つぎの一文は、上田等追悼集『一期一会』(岩井会、2007年12月) に寄せたものである。
私が上田等さんにお会いしたのは1990年の秋です。それまでも上田さんのことを聞いていましたが、実際にお会いしたのは、ちょうど瀬戸田農場の下見にいって戻られたこの頃が最初でした。かつて私が属していたところと上田さんの歩んでこられたところと、その源が近かったことから、その縁でこのときお会いしたのです。ですから、私が上田さんの謦咳に触れることができたのは数年でしかありません。
初対面の私に、運動の内も外もあけすけに話しておられた辛辣な物言いが忘れらません。一気に相手を自分の内に引き入れてしまう魅力のある人でした。その後私は、政治的にも経済的にも転機に直面し、そのとき本当にいろいろとお世話になりました。経済的な問題は私にとっては初めてのことでしたが、上田さんがくぐってこられた修羅場からすれば、子供の遊びのようなものだったと思います。1993年から95年の頃、何か相談事ができれば、北摂箕面のご自宅を訪れました。いろいろ話していると、いつも何とかやっていけそうな気持ちになりました。親身になって相談にのってもらったことに心から感謝します。その後上田さんは病気になられ、病院や療養先に何度か見舞いにいかせてもらいました。そのたびに、上田さんの生命力と意志を感じ、逆にこちらが励まされているような次第でした。
上田さんの生き方から教えられたことは、人間、自分の内からの促しに応じて生きなければ、人を動かし世の中を変えていく力など生まれてこない、ということです。自分の内から生きて、そのうえで現実の壁とぶつかったとき、はじめて現実と格闘する力が生まれる。そうでないところで自分の生活や運動を作っても、そこには人を動かす力などない。そういうことです。多くの若い人たちに、どれだけ自分の内部に活動する必然性があるかを問い続けておられたし、それはまた私に対する問いかけでもありました。
上田さんは、こうして、生活と闘いが一体となった幅広い場を作って来られました。この場をどのように深め、生かすのかはこれからの課題なのだと思います。縁があって助けてもらって、今そのことをかみしめています。上田さんは、いつも将来を思いながら、今を闘いぬかれました。人間は、有限のときを精一杯に生きて、そのことにおいて、こころざしを次代に伝えていかねばならないものです。上田等さんはそれを全うされました。安らかにお眠り下さい。
参考文献
『大阪の一隅に生きて七十年 −私の総括−』(上田等 2002年11月15日、創生社)
『戦後の大阪の党活動を総括する立場とは? その一部としての私の総括』(上田等 2000年9月11日、大阪反戦民主政治連盟)