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数学とは量をつかむ言葉

  人は一人では生きていくことはできない.力をあわせて働かなければこの世界から恵みを受けとることはできない.力をあわせて働くところに言葉が生まれた.最初は力をあわせるためのかけ声だったかも知れない.あるいは危険を知らせる叫びだったかも知れない.長い長い時をかけて音を分けて発することを学び言葉を獲得した.こうして人は言葉で考える生命体になった.言葉は発展し,物事を抽象して「これこれのもの」「これこれのこと」としてつかむ働きも,つかんだ内容を表す記号としての働きも,もつようになった.これを言葉の分節作用という.
  成長とともに身につける言葉が母語である.母語の役割は,人と人の対話をおこなうだけではなく,考えることそのものを支える.数学は母語と同じ水準で成長とともに身につけ,世界を切りとってつかむ基本的な方法となる.世界を言葉で分節するとき,分節されたものの大きさや個数などの量的な把握がはじまる.「今日は昨日よりたくさん捕れた」のなかにすでに量的把握が現れている.こうしてものを量としての面からつかみ,さらにその変化や量の相互関係の把握へと進む.数学は第二の母語である.第二の母語としての数学を大切にしなければならない.
  人は,言葉によって世界に働きかけることで世界の量的法則を発見し,それを数学という言葉で表した.言葉は表現の道具であるとともに,考えることそのものである.これと同様に,数学は世界の量的法則を書きあらわす言葉であると同時に,数学それ自体の世界もまた存在している.
  現代文明は数学と一体である.現代文明は数学なくしては不可能であり,誰もが,この世界で生きていくために,それぞれ一定の数学を身につけなければならない.幼年期にはじまり大学初年級までに学ぶ数学そのものである.そのうえでこの数学を土台とする文明のもとで,人らしく生きていかなければならない.そのためにこそ数学は真剣に学ばなければならない.
  すでに述べたように,近年,日本の一般的な高校生の数学力は日に日に低下している.数学力には前提として言葉の力が必要であるが,その力が一昔前に比べて大きく損なわれている.言葉の力は,言葉の学習だけで育つものではない.教科学習のみでなく,日々の生活そのものが言葉の力を育てるものであったはずである.
  人は本当に問題が自分のものになったなら,そのとき自分がもっている力で考えようとする.そしてそれが考える力としての言葉の力を育てる.教科学習において言葉の力が育つためには,考えるべき問題がわざとらしく作られたものではなく,必然性が納得できるものでなければならない.具体的であり,問題が現実に存在していて立ち現れるようにつかめなければならない.
  ところが実際に高校生が勉強する数学は,教科書のなかで閉じており,その教科書も,現行のものはいきなり文字式を天下り的に定義するところからはじまっている.これではいったい何のための文字式であるのか,その必然性は理解できない.人間にとって数学はやはり必然であり,必然からはじまって抽象されて世界を広げてきたはずであるのにそれがつかめない.
  空虚な抽象性を脱し,かつ単なる経験の羅列にも陥らないためには,どのようにすればよいのか.言葉の力と数学の力をもう一度高校生に取りもどさせることは簡単なことではない.小手先の教育方法論では歯が立たない.数学教育に携わる者が,まず人として,自らの数学の根拠を考えなければならないところにきている.
  そのためには,初等数学を現代数学から系統的に基礎づけることが必要である.それを学ぶことで数学教育に携わるもの自身がわかる喜びを知り,逆に現代数学はこの社会での存在意義を獲得する.そんな営みをできるところから積みあげたい.
  人は言葉によって人である.これと同様に,人は数学によって人である.人の世は言葉によって組織される.これと同様に,現代文明は数学によって実現している.言葉が使いこなせ,数学もまた使いこなせるようになりたい.これは青空学園の心からの願いである.大いに考え,大いに議論しよう.
  いまこそ,100年前のクラインにならって,現代日本における『高い立場からみた初等数学』が必要である.初等数学を現代数学から系統的に基礎づける.それを学ぶことで数学教育に携わるもの自身がわかる喜びを知り,逆に現代数学はこの社会での存在意義を獲得する.そんな協働の取り組みがはじまることを願っている.