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高校生の疑問

   以下の一文は、これに対して高校生から寄せられた日本語への疑問である。この一文には、現代日本語と日本語で考えることに対する高校生の率直な不安と疑問が表明されている。これはこの高校生だけの問題ではなく、日本語を固有の言葉とする人すべての問題である。

私の疑問

史織  

「思う」と「考える」と「思考」

  私は、日本語の「思う」と「考える」は意味がちがうと思います。 最近、学校の文芸部の小説を読んでいて、つぎのような一節に出会いました。

  「あなた本当に私を思っているの」 「ほんとうに心から思っているよ」「だったらもっとちゃんと私のことを考えてよ」

   この言いまわしは不自然ではありません。「本当に思っている」なら「ちゃんと考える」はずだ、と使われています。つまり、「思う」と「考える」は、関連はあるが、言葉の意味としては別のこととされているのです。 ところが、一方、現代日本語には「思考」という言葉があります。「思考力」とか「思考方法」とかの使い方があり、また「思考する」と動詞にもなります。そこで、この「思考」はいったいどうすることなのか、「思うこと」なのか、「考えること」なのか、またはまったく別の意味なのか、わからないのです。

  図書館で調べてみました。 「思考」は、明治時代に、英語の「thinking」、ドイツ語の「Denken」等の訳語として、「思う」の「思」と「考える」の「考」とで作られた単語であるようです。広辞苑では「思いめぐらすこと、考え」とあり、岩波国語辞典では「考え、考えること」とあります。『岩波小辞典・哲学』ではこれが「広い意味では人間の知的作用を総括していう語であるが、通常は感性の作用と区別され、概念、判断、推理の作用をいう」とされていました。

  しかし、これらは、日本語の「思う」と「考える」は、合成して一つの単語を造れるのか、あるいはそれによって別の意味が生まれているのか、という私の疑問に対する答えにはなっていません。 日本語では「思う」と「考える」は別の意味を担うものとされています。日本語全体のなかで「思う」と「考える」は異なる位置と役割を担っているようです。岩波国語辞典では、「『考える』は知的な面に限られるが、『思う』は情的・意志的でもよい」と注釈されています。が、「思う」と「考える」の違いは、言葉の意味する範囲の大小という量の問題ではなく、日本語のなかでしめる位置と役割が質的に違っているように思われるのです。

「もの」と「こと」

  「私というものを本当に思っているのか」、「私のことをよく考えてくれ」という例で「もの」と「こと」を取りかえることはできません。このことは、日本語で、「思う」のは「もの」であり、「考える」のは「こと」であって、このあいだに曖昧さはない、ということを意味しているのではないでしょうか。もちろん「君のことを思っている」とも使えそうな気がします。これは、使われ方の崩れた誤用なのか、判断できません。

  「もの」と「こと」も日本語ではまったく違います。少し考えると浮かびますが、次の例で「もの」と「こと」を入れ替えると明らかに意味をなしません。

   まあ、人のいることいること
   出がけに不意の客がきたものですから。
   人生はむなしいもの。
   なんとばかげたことをしでかしたものだ。
   教えてくれないんだもの。
   きれいな花だこと。

  このように「もの」と「こと」は日本語のなかで、意味も役割も違うことは明らかです。ではいったい「思考する」のは「もの」なのか、「こと」なのか、と問いを立てると、まったくわからなくなるのです。実際に「思考」は日本語のなかでは「頭の働き」といった軽い意味でしか使われていないようですが、翻訳文のなかでは原語の意味だけの深さを持っているようです。しかし、その場合はなんというか日本語に根を持っていない、地につかない使われ方のような気がします。

これでいいのでしょうか

  このように考えて日本語をみてみると、現代日本語には、明治時代に翻訳の必要から生まれた言葉が多くあります。これらの言葉は、日本語全体のなかでの意味や役割を考えてその必然性で生まれたものではありません。訳した人はいざとなればもとの西洋語で考えればいいわけですが、私たちはこのような西洋語に根拠をもつ言葉の意味をどのように「わかれば」いいのか。言葉の意味を理解する根拠を西洋語を知らないものは持ち得ないのではないでしょうか。これで本当に人の言葉としていいのでしょうか。

  私は昨夜夢を見ましたが、夢のなかでもなにか話をしていました。寝言も言います。言葉の力は人の無意識にまで及んでいます。でも寝言で「思考」は出てこないように思うのです。「思考」のような言葉は人間の意識のごくうわべでのみ使っているだけではないのでしょうか。現代日本語の、とくにこのような翻訳語は、人の意識の表面にしか影響を及ぼさないように思うのです。しかしそのことは逆に言えば、現代日本人の日常の意識の働きが、それだけ表面的な根のないものであることを意味していると思われるのです。 そして少しずつ意識の下に影響が及んでいくことによって、現代日本語の考える力が弱まっていくのではないでしょうか。 こういう問題を本当にはっきりとさせることはできるのでしょうか。


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