1973年秋、兵庫県の芦屋市で高校教員となった。私の働いた地域では、水平社運動、部落解放運動と教育闘争、勤評闘争、また綴り方運動などの歴史のうえに、六〇年代後半の世界的な青年運動の高揚を受け、中学生や高校生の教育権を打ち立てようとする闘いが広がっていた。そのなかで、障害者の高校教育を創造する仕事に取り組んだ。その後、この高校は行革という新自由主義政策のなかでこのような運動の継続が大変難しくなってゆく。事実を記録に残そうと、1987年2月、 地域の教育研究集会で報告した。これを発表して私はこの学校を離れた。その後この高校は、2007年3月廃校になった。このような教育の取り組みがあったことを歴史の記録として残しておきたい。[3] 2、はY先生の一文である。
芦屋市教育委員会は「芦屋市における障害児教育は間違っていた。普通高校に障害生を入れてきたが、十年経って全国どこにも広がらなかった。」との結論を内部的に出しているように考えざるをえない。
これに対してわれわれは、市芦でこの十年取り組んできた方向と考え方こそ、基本的に、今日の社会における障害者解放教育運動としてあるべきものと確信している。
一方、芦屋地域においても、障害児教育と障害者解放運動の方向について、実践的にも考え方においても、対立と論争がある。それは障害者差別とは何か、障害者解放とは何か、そしてその運動はいかにあるべきかをめぐる基本的な問題である。
われわれは、行政の進める分断・隔離政策と共同して闘いながら、内部においてはおおいに論争し、地域の教育運動を力強く進めていくことを願っている。そのために、市芦における事実を具体的に報告していきたい。
短い13年のこの期間に実に多くのことがあり、さまざまの試みが追求された。概略の歴史しかここに述べることはできない。
市芦の障害者解放教育は、70年代初頭の運動の高揚を背景に、部落解放運動、障害者解放運動の流れのなかで、始まった。直接的には、部落解放同盟芦屋支部が中心となって闘われた地域の教育闘争の力によって、現実のものとなったのである。つまり、1974年より、中学校障害児学級卒業生のSiが市芦に入学してきたが、それには、前史があるのである。
教師もまた、彼らの提起を受けとめ、彼らとともに、様ざまの交流をつうじて、障害者の現実にふれていった。この前史があったからこそ、1974年2月の「手をつなぐ親の会」の「地域の学校で教育を」という要求を受けとめてゆくことができたのである。
市芦では、障害児学級卒業生が入学してくるより以前に、「障害者解放研究部(障害研)」が、活動していたのである。以下にその間の経過をまとめる。
1970年11月 部落解放同盟芦屋支部等が「五項目要求」を提出する。
市芦の障害者解放研究部を卒業した者の進路はどうなってきたか。社会情勢の変化と障害の重度化の結果、民間企業に就職することは極めて困難になってきている。
一方、とりわけ障害者の仕事保障について、芦屋市は阪神間の各市とくらべてさえ大きく遅れている。市は行政責任を果していない。
回生 |
卒業年 |
名前 |
性別 |
進路 |
11 |
75年 |
Sa |
男 |
芦屋市役所 |
13 |
77年 |
Si |
男 |
民間企業(製造)→退職 |
14 |
78年 |
Ar |
男 |
民間企業(製造)→T作業所 |
16 |
80年 |
Ki1 |
男 |
民間企業(製造)→同(繊維) |
17 |
81年 |
Ar |
男 |
民間企業(食品) |
18 |
82年 |
Hi |
男 |
S郡Y町授産所 |
19 |
83年 |
It |
男 |
民間企業(事務) |
20 |
84年 |
N |
男 |
授産所(私立) |
21 |
85年 |
Ka |
男 |
労働福祉事業団 |
22 |
86年 |
Yg |
男 |
民間企業(クリーニング)→退職 |
障害者の進学保障生として入学した生徒は、市芦では普通学級に属ししつつ、普通学校に在籍する障害者として、障害研の一員として生活してゆく。授業はそれぞれの場合に応じて、HRで受けたり、取り出し授業で受けたりする。このような形は、学校制度としては不安定である。しかし、実はこのなかでこそ、障害者が人間として、育つことができたと言える。その土台にあるのが障害者解放研究部である。
障害者の解放は障害者自身の力によらねばならない。市芦障害者解放研究部は具体的な障害者の生きざまの問題としてそう考えてきた。障害研活動をとうして、障害者差別の厳しい社会に出ても、人間として立派に生きてゆける力をつける、ここにその意義と目的がある。
一口に障害生といっても、障害の種別も、度合も違う。その団結を言葉だけで作ることはできない。実際の行動をともにするなかでのみ可能である。
その一年の概要はどうか。
障害研は、一番初めから、行動先行でやってきた。実際の行動をとうして、障害者の互いにささえあう団結を作ってきた。
〈1〉人とつきあう勇気をつけたい
市内の中学の障害児学級を卒業したSiが進学保障生として入学してきたのは12年前のことである。彼は、入学して間もなくこんな詩を書いて、高校生活をはじめた。
ぼくは、やりたいことがたくさんある。
絵をかくのが好きです。
話によっては、本を読むのが好きです。
ちえとちしきときょくりょくと自由がほしい。
コーヒーやビールが好だ
ぼくの中にはもう一人のぼくがいる。
ぼくから見たもう一人のぼくは
天才だ
もう一人のぼくから見たぼくは
気にいらん人だ
僕は、もう一人のぼくがうらやましい
りゆうの一つは、もう一人のぼくは
よくできた人間だからだ。
そのSiは卒業をまえにして高校生活をふりかえって、作文を残した。
進学保障生として市芦に入学した。普通学級に籍をおいて、市芦での生活が始まった。中学の障害児学級では気楽だった。高校では気楽ではなかった。市芦にきて三年間の中で人とつきあう勇気をつけたいという気持ちになった。
中学3年間、障害児学級でともに学んできたFさんは、阪神養護学校へ進み、親しい友を誰ひとりとしてもたないSiにとって、市芦への進学はどこか敵陣へでものりこむような緊張感をあたえ、「三年間の中で人とつきあう勇気をつけたい」という決意が、いっそう気持ちをはりつめさせていた。
Siの入学にともなう加配教師として、この年初めて教師になった私は、普通高校への障害児の入学という全国にも例をみないとりくみにたずさわる気負いから、Siのはりつめた心と体をときほぐしてやることを忘れ、「がんばれ、がんばれ」と声かけすることで、さらにSiを追いこんでいた。
一年の夏休みも終わり、二学期になった。二学期になるとだんだん学校に行くのがしんどくなった。授業が難しくてついていけなくなった。特に体育はきらいだったからしんどかった。また、健常者と一緒に生活することがしんどかった。
2学期になり、3日ほど休みのつづいたSiの家に、クラスの生徒数人で遊びに行ったり、学期後半、一ケ月にわたるホームルーム討議をくみ、クラスに対するSiの気持ちを聞きだしたり、Siのことでクラスの生徒が動き考えはじめていた。しかし、そのことでSiが元気になったのかといえば、必ずしもそうではなかった。
「昼休み、Siが退屈そうにしてるから、俺が読んでいる漫画の本、おもしろいから読めいうて貸したろと思ったら、漫画きらいやいうて断わるんや。あんな奴しらんわ。」 「Siくん、私らがあいさつしたら、あんたもあいさつかえしてよ。」
Siと対等につきあおうとすればするほど、まわりの生徒のがわのいらだちが深まっていた。障害生をクラスに抱え込むことの難しさにつきあたっていた。小さい頃は、お互いに共有しあえた世界が、中学、高校と年齢が進むにつれて、各々の世界に分かれていく現実が否応なくのしかかっていた。
Siの六年後に入学してきた障害研のSuは、友だちのいない寂しさを、次のように語ったことがあった。「小学校のときは、よく友だちの家へ遊びにいったり、友だちがぼくの家に遊びにきたりしていた。中学校になったら、ときどき話をするぐらいになった。高校になって、町でその子にあったら、なんか変な目でぼくをみるんや。」
Siもまたこんなことを言っている。「学校をやめたいと思ったこともある。だけど、やめたら自分に負けたことになるので頑張った。一生懸命に通学した。養護学校に行ったほうが楽だったかもしれないが、市芦にきた方がよかったと思っていた。」
このままだとSiは学校にこれなくなってしまう。毎放課後、私はSiと話合い、ともに行動することを心がけていた。しっかり者のSiが、今までひとりで電車に乗ったことがなかったことや、市内を走る3本の電車の位置さえ知らなかったことなど障害生の持っている社会空間の狭さに気づかされたり、体育の授業がしんどいのは、柔道の基本である受身がうまくできず、それで「しんどい」ということがわかったりもした。
教師と生徒、一対一のとりくみであったが、とにかく学校をやめるという最悪の事態はなんとか抜けだせていった。翌年、中学の後輩3人が保障生として入学してきた。障害研のメンバーがふえ、再び障害研が集団として機能を始めた。障害研で生徒が支えあう関係も生まれつつあった。3年生になったSiは、先輩としての自覚も生まれ、高校生活になれたこともあり、落ち着いてきた。
卒業に当たり次のように高校生活をふりかえっている。
3年間の高校生活の中でいろいろなことがあった。楽しかったことは一年生の歓迎遠足。一人で電車に乗る訓練をしたこと。二年生の時は、体育の水泳が楽しかった。プールの水温が高かったので泳ぐのが楽だったからだ。文化祭で障害研の公演「象牙の櫛」という劇をしたのも楽しかった。
授業が速かったし、黒板からうつす字が多かった。言葉がわからなかった。できるならとりだしの授業にしてほしかったことが何度もある。「ぜんぶはわからなくてもいい、とにかく普通学級で頑張りなさい」と先生によく言われた。先生の言うことは納得できなかった。部落研の「分かる授業をしろ」のビラはよく目についた。部落研の要求は賛成だった。
とりくみまもない市芦の障害児教育のあり方について、Siはいろいろな問題を提起してくれた。学校へくるのが楽しいことは勉強するのがわかること、おもしろいこと。中学・高校段階での障害生と一般生の交流の難しさ、危うさをふまえ障害研という集団をつくりあげること。市芦にきた方がよかったと思っていた」と三年間を総括し、しかし、「養護学校へ行った方が楽だったかも知れない」と、たえず自分へ問い返し、卒業していったSiが、私たち教師にのこした課題である。
〈2〉「俺、ガイジとちがう普通や」
Siが市芦を卒業し、10年が経過した。この間、芦屋地域の障害児教育は大きく変わってきた。I町に住んでいたSiは、山手小学校、精道中学校と、本来の校区ではない学校で義務教育を学んできた。障害児をうけいれる学校が限られていたからだ。今では、すべての小学校、中学校が障害児をうけいれ、とりくみが地域に根ざしたものになってきている。
また、普通高校に通うことで「人とつきあう勇気をつけたい」という当時のSiの気負いに違和感を覚えさせられるほど、共同教育が大きな流れとなっている。そのなかで、市芦の障害研活動を誤解し「障害研があるから差別があるのだ。」というまったく誤った考えも出てきている。
しかし、Siにつづく50名の障害研生徒のひとりひとり、障害研で活動することで学校に通えてきた生徒たちのことが思いうかぶ。そんな生徒のひとりにOz(Siの9年後輩)がいる。
Ozは小・中学の9年間、普通学級で学んできた。教室での落ち着きのなさや、集団になじめないこと、勉強についていけないことなどの理由で、障害児学級の指導をうけたらという教師の話が親へあったりしたが「普通学級のなかでもまれることがいちばん」という医師の指導もあり、親は普通学級で頑張らせてきた。 全国的に「いじめ」が大きな問題となり、また「登校拒否」の生徒がふえる状況が蔓延しており、芦屋市も例外でなかった。
中学になり、クラスの「ワル」たちにOzは強烈な羨望を感じ、「われ」「だぼ」「しばいたろうか」とわめき床に唾をはき捨てる言動をまねた。本心とはうらはらに、人にきらわれることを言いまくるOzは、かっこうのいじめの対象となっていった。いじめがこうじけがをすることも再三で、一時期は、毎日母親が学校に様子をみにくることもあったという。
アホぬかせ 幼稚園や 高校生のねうちないわ
高校生にもなりやがって ホームルームにもよう行かんのか
クラスの子がこわくて、よう行かんのか
ホームルーム行かんとって えらそうにいうな
クラスの子なんかこわくねえ あんな者ただのガキやないか わかってんのか
普通学級だけで生活し、集団にもまれることで、まわりにいる子としっかりした人間関係がむすべていったのかといえば、そうではなかったように思う。いじめは集団からの排除行為であり、Ozの内にたまっていく疎外感は、普通学級への帰属意識のみつのらせ、仲間としての障害児に出会うことはなかった。
天才
N,A,T,オレは天才だ
なんでもできる
サッカー部に入っている
普通にみえる
えらそうにいわへん
うるさない
そいつら、どう見たって、普通
おかしい所はない
普通、普通、普通
そのような意識を引きずりながら、障害研のひとりとしてOzの高校生活が始まった。教科によっては、とりだし授業を受けること、障害研の活動に参加していくこと、どれ一つとっても、Ozにとっては気にさわることだらけであった。
Oz「俺、ガイジとちがう普通や」
教師「ガイジと普通はどこがちがうのや」
Oz「そら見たらわかる。ガイジは勉強できへん。普通は勉強できる。」
教師「そしたら勉強できへんOzはどっちや」
Oz「・・・・、うるさいは、ダボ」
教師とはこんなやりとりをくり返し、障害研の仲間にはやつあたりする場面がつづいた。Ozがきたことで、今までわりと静かだった障害研の部屋はやかましくなった。
昼食時間はOzの苦手な時間のひとつだった。集団のなかで食べることができなくなっていった。弁当を食べのこすことが多く、主食がパンならなんとか食べられても、米がはいっているとほとんど食べられない日がつづいた。
障害研1年の仲間の一人、Ymは、中学2年までは、チーズとかクラッカー、ウインナなど数種類のたべものしかうけつけられずにきていた。中学校の障害児指導室のとりくみで、なんでも食べられるようになったYmが、Ozをみかねて「Ozくん、がんばって食べよ。僕も、食べられへんかったけど、今、がんばってたべているよ。」とはげましてくれたりもした。
Ozからの「いじめ」にほとんど無抵抗なYmだが、このときばかりはOzもYmに頭があがらない。みんなとくつろいでご飯がたべられるようになること、そんなたわいもないことを、Ozの1年目の課題とした。
水泳
おれは水泳が得意だ
もぐることもできる
飛びこみもできる
平泳もできる
おれは水泳がすきだ
普通学級での生活と、障害生学習室での生活の間で、意識がたえず揺れうごくOzだが、障害研活動に少しづつ頑張りもみせ始めていた。1年の夏休みは鳥取で水泳合宿。合宿生活のだらしなさに引率教師から帰れといわれ、荷物を手にもち歩いて帰り始めるという一幕もあったが、Ozはこの年初めて背の立たない海を泳ぐことをやってのけた。臨海にきていた他校の高校生のすぐそばで「俺はこんなところで死にたくない」と泣きわめきながらも、深みへ身をおどらせ、30メートル近く泳ぎきった事実は「普通」の子のようにできなかった自分へ大きな自信を与えた。
障害研活動をとうしてOzは確かにかわってきた。中学の頃の「俺は普通」という身構えや緊張がほぐれ、生身の自分をさらけだすことができた。
そういう日常生活のひとこまの詩
おはようございます
おれは 朝 一回まわって 障害研の部屋にはいってくる
かばんを置いて クラスの授業にいく
タイミングをあわしている
先生に いう
「おはようございます」
部屋の前の庭であそんでいる
Ymをからかうことの度がすぎ、教師と一緒にYmの親に謝りに行ったり、ついカッとして授業のプリントを破り、教室から放り出されたり、1年の仲間Kiに喧嘩をふっかけ、逆になぐり返されたり、ハメをはずすことも多かったが、自分から能動的に他の子へ働きかけうる集団をもつことができた。そして、そばに自分たちを見守る「大人」がいることは安心できることだった。2学期に入り、弁当を食べのこす回数は減ってきていた。1年の終わり、障害研の5人と授業について話あいをもつ。中学にくらべ、とり出し授業の多かったこの1年間の授業の感想をだし、2年の授業はどうするか話しあった。自閉症のKuやYmは「勉強します」「がんばるー」と心もとない発言、Ygは「どうせ教師がきめるやろ」、Kiは「どっちでもええ」とつづき、Ozの番になった。「数学の勉強はようできるようになったからとりだしでうける。ほかの勉強はようわからんからどっちでもええ」としっかり自分の意見をだした。「俺ガイジとちがう普通や」というOzなりの1年間の総括だった。
頭
頭なんかあったつて
くそ役にたたないけれど
あった方がいい
そらお前、頭なかったら人間ちゃうで
2年、3年となり、普通学級と障害研を揺れ動くOzの意識の幅は狭くなってきた。2年から始まった社会科・郊外学習(障害研活動の一つでもある)としてのT作業所をかりての職業訓練の第一日、学校から授産所へ向かう途中で脱走し、翌日その理由を聞くと「あんなとこ行ったら就職できへん。俺、教師になるんや。」というような意識はもちつづけていたが。
障害研の仲間への接し方も変わってきた。1年では、いじめるだけだったYmやKuに授業であれこれと指示してやる場面が生まれてきた。Ozの変化を誰よりも敏感にうけとめたのはYmだった。今まで無抵抗だったが、Ozの度をすぎるいたずらには「やめれ」と抗議するようになっていった。3年になると相撲のしきりをしYmがOzに向かっていくことも見られた。
3年になり、Ozは卒業後の進路、自分の現実を考えていた。入学当初、「やくざ」「警官」「教師」になるのだと本気とも冗談とも言えないことを言ってきたOzが、自分の進路についてピタリと口をつぐんでしまった。「俺はガイジとちがう普通や」というOzを拒絶する今の社会の厚い壁にぶちあたっていた。卒業後の進路が、とくに民間企業への就職は年々難しくなっており、生徒・親の希望にそえない教師としての非力さをかみしめ、しばらくは授産所で頑張ってみるかと、私はOzに話しこんでいた。
Siの問題提起をうけて10年、どれほどのことができたのか考えてみると心もとない限りである。引用してきたOzの詩は、N先生の3年の国語のとり出し授業での作品であるが「俺と学校」と題した詩集に書かれた最後の作品をあげ、報告をおえる。
新しい年
ぼくは2月25日に卒業する
おれはもう学生じゃない
働く所ない!
さよなら
もうじきOkくんとさよならしないかん
さびしいなあ
合宿にいっしょに行ける
いややなあ さよならするの
もう会えない
時間がない
時間がない!
やることいっぱいある
もっと早く書けばよかった
いそがしい!
反対
卒業するの反対
アルバムつくるの反対
卒業するの反対
卒業考査反対
卒業式反対
働くの反対
われわれの実践してきた事実にもとずいて、障害者解放教育運動についてまとめたい。
1、障害生もすべての子供とともに存在そのものが尊く、国家・社会の宝であり、そこにはいささかの差別もあってはならない。国家(行政)と社会(父母・家族・教育者・関係所組織)はこの立場から彼らを見つめ育てねばならない。国家(行政)にはそれを実現すべき責任がある。
しかし、今日、その責任は果たされず、社会の荒波のなかに放置されている。結果、今日の社会のなかでは、民主的権利を奪われ、障害者として客観的に差別されている。この現実から目をそらしたり、逃げるのではなく、人間として生きる権利を主張し、国家(行政)の果たすべき責任を追求しなければならない。われわれは「障害者」という概念を、このような社会的なものとして使う。したがって「」付けはしない。
2、障害者解放教育は、その土台に障害者自身の自主活動がなければならない。障害生自身の団結と、たがいに励ましあい支えあう生活、これが土台である。教師は、これを援助し指導し、逆にそこから、教育活動のエネルギーをくみとっていく。
そのうえにたって、学校生活にうってでてゆく。今日の学校は、本質的に言って、現代社会の縮図である。そのなかで、もっとも人間的に真剣な学校生活をおくりぬき、その事実をとうして一般生徒に問題を提起してゆく。
3、市芦は、部落研活動等にも学びながら、このようにやってきた。この観点から地域での論争点に関するわれわれの意見を述べたい。
第一、学校における、また地域における障害者自身の団結、これが一番肝心なことである。教師・教育労働者や労働組合は、やはり目的意識的にそれを支援し発展させなければならない。芦屋においては(どこでもそうだが)ここが弱かった。そのうえで、互いに対等の立場から、障害者、父母、労働組合、民主団体がまとまってゆかなければならない。
第二、普通学級か障害児学級か、これは形式の問題、方法の問題であって、本質的な問題ではない。障害者自身の自主活動を保障し、育て、そこに人間的な力をつけてゆくことが問題である。そして、いずれにせよ学校制度からくる隔離に対しては、障害者自身が運動として打ち破ってゆかねばならないし、教師はそれに依拠しつつ教育内容の変革を進めなければならない。
第三、進路等の決定においては、地域の運動として、行政の責任を追求し、責任を問い、現状を打破する運動をすすめる。運動をとおして地域のまとまりを深めながら、現実の進路はその時点で実現した条件(その内容は、障害生自身、父母、教師で十分話し合う)のなかで、運動体が自ら主体的に決定し、要求との差は、後に続くもののなかで実現してゆく方向をとる。
結局、すべては力関係である。正しい方向で、地域の障害者・父母・教育労働者らが団結する。この力がなければ、障害者の願い、親の願いを実現することはできない。これはこの間の、芦屋における反動的逆流から、われわれが引き出すべき教訓である。
以上