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原点の経験

私は1973年の秋から高校生に数学を教えはじめた.1974年の新学期,担任したクラスで教壇に立った.授業をやっていて何かおかしいことに気づいた.クラスの何人かは分数の計算ができない.それに気づいてすぐに分数計算も授業でやろうとしたが,今度はできる側の生徒たちから,分かりきったことに時間をさかずに先に進んでくれと反発を受けた.新米教師の私は大いに困り悩んだ.

そこで,分数計算ができるという生徒に聞いてみた.「分数の積が,分母と分母,分子と分子をかければよいのはなぜか.理由が説明できるか.」彼らは計算方法を知っているだけで,それには答えられなかった.そこで私は,いわゆる水道方式に依って,分数の定義にたち返って,そこから四則計算の原理と方法に入った.

皆はじめての話ばかりで,よく聞いてわかってくれた.そこで,わかってにっこりした顔が忘れられない.はじめてクラスとしてまとまり,ひとつの授業ができた.ここから,教えることについて実に多くのことを学んだ.十数年ほど前,卒業以来28年ぶりにその頃の教え子に再会した.すぐその話になり「高校でもう一度分数を習うとは思っていなかったが,面白かった」など,よく昔のことを覚えていてくれた.

「ああ,そうか」という経験を通して,その人自身が変化する.それが人の知るという営みであり、そこに喜びがある.まさに体でわかるという経験である.この経験を得る場こそ,授業の場である.人は,わかるとうれしいし,この喜びは人の本質的な喜びである.それが「学問としての高校数学」であり,生きた学問である.「理解はできるが,納得できない」という段階からの飛躍である.

「分数のできない大学生」という報告はよくある.しかし,問題はそこでその教員が何をしたかである.その実践ぬきの報告は空しい.私自身は,試行錯誤を経て,授業というのはこの喜びを体験する場なのだということを経験した.そしてまた指導方法としての数学教育の難しさと醍醐味,これを実地に経験した.

高校教員になって半年後のこの経験は,その後,他のところで教えるようになっても生きている.問題を正しくつかませる.何が問題かがわかれば生徒は自分で考える.そこまで導き,そして一段飛躍させる.そうすると「わかってにっこり」できる.すべてを喋ってはいけない.その間合いが難しい.これはまた,大学の基礎科目の講義についても言えることである.

しかし,今日,日本の小学校,中学校,高校,そして大学初年級の授業で,講師の語ることを理解し,そしてわかることで,聞くものがにっこりすることがあるだろうか.

これに関して,2018年に開かれた日本数学協会の講演会で,有田八州穂氏が「ほんとうはむずしい算数」と題して問題を提起された.それが同年7月31日付の会報第55号に紹介されている.

     有田氏の「ほんとうはむずかしい算数」の話は、この太田氏の話に続く今に至る算数の直面している問題を提起したものと言えます。

     1941年(昭和16年)にだされた国民学校令に始まる、国が教育の方向性や内容、ひいてぱ解き方"までをも画―的に決めていってしまった結果、現在の算数の学習につながってるのではないかと氏は考えます。「算数」という教科名自体がそれを表していると言います。つまり、戦争に向かうための「よき少国民」づくりのために、「計算と公式に特化した、考えない=説明しない・考えない算数」にしてしまったのだというのです。それが、「効率的」であることと「早くて簡単で1個だけの解き方」の算数学習を生み出しているというのです。

     「ほんとうはむずかしい算数」を「簡単で分かりやすく正解が出やすい算数」としてしまっていいのでしょうか、「分数のわり算はなぜ逆数をかけるのか?」ということに何の疑問も持たずに、ボーっと生きていく大人になっていいのでしょうか!と氏は言うのです。

根拠を問うことを教えず,計算技術だけ教える今日に続く算数・数学教育は,具体的には1941年にはじまるのである.この歴史をふまえた上で,教室でこれを越える教育を実践する教員を育てなければならない.そして,それは可能なのである.ここに,教育数学の任務がある.



Aozora 2018-08-09