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いのち

いのち(命)[inoti]

◯いきのはたらいているものを「いのちあるもの」という。いのちをいのちとするこの根元的な働きがいきである。
いのち[inoti]は「い[i]」「の[no]」「ち[ti]」からなる。「い」は食べ物。「の[no]」の動作形は「ぬ[nu]」で大地(「な[na]」)からものを得ること。つまり「いぬ[inu]」は生きるうえでの糧を得ることであり、「いの[ino]」はその行為がなされる場であり、またその行為の主も表す。

このように[in]は「いね(稲)」、「いのち(命)」、「いのり(祈り)」などに共通の不変部。[ti]は手[te]の行為を起こさせる大元を示している。「霊(ち)」と書く。

◆ものが糧を得て生成発展することが、生きるということであり、このときそのもののことを「いきもの」という。いきることの根拠としてのはたらき、それがいのちである。

いのちはものの一つの存在形式。「もの」が「いき」により「いきもの」となる。そのことを「いのち」という。「もの」が「いき」を根幹にして「もの−こと−いき」の三位一体構造において存在するとき、この存在を「いのち」という。 「いのちある」というそのいのちそのものは言葉にならない。世界が、動き、生き、響きあい、輝き、生まれ死に、興り滅びしている。それはいのちの発現である。人がいのちあるのもまたいのちの発現である。

いのちは深い。いのちの発現は、つねに、ことをわるはたらきという形でおこなわれる。それが人の存在の基本構造である。

人のいのちがはたらくとき、そのところで、ことは言葉となる。いのちは、ときであり、世界の輝きであり、世界の意味である。ものはたがいにことわりをやりとりしている。つまり、ともにはたらく場において「ことわりあう」。「語りあい」、「語らい」である。ものが語らう、これが世界である。ものが語らい響きあうとき、そのことそのものとしてことわりはひらかれる。

ものの内での語らい、もののあいだの語らい、この語らいこそが内部からことを明らかにする。語らうことによってものはより高くまた広いところに立つ。問題自身のなかから解決の道を見いだすことができる。人もまた、語らいによって、独りよがりな思いこみから解放される。語らいこそ世界を動かす力である。

※タミル語がはいる以前から食べ物としての「い[i]」ということばがあり、ここに[oki]から[iki](息)に母音交換したタミル語が入って、熟成した。

またタミル語には<uy-ir>(生命)があり、[uyi]は日本語の音の中では[i]に収斂する。これがタミル語の[aci](魂・心)と結びついて[i-noti](生きるものの魂)と熟成した。

▼生きものを生きものたらしめる根源的な力。

◇『古事記』中・歌謡「伊能知(イノチ)の、全けむ人は…くまがしが葉をうずに插せ」

▽寿命 ◇『万葉集』二四一六「ちはやぶる神の持たせるいのちをば誰がためにかも長く欲りせむ」

▽一生 ◇『伊勢物語』一一三「長からぬ命の程に忘るるはいかに短き心なるらむ」 ◇『雨月物語』貧福論「いのちのうちに富貴を得る事なし」

▽運命。天命。 ◇『古今集』九七「春ごとに花の盛りはありなめど相見んことはいのちなりけり」 ◇『新古今集』九八七「年たけて又こゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山」

▽死期 ◇『日蓮遺文』「これを申さば、必ず日蓮がいのちとなるべしと存知せしかども」

▽唯一のたのみ。唯一のよりどころ。 ◇『後撰和歌集』一九三「夏の草葉に置く露をいのちとたのむ蝉のはかなさ」

▽(近世の用法)そのもの真髄。一番大切なもの。 ◇『黄表紙・江戸生艷気樺焼』上「刺青〈略〉をし、痛いのを堪へて、ここがいのちだと喜びけり」

▽相愛の男女が互いに二の腕へ「命」の一字、または「誰々命」と入れ墨すること。また、その文字。多く遊里に行なわれた。現代の若者もこれを真似て用いる。

※「いのち」は近代資本主義のなかで再発見される。ものを生産し価値を生み出す労働の源泉としての「いのち」である。資本家の側からいえば「殺さず、生かさず」の内容としての「いのち」である。近代になって再発見された「いのち」を普通は「生命」という。そして「ひと」もまた再発見され、それを「人」という。