追悼文

 つぎの一文は、ブログに載せたものである。


飯沼二郎先生(1918年3月20日〜 2005年9月24日)が逝去された。

京都新聞の訃報を載せる。

京都大名誉教授 飯沼二郎氏死去

農業経済学の専門家で日本型農業の復権を提唱する一方、ベトナム反戦や在日韓国・朝鮮人の人権擁護、君が代訴訟など幅広い市民運動に先導的役割を果たした京都大名誉教授の飯沼二郎(いいぬま・じろう)氏が、24日午前零時58分、肺炎のため京都市左京区の病院で死去した。87歳。東京都出身。自宅は京都市左京区北白川山田町七〇。葬儀は故人の遺志で行わない。
東京の下町に育ち、園芸の専門学校を出た後、二次募集で京都帝国大農学部に入学。卒業後、愛媛青年師範学校教授、国立国会図書館主事、農林省農業技術研究所技官などを経て1954年、京大人文科学研究所に助教授として赴任した。74年から81年の定年退官まで教授を務めた。
農業経済学の研究から、農業基本法施行(61年)後に普及した欧米型の少品種大量生産に疑問を抱き、経済優先の農業政策を批判した。裏作や間作を複合的に行う伝統的な日本型農業への回帰を説き、著書に「日本農業の再発見」「日本農法の提唱」などがある。近世農民の知恵を現代に生かそうと、農書を復刻した「日本農書全集」35巻を刊行した。
65年、米軍のベトナム北爆に抗議する集会の発起人となり、市民運動にかかわるようになった。「京都べ平連」代表として、毎月1回の定例デモなど反戦の取り組みを、パリ協定締結の73年まで続けた。
68年から12年間にわたり個人雑誌「朝鮮人」を発行、在日韓国・朝鮮人の無権利状態を告発し、市民権獲得に取り組んだ。指紋押なつ拒否への支援のほか、軍事政権下で死刑判決を受けた金大中氏の救援にも携わった。
87年には、入学・卒業式での「君が代」斉唱や演奏の強制は違憲だとして、京都市教委の元教育長らを相手にした「君が代訴訟」の原告団長となった。しかし一審、控訴審とも憲法判断を避け、請求は棄却された。

私が飯沼先生にお会いしたのは、60年代末の京都べ平連のデモであった。よく集会やデモで一緒になったが、個別にお話しする機会はなかった。

次にお会いしたのは、私が党派の活動をしていた80年代末から90年のはじめの頃である。「人民戦線」を呼びかけていた。何度か京都北白川のご自宅にお伺いし、いろいろと意見の交換をした。しかし、「人民戦線」が暴力団対策法に反対するなかで、任侠の人々と共闘したとき、暴力団と一緒にするのは反対だと言われ、以後意見の交換の場はもてなかった。

私は、任侠も社会が生み出した社会的な存在であり、任侠であるというその存在だけで共闘できないとする必要はなく、暴力団対策法に反対するという一点で共闘することはあり得る、と党派を離れた今も考えている。

今はその議論はおいて、歴史的な事実として、記しておきたい。

京都べ平連の中心的な活動家でその後教育運動にかかわり,飯沼先生の弟子のようだったKさんが,若くして白血病で亡くなったとき、その葬儀で追悼の言葉を述べられたのが、お顔を見た最後であった。

ご冥福を祈ります。