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こころ

こころ(心)[kokoro]

◯くくる(括る)[kukuru]はたらききのもとになるのがこころ(心)[kokoro]である。もとになるのは、ものであることも、ことであることもある。くくるとは,「くる」のくりかえしである。くる[kuru]は「やりくり」に残るように、食べもの[ke]をまとめることであり、そこから生きるために手をつくすことである。それはまた言いかえれば、人の体をくくり一つにまとめて生きるためにはたらかせるものが心である。

つくる(作る)[tukuru]場がところ(所)[tokoro]となるように、くくる場としてのこころでもある。くるむ[kurumu]ものがころも(衣)[koromo]であるように、こころはくくるはたらききを成りたたせるものでもある。

くくるはたらきは、「ものに思いをよせ、そのもののことを考え、そしてそのものをくくる」というみちで、なされる。それをふまえて人は生きる。これがこころはのはたらきのそのものである。このはたらきをなすものをこころとしてつかむ。

くくるはたらきは、「ものに思いをよせ、そのもののことを考え、そしてそのものをくくる」というみちで、なされる。それをふまえて人は生きる。これがこころはのはたらきのそのものである。このはたらきをなすものをこころとしてつかむ。漢字で「心」をあてる。

この基本からひろがって、心とは、人の内にあって、その人の感情や思ったり考えたりすること、またそのもとで行動し、活動すること、つまりあらゆるいのちとしての営みを統括している働きであり、またその内容そのものである。心は人が生きるうえでなくてはならないことをおこなうものであり、またそれがおこなわれる場でもある。これより展開して、人がこの世界で生きていくにあたってのはたらきをつかさどるものを指し示す。機能的にとらえられることもあれば、実体的にとらえられることもある。おもいがものによってひきおこされ人の内にこもるのに対して、こころは外に向かって働きかけていこうとする。

「心の底から笑う」、「心の底から納得する」という表現がある。「心の底」とは心がいのちとつながる場であり、「心の底から」は、いのちのいとなみと心の働きが一つとなったことを言う。人は心の底からわかったとき、にっこりする。

※タミル語に<k-ol>があり、(つかむ、、得る、内に含む、かき集める、考える)などの意味をもつ。これが [kukuru]につながり、そのはたらきをする[kokoro]となった。

◆心とは、人の内にあって、その人の感情や思ったり考えたりすること、またその下で行動し、活動しすること、つまりあらゆる生命としての営みを統括している働きであり、またその内容そのものである。心は人が生きるうえでなくてはならないことをおこなうものであり、またそれがおこなわれる場でもある。これより展開して、人がこの世界で生きていくにあたってのはたらきをつかさどるものを指し示す。機能的にとらえられることもあれば、実体的にとらえられることもある。おもいがものによってひきおこされ人の内にこもるのに対して、こころは外に向かって働きかけていこうとする。

たま(魂)のもとにこころがあり、ことのもとにことば(詞)がある。魂が心においてことを詞にするのである。これが人が生きる形である。人が生きるうえでやり繰ることはまことに多方面にわたり、この世の営みそのものである。そのゆえにやり繰るもととしてのこころの意味もまた多義にわたる。さらにまた心は仏教思想、中国諸思想、そして近代思想のもとでさまざまに意味を広げた。それは意味が変わったということではなく、人の営みのつかみ方の幅が広がることに応じて意味の幅もまた広がったのである。しかしそれでも、括るはたらきをつかさどる人のうちのはたらきとしての「こころ」の基本構造は変わっていない。

※近代日本語は、ドイツ語の Begriff を「概念」と置き換えてきた。これは「思考」と同様に、翻訳語ではなく単なる漢字造語である。そして、「哲学」と同様、これも西周の造語である。Begriff の動詞は begreifen でこれは「理解する」である。ならば、ここは日本語もドイツ語も人の言葉として同じ構造をしている。つまり begreifen こそ「くくる」ことであり、そうであるのならばその名詞形は「くくり」である。

「怒る」に対してその連用止めの名詞形「怒り」があるように、「くくる」に対して「くくり」があり、この言葉こそが Begriff を日本語に翻訳した言葉と言える。このような訳のなされる近代、これはもう一つの近代の可能性を示唆している。

◇それにしても人とは不思議なものである。この不思議を神を仮においてそこに帰するのではなく、不思議のままとらえようとするところにこころということば(詞)がある。

こころは今日では情的な面から用いられることの多い詞となっている。しかし、本来はくくるはたらき、括弧にくくるはたらきであり、ことをわったなかに抽象を通して新たな概念を生みだすはたらきであった。ことわりを実行する機能としてのこころを、もういちどつかみなおしたい。

▼心臓そのものを指す用例が伝えられている。 ◇記紀歌謡「大猪子(おほゐこ)が腹にある肝向ふ心」

▽いわゆる精根、気力の意味もこの体の機能としての心である。 ◇『万葉集』四二一六「よのなかのつねなきことはしるらむを、こころつくすな(情盡莫)ますらをにして」

▼こころをことを内包する実体としてとらえる。 ◇『古事記』下・歌謡「大君の許許呂(ココロ)をゆらみ」 ◇『万葉集』三四六三「ま遠くの野にも逢はなむ己許呂(ココロ)なく里のみ中に逢へる背なかも」 ◇『古今集』仮名序「やまと歌は、人のこころを種として、よろづのことの葉とぞなれりける」

◇『古今集』四二「人はいさ心もしらずふるさとは」 ◇『伊勢物語』二「その人、かたちよりは心なんまさりたりける」 ◇『新古今集』三六二「心なき身にもあはれは知られけり」 ◇「暖かい心。心が騒ぐ。心を鬼にして叱る。心が動く ◇「心ここにあらず」

▽「こころを場としてとらえる」 ◇『源氏物語』夕顔「我がいとよく思ひ寄りぬべかりし事を、譲り聞えて、心広さよ」 ◇「心にしまっておく」 ◇「そんな狭い心でどうするか」

▼何か目的を持ってしようとする「こころ」。思いやりをいうことも、外に隠した本心をいうこともある。 ◇『万葉集』五三八「心あるごとな思ひ吾が背子」 ◇『古今集』三八七「命だに心にかなふ物ならば」 ◇『土左日記』「この来たる人々ぞ、こころあるやうには言はれほのめく」 ◇「二心」「下心」「水くさい心」「異(こと)心」「あだし心」 ◇「気心が知れない」 ◇「旅心が騒ぐ」「絵心がある」 ◇「心構え」「心づもり」

◇「『○○とかけて××と解く。その心は』『□□』」 「○○」がどのようなくくりで「××」といえるのか、その根拠が「□□」である。くくった内容を「心」といっている。

▼内面の傾向としての「こころ」。気分、感情、誠意、機嫌、等。 ◇『万葉集』三三一四「そこ思ふに心し痛し」 ◇『古今集』五三「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」 ◇「心がふさぐ」

▼ことわりする「こころ」。知的なはたらき。 ◇『枕草子』八三「よも起きさせ給はじとてふし侍りにきと語る。心もなの事や、と聞く程に」 ◇「心当たりがない」 ◇「その心は」

▼比喩的に「もの」の「こころ」をさす。 ◇『源氏物語』絵合「四方(よも)の海の深き心を見しに」 ◇『古今集』仮名序「古へのことをも、歌のこころをも知れる人」 ◇『古今集』仮名序「言の心わきがたかりけらし」