◯「かず(数)[kazu]」と「あう(合ふ)[afu]」が複合して[ua]が[o]に転じた。 言葉の構成からは「数」が先行する。しかし、人間の数をつかむ過程からは「数える」という行為が先行する。数えることと平行して「量を量る」という行為が形成された。
◆「数える」は「数を合わせる」、つまり一つ二つと数を合わせてゆく意味である。その意味するところを、『青空学園』−『数学対話』−「量と数」に述べられていることを再構成し、確認する。
人間が力をあわせて働きはじめたとき、言葉が獲得され、考えることがはじまり、それを土台として量の意識が形成される。あの山の麓まで行ったときとあの川辺まで行ったとき、体の疲れ方が違う。それは一体何が違うのだろうか。その違いをもたらす根拠として山の方が「遠い」、川の方が「近い」。さらに進んで疲れの違いをもたらす要因としての「遠さ」が認識されていく。量はまず比較にはじまる。
さらに「高い−低い:高さ」が知られ、どこかで「遠さ」と「高さ」に共通する「長さ」へ飛躍していったに違いない。ここに至るのに行ったどれだけの時間がかかったことだろうか。耕す土地の広さもまた、仕事の量として認識されていったのだろう。「広い−狭い:広さ」である。入れものに入る水の量から、容器の「大きい−小さい:大きさ」が知られ、この量がまた、岩の「大きさ」と同じ量であることがどこかで認識されたのだ。「広い」という言葉はすでに万葉集に出てくる。「天地は比呂之(ヒロシ)といへど」(『万葉集』八九二)。それに対して量としての「大きい」は比較的新しい。室町時代以降よく使われるようになった。それだけ抽象的である。
このように人間は身体の感覚を基礎として比較を可能にする根拠として量をつかむ。より一般な量を抽象していった。それにしても「広い−狭い」の本質を「広さ」と言い、あまり「狭さ」とは言わない。「高さ」とは言うが「低さ」とは言わない。「短さ」、「小ささ」とも言わない。これは、はるかな昔から、人間が量の方向性と増大の方向を意識していたことを示している。
ただし、それを「量」一般として認識するのはまた別のことがらであり、長い年月を要した。結論的に言えば、量そのもののは近代においてはじめて認識された。それとともに量にもいろいろな種類のあることが改めて認識された。
もう一つ人間にとって大切な働きが「かぞえる」ということである。「かぞえる」という言葉は古い。「か」は「十日(とうか)」「二十日(はつか)」に今も生きている「か(日)[ka]」を「なす[su]」から[kazu]が形成され「数える」になることが関係ありそうである。つまり、「かぞえる」のはじまりは「日にち」を数えることと関係しているのではないだろうか。植物の生長を待ってその実を採集する文明では、日にちが過ぎていくことは大変重要なことであった。「出でて行きし日を可俗閇(カゾヘ)つつ」(『万葉集』八九〇)。「かぞえる」ことから「かず」が抽象され、自然数が獲得されるまでには長い月日が必要だった。このように日にちの運行の認識が数えることのはじめかも知れない。序数としての自然数である。
「多い」という言葉も古い。「恋しくの於保加流(オホカル)我は見つつ偲(しの)はむ」(『万葉集』四四七五)。「おおい」は「命長ければ、辱おほし」(『徒然草』)のように「何々が−多し」の形で用いられてきた。この例では「辱が大きい」のではなく「辱をかくことが多い」という意味である。このように「多い−少ない」は「はかる」ものではなく、回数や個数を「かぞえる」ものである。
序数から個数に対応する基数へは、どのような過程を経たのだろうか。長い長い時間が経過した。それを子供は成長の過程で反復する。3枚の皿に3個のみかんをひとつずつおいていけば、皿が余ったり、みかんが余ったりすることなくちょうど1枚の皿にみかんが1つずつおける。このような経験のなかから3枚の皿と3個のみかんは何かが「同じ」だ、と気づく。何が同じなのかと考えて「個数」が同じだ、と知っていく。「3枚の皿」と「3個のみかん」が同じ「3」であることが分かるとき人間は自然数「3」を知る。
序数から基数への過程は平行して深まった。「数える」という「数を合わす」行為のうちにすでに数がつけられたものを合わせてゆくという基数の考えがはじまっている。このような個数の発見は、実際はもっと生産に直結した場で起こったに違いない。毎朝放牧した羊と、夕べに帰ってきた羊が同じだけあるのかどうか、数そのものを知らない段階ではどのように判断するか。羊が小屋を出るたびに石をひとつ並べていく。帰ってきたときは、羊が小屋に入るたびに石をひとつ除く。こうしてちょうど最後の1頭が戻ったとき最後の石が除かれれば、増減がなかったことがわかる。石を並べることが長く続いた後、並べられた石の個数としての数を発見したのだ。
具体的なものを数えることが長く続き、そのうえに「数えているものは何なのか」を問い、はじめて「数」を見出す。この「数」と順序としての「数」が同じ言葉でなされうることの発見もまた、長い時を要した。これが基数としての(自然)数である。
このようにして人間のものになった数が、親から子へと伝えられて、子供は数を身につける。大人からの伝達の作用によって、人類の長い歴史が凝縮されて、子供のなかで反復される。
※「数える」、「かず」はタミル語が入るよりもはるかに古い。おそらく、世界を分節してつかむ言葉の誕生し豊かになる過程と平行して,量と数の認識とその分節も深まった。、
◇『万葉集』八九〇「出でて行きし日を可俗閇(カゾヘ)つつ」
▼一つ一つ並べあげる。列挙し数えあげる。 ◇「村の名士に数えられる」 ◇『源氏物語』夕顔「なにがし、これがしとかぞへしは」
▽ものの数に入れる。ある範囲内の一つとして数に入れる。数え入れる。 ◇『源氏物語』関屋「なほ親しき家の中にはかぞへ給ひけり」
▼あれこれとはかり考える。商量する。 ◇『源氏物語』胡蝶「こころざしのおもむきに随ひて、あはれをもわき給へ。労をもかぞへ給へ」
−【かず(数)】
▼一、二、三…など順序を示す呼び名。序数。ものの集まりの量を、もの一つを基準に量った数。基数。
▽いくつか ◇「数ある中から君を選んだ」 ◇『栄花物語』鳥の舞「今我等かずの仏を見奉りつ。これおぼろけの縁にあらず」
▽ものとして認め基数に入れることが出来ると判断されること。
◇『源氏物語』須磨「たかき人は、われの何のかずにもおぼさじ」
◇「ものの数にも入らない」