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兆民と理学


 はじめに

 人間は生まれ、生き、老いて死ぬ。このまったく単純な事実のなかに、かぎりない変転と輝きがある。
 人間は、ある時代にある環境のもとに生まれ、そのなかで生き、考える。 何かを受け継ぎ何かを伝える。人間は歴史を積みあげなければならない。過去を水に流してはいけない。
 
 かつて明治革命の息吹がまだ盛んであったとき、日本語世界には「理学」があった。 人生と統一された学問としての理学がおこなわれた。これは歴史をふまえた根のある言葉だった。
 それは明治日本が帝国にむけて再編される過程で投げ捨てられ、理学の意味は変わってしまった。 本来の理学を水に流してはならない。
 私は、二十一世紀初頭の今こそ、もう一度本来の理学をとりあげ、そのこころざしを受け継がなければならないと考えてきた。失われた理学を掘り起こし、継承し伝えたい。それはまた、時代の要求でもあると考えている。
 
 とはいえ、それはほとんど一からの思索であり、道は遠く、私の力は乏しい。しなければならないことを多くかかえ、残された時間は少ない。
 せめてまず、兆民の遺言何を意味し、何をめざそうとするのか、それを述べ、そして、いささかでも考えた事々を、ここに書き記しておきたい。読みかえして、いささかの傲慢と自己満足が認められる。
 引き継げるところは引き継ぎつつも、もういちどこれを解体し、学び直し、考えなおさなければならないというのが、今の気持ちである(2007.11.16)。
 
 2016年夏にいたり、ようやくに再改訂をはじめた。これを最初に書いたのは20年前である。そして今、10年前の宿題に取りかかっている.(2016.7.6)



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