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歴史をつくる

資本主義が終焉期にさしかかっているとき、次の時代をきり拓く主体の形成のためには、それぞれの固有性に根ざした言葉を準備することが必要条件である。そのための基礎作業、それが自己の仕事の位置づけである。

人は何において人であるのか。その根拠をどこに求めるのか。人は言葉をなかだちに協同して働くいのちである。それを協働という。言葉による協働、これが人の人であるゆえんである。ここに人の根拠をおく。これがわれわれの立場である。そしてそこで生みだされるものの交換過程が経済である。

資本主義は、人を資源と見なす。そしてその資源からいかにものを奪い取るのかということをその基本的な動機としてきた。交換過程は複雑化し、そこに貨幣が生まれ、貨幣を増やすことが自己目的化する。これは結局のところ、いかに効率よく集め奪うのかということである。そのことが経済活動とされた。資本主義は、経済活動が人生の目的のように主張する。その意味で経済を目的とし、人そのものを手段、つまりは資源とする。

しかし人にとって経済は目的ではない。働くいのちの輝き、ここに人の意義がある。人は尊厳ある生活の実現のために協働してきたのである。経済はあくまで手段である。この人の原点に立ちかえらなければならない。

人を資源として収奪し格差を拡げ、その一方で戦争をあおりそこから利益を得ようとする金融と軍事産業の複合体に対するさまざまの闘いが、二十一世紀に入って世界の各地で広がってきた。新しい運動は決していわゆる物質的な豊かさを求めるものではない。人の輝きを奪い尊厳を踏みにじる、そのことへの怒り、これが人々を突き動かす。

また、さまざまのところで、これまで資本主義が広めてきた価値観と異なる別の生きる道を模索する人々の運動が、裾野を拡げている。ものの循環する世の模索である。それは、根のある固有なものの見方、考え方に基礎を置かねばならず、日本語世界では、日本神道の示す道である。

その一方で、日本での排外主義や極右政治潮流は、いわゆる日本会議や神社本庁などの宗教がらみの組織が支え動かしている。彼らが依るところは、国家神道である。

なぜこのような勢力が拡大したのか。先の鶴見さんの意見に通じることであるが、そこには近代主義的な左派の責任が大きい。一言でいえば、近代主義的左派は国家神道に惹かれるものの内部に入り込んでこれを批判するということができなかった。

私は、日本語から日本神道を取り出し、国家神道がこれを真逆のものであることを示した。日本語から論述するなら国家神道を奉ずるものの内部に届く。彼らが、また日本神道を否定することはできない。

このように、三つの論考は、資本主義の終焉の時代に、次の段階の生き方を、日本語に伝えられてきた古人の智慧に学ぼうとするものでもある。


AozoraGakuen
2017-06-08