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根のある思想

してからは党派組織の専従もした。そしてそれに破れた。このような闘いは、いずれにせよ敗北の連続で、破れたこと自体は一般的なことである。

労働運動であれ、世の変革の運動であれ、人はそのとき手元にある言葉で闘わなければならない。そして、闘い終われば総括し、経験を言葉に蓄え次代に引き継がねばならない。そう考えるなら、機関紙などに書いてきた自分の言葉が、人々の心の襞にまでは届いていなかったのではないかということを、考えざるを得なかった。

闘いはさまざまに場を移し持続しなければならない。革命は永続である。しかし単にくりかえせばよいということではない。人の営みとして蓄積されるためには、言葉が豊かになることを伴わなければならない。それはいかにして可能か。この問題に関して鶴見俊輔さんは次のように言っている。

日本の知識人は欧米の学術をそのまま直訳していて、日本語のように見えますが、実はヨーロッパ語です。それをよくわかっていないのです。そういうものとして操作しているので、根がないのです。しかし、日本語そのものは二千年の長さをもっています。万葉集から風土記から来ている大変なものなのです。万葉集を読んで聞いてわかるのですから。イギリス語、フランス語より深い歴史をもっています。今もそれは生きているのです。この古い言語の意味に、さらにくっついている魑魅魍魎も全部引き受けて、何とか交換する場をつくりたい、それが竹内好の言語の理想です。なぜ、それを生かさないのでしょうか。そこに日本の知識人が行っている平和運動とか、反戦運動がすぐにあがってしまう理由がある、という感じがします。(『無根のナショナリズムを超えて 竹内好を再考する』鶴見俊輔、加々美光行/日本評論社 2007/07)

「反戦運動がすぐにあがってしまう」は私にとって痛切な言葉である。ここで鶴見さんが言っていることは、私の問題意識と同じである。私はその後、人として言葉を意識し、言葉を磨きながら考えるしかないという問題意識から、近代日本語をとらえ直す作業に着手した。近代日本の学術の言葉、理(ことわり)の言葉は、根のある言葉を掘りさげ意味を広げ、また深めるという方向にはなされなかった。これを教訓にこれからのことを考えよ。これが私が自分に課した課題であった。

近代の学術の言葉は日本語で定義されていない。その言葉を使うものは、いざとなれば西洋語に戻る。現代日本語の主な言葉をもういちど定義し直さなければならない。しかし、どの言葉でそれをするのか。現代語をそのまま使えば、それは定義にはならない。

私は、この問題意識のもと、鶴見さんがいわれるより古く、三千年前に縄文語がタミル語に出会いそして混成し熟成してゆく過程を現代において追経験し、日本語の構造における位置を確認し、それをもとに基本的な日本語を再定義していった。それは、「古い言語の意味に、さらにくっついている魑魅魍魎も全部引き受け」るための準備作業でもあった。

そして、この基礎作業のうえにいくつかの論述を試み、それをとおして現代語を再定義し、それを青空学園日本語科(検索)においてきた。その蓄積のうえに、ようやく本書に収めたような論考を表す段階になった。

島崎藤村の『夜明け前』の解読から日本の近代を問うこと、その根底にある神道を今日において取り出すこと、そして、生きることの意味を問うこととして言葉を定義すること、これらである。


AozoraGakuen
2017-06-08