一九八七年、歌手のさだまさしは『風に立つライオン』のなかで、「やはり僕たちの国は残念だけれど大切なところで道を間違えた」と歌った。二〇一一年三月十一日にはじまる東電核惨事は、それがまさにその通りであることを、再び事実で示した。
これはしかし、人類史における近代化という歴史過程での「間違い」であり、現れ方は固有性をもつが、問題は普遍的である。この近代化過程における「間違い」を掘り下げて考えることが、本稿の意図である。
人はこの世界に生まれて、そのときどきの歴史のなかで、なし得ることを精一杯おこなって、次代に生を引きついでゆくものである。
二〇一五年夏から秋、日本ではいわゆる戦争法案に反対して多くの若者が立ちあがった。彼らの叫びを、私は次のように聞いた。
俺たちは資源ではない、兵器ではない、人だ。
彼らはそれぞれ自分自身の経験を踏まえて自分の言葉で語ろうとしていていた。その声は、民主主義とか立憲主義とかのいわば資本主義の発展期の理念を述べながら、その実、それを遙かに超えて、資本主義の人性否定を告発するものであった。
この数百年、奴隷貿易から植民地支配、そして産業革命から近代資本主義の時代、さらにその資本の論理が徹底された新自由主義の時代、人は経済のための資源とされてきた。
一九七〇年代、日本の教育分野でも「人的資源の開発」という思想が浸透し、それは日本社会そのものの支配的な思想となった。その背景には、社会主義陣営の崩壊の後、資本主義が社会主義の前で自己規制する必要がなくなり、資本の論理をそのままに主張する、いわゆる新自由主義資本主義の浸透があった。
しかしでは資本主義はさらにこのまま展開しうるのか。そうではない。地球は有限である。資本主義は拡大し続けなければ存在しえない。よってそれは終焉を迎えざるを得ない。今日、唯一拡大しうる分野は兵器産業である。強欲資本主義は戦争で儲けるしかなく、紛争をあおりファシズムに走る。現代世界の紛争はこのファシズムが作りだしたものである。
二〇一七年になって騒々しくなった北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の問題もまた、背後では、日本や韓国に膨大な兵器を買わせることを目論む国際的な軍需産業の手が動いている。戦争とは常にこのようにして起こる。よってこの問題も、抑えるのではなく対話する政治を生み出さなければ、つねに戦争の危機がある。
しかし軍需産業以外にもはや拡大する分野をもたないこと自体が、資本主義の終焉を指し示している。資本主義の本家である帝国アメリカは、まさに現代のローマ帝国、それも凋落と崩壊の過程にあるローマ帝国である。
その帝国アメリカの崩壊過程の意味は何か。その過程とは、資本が人を資源として使う段階から人が経済を方法とする段階への転換である。
崩壊する帝国はファシズムをまき散らし、世界に惨禍をもたらす。福島原発の核惨事は日本の二度めの敗北である。しかしいまだ世のあり方を変えることには繋がっていない。それどころか、為政者はこれをショックドクトリンとしてテコに使い、ファシズムに突き進んできた。それが現在である。もう一度福島核惨事の原点にたちかえれ。
やつらを通すな。