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もの

もの(物、者)[mono]

◯宇宙空間としての「ま(間)[ma]」と大地としての「な(地)[na]」、つまり[mana]、これが世界である。この「まな」は「もの[mono]」からなる。「もの」があることで「まな」がある。

「もの」は「ところ[tokoro]」《場》としての「まな」を「つくる[tukuru]」。「ひと[hito]」は「もの」の「こと」を「かたる」が、「もの」そのものを変えることはできない。

ものは、ひとのちからでかえられない定めであり、きまりの根拠である。

※タミル語<man>に起源。タミル語は世の定めや決まりという意味である。それが縄文語と混成するなかで熟成した。

◆ 宇宙空間としての「ま(間)」と、大地としての「な(地)」、つまり「まな」、これが世界である。この「まな」は「もの」からなる。「もの」があることで「まな」がある。

「ひと」は「もの」の「こと」を「かたる」が、「もの」そのものを変えることはできない。ものは、ひとのちからでかえられない定めであり、きまりの根拠である。

「もの」は変えることのできない定めであり、人の世の定めまですべてをつつむ。定め、きまりの意味のタミル語が、熟成し、意味が深まり、定めやきまりの根拠として、人が見ることができるすべてのものを「もの」という。さらに思いをかけるすべてのものを「もの」という。見たり思ったりするその視線にあるものが、「もの」である。

「もの」を「もの」としてとらえるのは、「見る」働き、あるいは「思う」働きである。そして見たもののことを言葉で切り取る、つまり考える。逆にこの認知作用が成立するものすべてが「もの」である。これが第一義である。

諸々のことが生起する土台にある「もの」は、人の力の外にあり人が変えることはできない。ここから既定の事実、避けがたいさだめ、さまざまの規範などを表す。しかしまた「もの」は人に対して無関係に存在するのではなく、逆に人との関係においてつかまれ、人をひきつけるとともに、ひきつけてはなさない力のある存在である。これが第二義である。

「もの」は、物と心を切り離す二元論の「物」とは異なり、「思い」と切り離されない。「もの」はそのものへの「思い」を引き起こし、見る者のいのちに関わる力あるものとしてとらえられる。つまり「もの」は人に働きかける。もの自体が人が恐怖し畏怖する対象となる。この意義を吟味し、ここに蓄えられた先人の智慧に注目しよう。


第一、「もの」は確かにある。見たり思ったりすることができるものが「もの」である。すべてものは人と係わり、人と係わる一切がものである。ものとは思いをよせる方にあるすべてのものをいう。「もの」を「もの」としてとらえるのは、まず「見る」働き、あるいは「思う」働きである。そして見たものを言葉に切り取り名づける。逆にこの認知の営みが成立するすべてのものが「もの」である。思うことによってものとして切り取られ名づけられてものが成立する。これがものである。

第二、ものはそれ自体で存在している。人がものに思いをかけ、もののことを考えるのはなぜ可能か。それはそこに、ものが確かにに存在しているからである。それがものである。そのものは、諸々のことが生起する土台にあり、人の力の外にあり、存在をなくすることはできない。ものはもの自身の力で動いている。であるがゆえに、人がものを思うのは、実はものにひきつけられてはじめて起こる。ものは人をつかむ。ひきつけてはなさない力のある存在である。

第三、人もものである。人もまたもののちからで生きる。ものを思い、もののことを考え、ことの内容を聞きとる。それはものが人にはたらきかけることであり、人はものからのはたらきかけを受け、人生を変え、そしてものを動かす。人あってのもの、ものあっての人である。ものは人と無縁に存在するのではない。切実な働きかけと真剣な受けとめ、そして決断、こうして、人は無限に向上する。これが人生である。

※「もの」に対して「こと」は生きた動きである。「こと」が成立している「とき」から我にかえって人は「こと」が成立する前提として「もの」の存在に気づく。人にとって「もの」は「とき」を超え「こと」によらず存在する。

▼何らかのものを表す。個体として分節して認識されるすべての存在をいう。ものと判定するのは認識であり、人がものとして認識するのである。しかしそれが可能である根拠は人の力を越えている。◇「ものがなくなる、他人のもの」◇「ものに襲われる心地がした」◇「かれはほんとうにものの上手だ」◇「君はものを知らない」◇「かれはものをあまり言わない」◇『万葉集』八九二「いとのきて短きものの端切ると言へるが如く」◇『万葉集』二一八一「雁が音の寒き朝明の露ならし春日の山を黄葉(もみ)たすものは」◇『万葉集』三七六五「まそ鏡かけて偲へとまつり出す形見の物を人に示すな」

▼力を越えた存在。人がどうすることもできない不変・不動の原理や存在。◇『万葉集』七九三「世の中は空しきものと知る時しいよゝますます悲しかりけり」◇『万葉集』三五七九「大船に妹乗るにあらませば羽ぐくみ持ちて行かましものを」◇『万葉集』四一〇九「紅は移ろふものそ椽(つるはみ)の馴れにし衣になほ若かめやも」

▽相撲の「物言いがつく」は、「異議を唱えることであり」、相撲の原理に照らして勝敗の判断に異議あるときになされる。「ある立場の人がお互いの関係のあり方として当然言わなければならない」言葉、原則的・原理的な言葉である。

▼詞の機能として、「言う」や「思う」の前に置かれることによって、明確には言えないが意識の対象となる存在を指し示す。この「もの」がおかれることで「言う」や「思う」が概念としての「言う」や「思う」ではなく、具体的で現実的な行動であることが意味される。

◇『万葉集』巻十四・三五二八「水鳥の立たむ装ひに妹のらに物言はず来にて思ひかねつも」
◇『万葉集』巻十六・三八五三「石麿に我物申す夏やせに良しといふものぞ鰻(むなぎ)とりめせ」
◇『万葉集』巻三・三四一「賢しみと物いふよりは酒飲みて酔泣(ゑひなき)するしまさりたるらし」

▼人を表す。この場合人をものに見下す気持ちがこもっている。◇「あんな者のいうことなど信用できない」

▼構造のなかで用いられる。◇出がけに不意の客がきたものですから。女ですもの。いじめるんだもの。(これらが他律的な表現を取りながら、実際には強い断定の表現ととなるのは、人の力を越えた「もの」の働きとしてそうであること述べることによってである)。◇(接頭語の「もの」)ものおそろし、ものおもしろし、ものがなし。◇『万葉集』巻十・二一三七「朝(つと)に行く雁の鳴く音は我が如くもの思へかも声の悲しき」
◇『万葉集』巻十五・三七八一「旅にしてもの思ふ時に霍公鳥(ほととぎす)もとな忽鳴きそ我が恋増さる」◇『源氏物語』明石「三昧堂ちかく、鐘の声、松風にひゞきあひて、物悲しう」

※「もの悲し」と「悲し」の違い
これは単に程度の違いということではない。
『源氏物語』須磨「はつかりは恋しき人のつらなれや旅のそらとぶこゑのかなしき」(「悲し」は何が悲しいのかはっきりとしているときにそのものの属性として述べる。「もの悲し」はそのものによって引き起こされた自己の「思い」を述べる)

−【もの知り】「もの」の「ことわり」を知りうる人のことである。おおくのもののことを知っているだけではなく、「もの」の意味、本質、内容、つまりことわりをつかんでいてはじめて「もの知り」なのである。

◇竜田風神祭祝詞「百の物知人等の卜事に出でむ神の御心は」◇(現代沖縄)「ムヌシリ、ムンシル(もの知り)」は巫覡を指す◇(岩手・宮崎)祈祷師、占い師を「モノシリ」。

−【ものがたり】「もの−かた−る」で、「かた」つまり「形」がさだまり「型」に定式化されたことを述べる「語り」に、「もの」が接頭語としてつくことで、「世の原理・法則を知らしめるためにのべる」ことを意味する。「ことのかたりごと」(古事記「八千矛神の歌」「天語歌《あまがたりうた》の結び)は一回的な歴史的な事件についての語りを言う。また沖縄語「むんがたい」で昔話を言うが、これは「物語」そのものである。

◇『源氏物語』蛍「(ものがたりとは)神世より世にある事を記しおきけるなり。日本記などはたゞかたそばぞかし」