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数学教師

  一七九三年秋、はじめて教壇に立ったとき何かおかしいことに気づいた。クラスの何人かが分数の計算ができないのだ。それに気づいてすぐに分数計算も授業でやろうとした。今度はできる側の生徒たちから反発を受けた。分かりきったことに時間をさかずに先に進んでくれ、というわけである。悩んだ。

  夢中で試行錯誤するなかで、ある日、できる側の生徒に聞いてみた。「君らは分数計算なんか簡単だというが、ではなぜ分数のかけ算は分母と分母、分子と分子を掛け合わせればいいのか、わり算は分母と分子、分子と分母を掛けるのか、説明できるのか」。答えられるものはいなかった。そこで私ははじめにたち返って、量というもの、量を量ること、連続量をとらえることと分数の定義、単位の誕生、連続量の和と差、一あたり量と積の定義、商の意味、とすすんで、初めて分数の積と商の計算法に入った。分数のできるものもできないものも、皆はじめての話ばかりで、よく聞いてくれた。わかった子供のにっこりとした笑顔が忘れられない。はじめてクラスの集団としての授業がなりたった。

  読み書き算術から切り捨てられたまま小学校、中学校を送ってきた生徒が、教育要求闘争の結果実現した制度にのって高校に来ていた。私の知らない世界であった。しかしとにかく、その生徒らを含むクラスで数学の授業をした。試行錯誤のなかでつかんだことは、どんな生徒もわかりたいという要求をもっており、「わかる」ということは人間の根元的な喜びであり、わかることを実現していくことが、生徒の心に灯をともしていくことだ、ということであった。ひとりひとりの立ち止まっているところを把握し、その手前までいって、さいごの一歩を自分で跳ばせるなら、「わかる」ということが実現するのだということであった。

  このような教育を生み出したのは、部落解放運動とその教育要求であった。それは教育要求から労働する権利の実際の実現へ向かう、生存権そのものの闘いであった。それは、近代日本資本主義がその発展に必要とした選別の体系に対して、小・中等教育の内容を根本的に見直そうとする内容をもっていた。つまり解放運動の教育要求を実現するためには、近代日本資本主義の教育政策と根本的に対決しなければならない内容をもっていた。

  人間というのは、わかるとうれしいし、この喜びは人間の本質的で本能的な喜びである。授業というのはこの喜びを体験する場なのだ、ということを経験した。わかる直前は苦しい。しかし本当に問題が自分のものになっていれば人間は考える。生徒の水準よりうんと下から説けば、わかることはわかるが、わかった喜びは体験できない。大切なことは、問題を適切に設定し、何が問題なのかを本当に理解させ。そして自分で考えるようにすることである。苦しくても考えずにはおけないように問題を理解させることである。そこをせずに、何もかもこちらで喋っては、理解はできるが、納得できないままになり、数学の力はつかない。

  私は、さまざまな高校生を相手にしてきたが、しかし共通しているのは、みんな「わかりたい」、「わかってにっこりしたい」と切実に願っていることである。わかってにっこりすれば、生徒は絶対に荒れない。いま学級崩壊がよく問題になる。問題の根は社会的なもので深いのだが、一方で、わかってにっこりできる授業を実現する学校側の教育力が低下して、それを補おうと力で押さえ込もうとするから、ますます荒れていく。

  日本の教育は、わかってにっこりしたいという生徒の秘めた願いとはまったく逆の方向へ進んでいる。高校教員時代の経験は、わかるためには、はじめにたち返らなければならず、そこをとばしてうわべを感覚的に教えてもだめだ、ということである。ところが、日本国の官僚は、日本の数学というものに対する考えも定まらず、数学を教えるということの経験に乏しく、生徒の数学力が低下していることに対して、本質的な部分を感覚的な説明に置き換え、そうすることでわかりやすい教科書になると言いふらしている。しかしそれでは、わからないときにたち返る根拠がいよいよなくなり、教えるにも土台なしに感覚的にしか教えられない、ということになる。こうしてますます分数のわからない高校生を増やしている。

  これはすべて、日本国の教育のなかに構造的に組み込まれている愚民政策の結果である。また、指導要録がたびたび改変され、一貫したものができない根本には、数学の意味についての確かな理解が打ち立っていないという事実がある。したがってまた、学校教育で数学をどのように位置づけ、どのように教えるのかについても、統一していない。 ここで教える技術を身につけたことは、後に路頭に迷ったときに身を助けた。


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