を再建し、権力をめざす部落解放運動を再建しなければならない。職場・地域に支配権を樹立しその土台の上に、統一した闘いを再建しなければならない。

  この土台、思想的統一ぬきのところで、単なる教育方法論で「部落に入る、入らぬ」の論争をしても、堂々めぐりで解決しない。事実しなかった。これを打開する道は、ここに提起した方向以外にない。