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神の言葉を聴く

日本が国家として統一された天平の頃から平安初期にはじまり、今日まで、神社は国家の支配を受けてきた。延喜式神名帳は、当時官社に指定されていた全国の神社一覧であるが、このような官社と、官社でない地域の神社が、江戸時代までは併存してきた。

明治維新は、青山半蔵と国学の徒の夢を裏切って成立した。明治維新は、幕府体制の末端をになっていた寺を明治元年の神仏分離令で廃仏毀釈のもとに国家から切り離した。また、明治五年には修験禁止令が出され、神仏習合の修験道も禁止された。

そして今度は神社が国家に組みこまれ、国家神道となる。大きな神社には国家神道のもとに入る必然性があった。国家神道は、日本神道本来の「場をむすぶ神」を「国家をむすぶ天皇」に置きかえることで成立した。むすぶものはあくまで神であり、人が神たることはない。この国家は近代資本主義の国家であり、日本神道の場ではない。

明治政府は神社の国家統制を強め、神社合祀令により地域の神社を国家の下に整理しようとした。南方熊楠らの民俗学者がこれに反対し、それぞれの地方でも反対の運動がなされた。その結果、大正九年、貴族院は合祀令の廃止を議決する。それまでの十数年間、全国二〇万社の中の七万社が破壊され、多くの鎮守の森が失われた。

南方熊楠の『神社合祀に関する意見』を読むと、ここで失われたものはほんとうに大きい。取りかえしがつかず、近代日本が一つの文明を根こぎにしたということがわかる。

こうして全国の神社が国家神道のもとにおかれることになった。国家神道は、国家を第一にして人を第二とし、実際には、国家の戦争に人々を動員するための役割をはたした。

そしてついにあの十五年戦争に至る。この戦争は日本の歴史において未曾有のことであった。南太平洋から東南アジア、東北アジア、中国大陸と朝鮮半島、いわば日本列島弧に住むものの祖先の地のすべてに兵を進めた。そして敗北した。

戦後体制は、天皇を「象徴」と位置づけてきた。これは「国家をむすぶ天皇」をさらに「国民をむすぶ天皇」に置きかえたものに他ならない。天皇は、神の言葉を聴き、その言葉にしたがって、人々をむすぶためにはたらく、ということである。しかし、神道においては、天皇もまた日本語と日本神道の下にあり、神の前ですべての人は同じである。よって、ある血脈のものがそのゆえに「国民をむすぶ」はたらきをするという考えは神道のものではない。「むすぶ」ことと「人間天皇がそれをする」ことの間にも深い矛盾が存在している。

昭和二十二年、民俗学者の折口信夫は神社本庁創立一周年記念の講演「民族教から人類教へ」のなかで、古代から天皇は人であったということを語っている。現人神の否定である。折口信夫は戦前戦後を通じて天皇が神であるという考え方はとらなかった。それは民俗学の良心である。しかし、神社本庁当局は「この折口学説は、一参考に過ぎず、神社本庁がこの説を公認するものではない」と釈明し、国家神道復活の方向に進んだ。

こうして、戦後政治は国家神道を根底から見直すことがないままにはじまった。それに対応して、戦争責任もまた内部から問われることなく、明治維新ののちに成立した官僚制などの基礎組織はそのまま残った。そして、あれだけ「鬼畜米英を撃て」と国民を動員しておきながら、戦後は一転、対米隷属の政治となる。アメリカの核戦略の一環として地震列島に原発をいくつも作り、ついに福島の核惨事に到ったのである。

第二次大戦後の米国と世界を支配してきた金融資本と軍需産業の複合体は、弱肉強食のいわゆる新自由主義をひろくゆきわたらせてきた。しかし今日、経済世界はもはや拡大するところが軍事以外にはなく、拡大を旨とする資本主義が根底からゆききづまる段階に至っている。ここからの活路をきり拓くことが求められている。

このとき、すなおな祈りの心をその根底におく日本神道は、歴史の求めに応じてゆこうとするものに対して、生きる道を指し示す。西洋近代と東洋、そして固有文化の狭間で苦しんできた近代日本の経験が、ここで力になる。

日本列島弧にくらすものは、福島原発核惨事に、日本神道の原点に立ちかえれという神の言葉を聴かねばならない。そして今の世の有り様を顧みよ。このとき、今日の問題に即して日本神道の教えることは、次のようなことである。

第一に、人は、たがいに人としての尊厳を認めあい、敬い,いたわりあえ。人のさまざまな力は、けっして私のものではない。世に還してゆかねばならない。人を育て,人に支えられる世を生みださねばならない。今日の日本は、人を金儲けの資源としている。これは神道に背く。

第二に、言葉を慈しめ。人は言葉によって力をあわせて生きてきた。言葉は仕組みをもつ。新たな言葉は、その仕組に根ざして定義されねば意味が定まらない。近代日本の言葉の多くはこの根をもたない。これでは若者の考える力が育たず、学問の根は浅く、人を動かす力も弱い。もういちど日本語を見直せ。

第三に、ものはみな共生しなければならない。いのちあるものは、互いを敬い大切にしなければならない。里山と社寺叢林とそしてそこに生きるものたちを大切にせよ。無言で立つ木々のことを聴け。金儲けを第一に動かすかぎり原発はかならずいのちを侵す。すべからくこれを廃炉にせよ。

第四に、ものみな循環する。使い捨て拡大しなければ存続し得ない現代の資本主義は終焉する。人にとって経済は、人として生きるための方法であって、目的ではない。人が人として互いに敬い協働する。人といのちの共生のためにこそ、経済はある。経済が第一のいまの世を、人が第一の世に転換せよ。

第五に、たがいの神道を尊重し、認めあって共生せよ。神のことを聴き、そして話しあえば途はひらける。国家は方法であって目的ではない。戦争をしてはならない。戦争はいのちと日々の暮らしを破壊する。まして戦争で儲けてはならない。専守防衛、戦争放棄、これをかたく守れ。

これが日本神道の教えることである。

これに対して、日本神道に背いた近代の国家神道に回帰しようとする神社本庁と日本会議、それに操られるものたちは、これとは真逆の政治をおこなっている。それは、官僚、財界、マスコミ、その背後の帝国アメリカ、これらが支配する旧体制の今日における姿である。

思想において,日本近代の国家神道は、日本語がつたえる日本神道とは真逆のものであり、神道を語りながら神道に背いているが、実際の政治においても教えに背き、排外主義と軍事主義をあおり、それが二〇一七年の日本政治を主導している。

かつて人々は、日本神道のもとに、循環する共生の世を生きてきた。これを現代において見直し取りもどそう。こうして、閉塞した現代日本の旧体制をうち破ろう。打ち破る力は、旧来の左右の分岐を乗りこえた新しい人の台頭、これである。そして、国家を超えてたがいの固有性を尊重しあう普遍の場、そこに生きる新しい人々が、この未曾有の困難のなかから生まれる。

資本主義は行きづまり軍需産業しか利潤を生みださない。日本もまた戦争で儲けようとする世界大の資本主義の輪にとりいれられた。再び戦争に人を駆り立てるため、かつての国家神道とその体制を復活させ、それを使おうとする動きがこの間続いている。

今の日本の為政者や東電幹部には、福島原発核惨事で、周りの環境や多くの生き物、そして人々を損ね大きな傷手を負わせてしまったという、畏れの気持ちがない。神を恐れることを知らない政治である。福島原発核惨事に神の言葉を聴きとり、それをふまえてこの地点から、大きなものへの畏怖を失わない政治へと、転換してゆかねばならない。

日本神道の教えをすなおな心で聴きとり、ものみな共生し循環する新しい世をひらけ。


AozoraGakuen
2017-05-21