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真の普遍の場

「神道試論」において次のように書いてる。

日本語には日本語に結実した智慧としての神道があるように、朝鮮語にも朝鮮語に結実した智慧としての神道があり、琉球諸語にも琉球諸語の神道がある。世界のそれぞれの言葉に、それぞれの神道がある。それぞれの神道はたがいに認めあって共生しなければならない。そのための智慧と実践が今日の課題である。

実際、協働するものが、それを成り立たせている言葉に基礎を持つ固有性に立脚して、そこを離れることなく、協働することを互いに認めあうとき、固有性を越えて分かりあう可能性が開かれる。固有性を深く耕して徹底し、固有性を突き抜けた新しい段階の普遍性をめざす。言葉のなかに蓄えられてきた智慧は、それが直接の生産を土台にする生きた人の智慧であるかぎり、十分に掘り起こされたならば必ず通じあえる。人はわかりあえる。

これは可能性であるが、また現在の歴史が求めていることであり、それゆえにこの可能性を現実性に転化することができる。しかし、その途は容易なことではない。世界の各地に広がる新しい運動が、たあがいを理解しあうこと、これが突破の途である。こうして、固有性をたがいに尊重しあう場としての普遍を生み出すこと、これが今日の課題である。

マルクスによって獲得された、世界に対する目的意識性と能動性の考察を、西洋自体にも向ける。歴史は、西欧文明が押しつけた疑似の普遍性ではなく、固有性が解放された人の生き生きとした普遍性を求めている。固有性が互いを認めあって共存し、ともに問いかける普遍の場を求めている。

レーニンが『哲学ノート』で言っているように、普遍性は固有性をもって実在し、弁証法的な普遍性は実在するな固有性と不可分である。固有性をもつ実在が共存する場、それが真の普遍の場である。

実在するものは固有性のもとに実在する。近代主義的左派は、このことの重大性を理解できなかった。それが冒頭の鶴見さんの言葉の意味である。

しかし、可能性を現実性に転化するための実践的方途は、開かれたままである。この途を見いだしていくには、膨大な努力の蓄積と、現実のちからが不可欠である。

本稿は、あわせてその課題を提示するものであるが、実践的方法を具体化することは、ひらかれたままであることも、指摘しておきたい。


AozoraGakuen
2017-06-08