そこで近代日本の大学の意味と,それがどのように変わってきたのかという問題について私の意見を述べ,皆さんが考える参考に資したい.
昔は田畑の広がる農村であった.今は住宅街であるが,今でもイノシシが山からやってくるし,まだ狐や狸もいる.ここに越木岩(こしきいわ)神社という古い神社がある.
この越木岩神社の鳥居をくぐると左手に「力石」という大きな石が置いてある.江戸時代,このあたりの村ではこの力石を持ちあげるとはじめて一人前と認められ,耕す畑などが割り当てられたそうである.かつてはどんな社会も一人前として認められるための関門があった.
江戸時代は農業を基本的な産業とする社会であった.農村では,農業に従事する力があるかどうかがいちばん肝心なことだから,大石を持ちあげることが,関門を通過するための試験科目であった.人が生まれてから死ぬまでに経過する,誕生,成人,結婚,死などに伴う儀礼を「通過儀礼」という.大石を持ちあげるのは,大人になるための通過儀礼であった.
「成人式」は成人したうえでの式であって,通過儀礼ではない.最近は「成人を祝う」という意味でも完全に形骸化してしまっている.近代社会で,現実に,一人前の人間であるかどうかを試すものとして機能してきた仕組みが,「卒業と就職」であった.
その一つが,大学入試・大学生活・就職と一組になった大学という制度である.明治時代に大学制度ができて以来近年まで,大学は大人への関門の一つという江戸時代の力石と同じ機能を果たしてきた.
個人が努力することで高等教育を受ける機会を獲得し,その高等教育を媒介にして個人の生活や社会的地位といった利益がもたらされるとともに,それが同時に社会発展であるとされていた.近代社会を組織する人間を養成するために作られた旧帝国大学などは,はじめからそういう大学であった.
ひと昔前は,自分のために「いい大学」を出ることが,同時に社会に何かの貢献することであり,同時に自らの幸福にもつながる,このような回路が機能していた.一般的に近代資本主義と産業社会が発展する段階では,大学というものはそのような位置づけになる.だから,がんばって勉強した.おしなべてみな貧しく,苦学しつつも機会は比較的均等であった.
産業社会の拡大と人間の幸せは別のものであることが覆いがたく誰の目にも明らかなものになった.がんばって勉強し,がんばって働き,自分の生活を築き,それがまた世の中に貢献するという,そのような人生の起点としての大学は,もはやない.近代資本主義の建設と経済成長に自分の成長を重ねることができる時代は終わった.
その結果,社会のなかで教育機関としての大学に求められることがらが変わってきている.しかし,ではどうあるべきかについての社会的な合意は形成されていない.今はそういう時代だ.大学で落ち着いて勉強する間もなく就職活動がはじまる.企業が大学での勉強を重視しているとは言えない.これは本当は大きな問題なのだが,その意味が深く考えられているとは言えない.そのなかで,日本の初等学校教育もまた「ゆとり教育」からその否定と右往左往を続けている.
1990年〜2002頃大学に入学した世代は就職氷河期にぶち当たりものすごく苦労した.この世代の苦労は今も続いている.しかしまたそれは同時に早く世の厳しさに出会ったということでもあった.2006年,2007年,景気はよいといわれたけれどもそれは大企業だけの話で,そこに働くものにとってはかえって仕事が厳しくなり,2010年以降,かつてない就職困難期である.
必要なとき必要なだけ雇い,生産を減らすときにはまず切り捨てるようなことが平気で行われ,働くものはかえって貧困に落ち込み呻吟するような世上である.中小企業経営やそこで働くものにとってますます生きがたい世の中になっている.とりわけ,働き人の三分の一をしめるいわゆる非正規雇用者では労働権やそして生存権すら保障されない.経済成長の次は弱肉強食むきだしの世の中である.
若者は貧困のもとで呻吟し,老人は社会の厄介者にされる.企業が安い労働力を求めて海外に展開する一方,日本国内では産業社会が縮小し,使い捨てにされる労働者が大変な数にのぼっている.企業業績がいいといっても,それは国内・国外で安い,いつでも捨てられる労働力を使ってきた結果に過ぎない.若者の側からいえば,働こうにも生活が成り立つだけの収入を得る仕事がない.経済合理性があれば何をしてもよいという社会になってしまった.
もとより近代の学校制度は,産業技術を習得した人間の育成を目的にしている.その時代の文明とそれを支える技術を習得する場が教育機関であることは必然である.また,人間が何らかの生産につながることは,人間としての存在条件そのものである.だから仕事を求める人すべてに仕事を保障する.労働権を保障する.それが人間の尊厳を重んじるということだ.しかしそのことは,人間が生産の資源であるということを意味するのではない.
人間の尊厳を互いに敬い,まじめに働き,ものを大切にし,隣人同僚,生きとし生けるもの,たがいに助けあって生きてゆく.ひとりひとりの力は個人のものではなく,互いのものである.それが人間というものだ.そのとき経済は人間にとって目的ではない.あくまで方法であり手段である.このような世の在り方が求められている.
転換期という時代のなかで,政治を含めてわれわれの一人一人が,どのように問題をときほぐし,今後の展望を開いてゆくのか試行錯誤,暗中模索の段階である.
教育分野もまたその渦中にある.大学にいく意味は外からは与えられない.とすれば,自分で自分にとっての大学を考え,進路を決めていかなければならない.こういうときこそ,ものごとを原則的に,根本から考えなければならない.原点に立ちかえって考え,自分の生きる方向を考えなければならない.
自分で大学にいく意味を考え,実際に大学生活を目的意識をもって試行錯誤し,そしてそれなりの結論をもって,その後の進路を選び取り,社会に出て行く,この過程自体が今日の大人への通過儀礼なのだ.
結論からいえば,人の力は個人の私物ではない.それは集団と歴史の産物だ.だから,人はみな自分の力を人のために,世のために用いたいという根源的な欲望をもっている.もともと人類は協同して働くことでサルから進化し誕生したのだ.この過程で言葉が獲得され少しずつ複雑になり,考えるということが可能になった.人類誕生の大元である協同しての労働の,その一翼を担いたい,自分も役立ちたい,これは人間の本能なのだ.
人のさまざまな力はその人個人のものではない.人々によって育まれ開花する.育まれた力を自らを育てたこの世に返さなければならない.人を育て,人に支えられるのが本来の世の中のあり方である.この百年は,それが「立身出世,産業立国」としてかなえられると考えることができた.この考え方が人々を教育へと動員してきた.
しかしもはやそれは人を動かす力を失っている.社会発展と一体となった大学のあり方が,根本から問われている.日本の高校では悲しいことに,学問することが,自分自身の内的な必然性をもたず,つねに立身出世のための「手段」でしかなかった.そしてその手段で実現すべき目的が実はそんなに価値がないかも知れない,ということになれば,勉強に身が入らないのも当然である.それが今の高校生のおかれている一般的な状況だ.感受性が鋭く人間性あふれる高校生ほどこの矛盾に苦しむ.
人生,本当にそれでいいのか.それが問われる時代に転換しつつある.だからこそ,自分がしたいことを本当に考え,内面からの根拠で進路を選んでほしい.われわれは皆,時代のなかで生きていて,これは避けられないし,選べない.その時代の条件のなかで,精一杯,人間として当たり前な生き方をしてほしいと願っている.
このようなことはかつての西欧においてもあった.『大学とは何か』(吉見俊也著)に次のような言葉がある.
中世都市を舞台に誕生し、急速にヨーロッパ全土に増殖していった大学は、今日の大学のルーツではあり得ても、その直接の出発点ではない。それどころか、中世に誕生した大学は、中世が終わる頃までに徐々に重要性を失い、それから一八世紀末まで、学知の発展にとって周縁的な存在にとどまるのである。第一の爆発の後で、第一の死がやって来た。
見過ごせないのは、大学が衰退していく時代と、近代知のパラダイムが浮上し、認識の地平を大きく広げていく時代がほぼ対応していたことである。つまり大学は、近代知の主体ではなかった。それどころか、近代の自然科学や人文主義が姿を現し、人々の認識世界を劇的に変えていくまさにそのときに、大学は学問的想像力を失い、古臭い機関になり下がっていたのである。だいたいデカルト、パスカル、ロック、スピノザ、ライプニッツといった近代知の巨人たちのなかで、どれだけ大学教授を生業としていた者がいたであろうか。近代の認識地平が立ち上がってくる決定的な時代、大学は何ら中心的な役割を果たしてはいないのである。
そしてこの時代,新しい知を形成するうえで大きな力となったのが印刷技術であったと,この本は説いている.同じことが今起こっている.印刷技術から進んで今はそれは新しい情報技術である.
そして私もまた,近代日本の大学から離れて,情報技術を手段として,この一文を書いている.そして君たちもまた,あるいは私以上に明確に,このような時代の変転の中で生きてゆかねばならない.これは人間の宿命であり,これがまた歴史でもある.このような時代の変転の中で,では人間はどのような人生態度をもって生きてゆけばよいのか.
大学にいく目的について結論からいえば,自分の人生を自分で生きる,その基本姿勢と方向を自分のなかに作っていく.その時間と空間を実現するためである.行動し思索し,勉強する.そんな課題を自分に課して大学生活を送る.そのための大学だ.一昔前は,そこまでを高校のうちに考え,その上で大学を選んでいた.それができた.しかし今は実際問題として,自分の将来を考え,進む方向を決めてゆくのが大学時代である.
基本的な人生態度は高校時代に基礎ができる.私はこのような時代こそ,時代の客観的な姿から目をそらさずに,事実をおさえつつ,そのなかで能動的に生きることを模索してもらいたいと願っている.能動的に生きる? そうだ.自分の方から試行錯誤し,生きる途を求めていくのだ.試行錯誤の途上で傷を負うことは避けがたい.それを恐れることはない.どのような傷もそれは人生を豊かにする.奥行きを添える.
自分の性格やある程度の特性や,とりあえずどんなことがしたいのかを考えて,そして現在の実力を考慮して,比較的自分とあいそうな大学を選ぶ.決めれば迷わず,とにかく時間と空間を実現するためにがんばる.大学に入って,多くの場合,自分がしたいことは違っていたことに気づくのだが,そこからが本当の大学生活のはじまりである.
外面的に大人になるということはどちらでもよい.しかし,一人一人の内側で自分というものができていくことは,大切なことである.そういう数年間を過ごすために自分にあった大学に入る,ということである.入学試験は目標ではない.第一の関門にすぎない.
いずれ合格通知は来るだろう.そのときに「受験勉強から解放された.これで遊べる」と思うか,「自分の時間ができた.これで思いきり本が読める」と思うか.それが大切だ.
合格した何人かの生徒があいさつにきてくれた.皆にいうのだが,1年で必修の単位をある程度とったら,2年生ではもう一つか二つ外国語の初級を増加単位で受けるくらいの意欲がほしい.大学の外で外国語の勉強をしようとすれば金がかかるが,増加単位に割り増し授業料はいらない.外国語にかぎらず,面白そうな授業は必修分がとれていても,積みまして聞くくらいの気持ちをもってほしい.自分で考えるための材料を得ることであり,大きくとらえるための視野を広げることである.最近の大学生が最低必要なことしかしないように思えるので,新大学生にはいつも言っている.
こんな話しを合格者にしていたら,さっそくすぐ数学の本を買った人がいた.私の所に何を読もうか相談に来た人もいた.「お勧めの本はありますか?」というので,自分で探すのだよといいつつ,新訳の『カラマーゾフの兄弟』を紹介した.彼らの大学生活のはじまりだ.
大学生になってから試行錯誤を重ねた人も多くみてきた.小さい頃から遊びたいことをおさえて勉強,みごと東大理一に合格した.が,大学ではサークルなどいろいろやっているうちに希望の学部へ進めず留年を重ね,結局中退.別の大学に入り直しそこも5年かかって卒業した人.東大での挫折と新たな大学での大人への再生.彼はそれを何とかやり終え社会人になった.都合9年間の大学生活はまさに大人への関門であった.
京大農学部の学生で一年休学して日本中を自転車で放浪,旅をすればそこで自が分したいことが見つかるかも知れないと思うのは幻想だ.しかし,旅で考えることをとおして自分の内から力がわいてくるということはあるだろう.彼はその後東南アジアで社会活動をしている.
彼らはそれぞれに真剣に本来の大学生活をおくったともいえる.新聞報道では2002年の京大総合人間学部ではなんと学年の三分の一が留年した.もちろん留年すること自体が悪いことではない.が,この年京大総合人間学部で留年した三分の一のうちどれだけが「意味のある留年」なのだろう.大半は大学に入って目標を喪失し,その後の新しい試みを始められていないのではないか.この傾向は今もそんなに変わっていない.
大学は方法である.自分の力をのばし世のなかで意味ある人生を生きるために,大学を使いたおせ.
ここにいなくてどこにいるか? 自分なんか探さなくてもここにいる.自分は探すものではなく,作るものだ.試行錯誤や暗中模索の人生の軌跡が自分なのだ.「自分にあった仕事をさがす」というのも違う.やりたいことはあらねばならない.しかし,仕事とはまずは生きるためにするのであって,社会が若者に仕事を保障することが先行しなければならない.若者に仕事を提供できない社会が問題であって,自分が仕事に就けないことを「自分さがし」できていないからだなどとごまかしてはならない.
いわゆる「若者論」は,大人が今の若者を理解できなから流行るのだ.それは結局,若者がおとなしく従順で分かりやすい存在であってほしいという,企業社会の願望の反映に過ぎない.そんなもの気にする必要はない.いつの時代も若者は時代をきり拓くものであり,老人にとって若者はわからない存在であった.またそうでなければならない.
受験勉強の途上でいちどは確認しよう.大学とは,自分の生き方と人生に対する基本姿勢をつくるための時間と空間そのものである.その意味で大学を大人への関門として自分で設定するのだ.そのうえで,今の自分が考える方向と持てる力を勘案して,相対的に適切な大学・学部を選定し,勉強に打ち込む.
近代日本では多くの学生にとって勉強する理由は外部にあった.現代はそれが崩れた時代である.自分の内に学問への情熱をうち立てなければならない.新しい生き方,新しい学問のあり方をうち立てる.心ある高校生が今出会っている問題は,産業社会建設が一段落した後,人間は何をもって生きるのかということであり,人類の歴史の新しい段階の問題として開かれているものだ.
難しい時代になる.これは避けられない.こういうときこそものごとを根本から考えなければならない.今すぐには何のことかわからないかも知れない.壁に出会ったとき読みかえしてほしい.
若い皆さんこそ,このような開かれた問題に挑戦してほしい.
学問は長い間、人が人間として成長するために修めるものとされてきた.世のために学問を修め,それが個人の成長を促す.このように信じてがんばってきた.それがこの四半世紀,金儲けのためとまではいわなくても,社会的成功のための手段になってしまってきた.個人のための勉強になった.本当にそれでいいのか.
このようなこともまた,大きな枠組で考え,その上でいま目前の課題に最善を尽くす.それがあなたの受験勉強だ.そして,大学生になってもまた,考え行動していってほしい.そのような受験と大学という試練を自分に課してやっていこう.