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京都を出る

  その後、大学院をあと一年残したところで中退した。やめるときに、一九六九年三月二日付けの「朝日ジャーナル」の山本義隆さんの『攻撃的知性の復権』を取り出して読んだ。

ぼく自身が、真に大学の腐敗の根源を部分的にもつきとめるのには数年間の東大内での、学生としての、研究者としての生活が必要であった。また闘いが外面化されるには羽田以降の学生運動が不可欠であった。…ぼくも、自己否定に自己否定を重ねて最後にただの人間─自覚した人間になって、その後あらためてやはり一物理学徒として生きてゆきたいと思う。

  学部学生のときには大学闘争の内在的な意義はわからなかった。私の世代は研究者として自己を形成する手前で闘争の渦中に飲み込まれた。山本さんの世代は、その後「何々として」と、そこに自分の専門分野をおくことができた。私の世代はそのような専門をもつ前に、大学を離れた。自己否定の果てに「物理学徒として」がある山本さんの世代とは違った。われわれの世代は、いわば「人間として」という他なかった。それこそ思想と哲学の生まれる根元的な場で、方向転換しなければならなかった。

  七〇闘争の最終的な終わりを告げた連合赤軍の崩壊をみながら、だからこそやってみようと考えた。それはまだ自分が本当のところぎりぎりの闘いをしてはいなかったからそのように思ったともいえる。連赤の問題はまだどこか人ごとだったのだ。それは確かにそうだ。

  一方、自分の内部にあった求道の基本姿勢は、あれだけの事実にもかかわらず、揺らがなかったともいえる。自分の内部でとらえた七〇年闘争の意義は、連赤の崩壊で崩れるようなものではなかった。革命運動のなかで文化を再生する、問題をこのようにとらえ始めていた。問題の出発が文化主義的であって、脆弱なものであったことも事実だ。文化の中に現実の亀裂を予兆として発見して自己を変革することは、知識人の生き方としては普遍的であるが、しかし基盤は弱い。最後までやりきるものはすくない。

  全共闘運動は言葉の本当の意味で革命運動だった。現代の革命というものの初歩的な実践だった。それが幼く初歩的なものであることをもって、その意味を軽視するものわかりのよい同世代が多くいる。しかしあれはやはり革命であったし、革命であるがゆえに私のような一般の非政治的な人間までが、人間と自己の人生を根本的に考え人生を変革し、そうすることでこの革命の一翼であろうとした。革命ととらえたものにとってそれはまさに革命だった。全学共闘会議は、大学を一時力で支配していた。力の裏付けは怒りであり、腐敗したものを暴く大義であった。全学共闘会議は大学に出現したソビエトだった。一大衆としてそのもとにあった者としてこのことは明確にしておかなければならない。大学を支配する人民権力、その力が私のように遅れた意識の一般学生にも人生を真剣に考えることを強いたのであり、この内部に革命を起こしたのである。

  六〇年代末の資本主義諸国での青年の闘争は、根本的に考え根本的に生きようとする国家権力との非妥協の闘いであった。 近代の制度から自由に新しい時代の生き方を作り出そうとする文化革命を内包していた。それはまた中国文化大革命やベトナム民族解放闘争に励まされたものでもあった。

  資本主義発展途上の学問は方法であり手段であった。大学や高校で高揚した学園闘争は、青年学生が日本の近代大学でおこなわれる学問のこのような根本的な欺瞞性を正面から暴露した闘いだった。それに代わりうる内実は作り出せないままに抑えられたとはいえ、その問題提起はいまも新しい。

  全学共闘会議は、この大義のもとに学内を支配した学生の権力であり、戦後革命期の生産管理闘争における職場評議会以来の学園ソビエトだった。権力をめざさないというものもいた。にもかかわらずそれは力であり、力であったがゆえに私もまたかえられたのである。

  このように考えふりかえってみると、やはり故郷の構造に思わぬ形で、あるいは無意識の層をとおして、深く影響されていることを認めなければならない。

  京都北白川の経験は、人間の真実ということの経験だった。幼年時代を無意識ではあるが自然との深い交流の中で育ち、中学高校とどこかで近代日本のとりわけ高度経済成長の思想に侵されていくことによって真実の自己を見失ったものが、原則的に真理に忠実に生きることを教えた六〇年代末の経験を経ることによって、矛盾を避けずに見据えようとしたとき、懐かしい呼びかけに出会ったのだ。

  原初的な人間と自然の交感とそれを土台にした人間の生き様という点から見れば、現代日本は内部が決定的に崩壊している社会であった。日本は西欧帝国主義の圧力のもとで近代資本主義に入り、日本社会の底辺を順次解体してきた。高度経済成長はその解体の仕上げであった。六〇年代末の闘争は本質的にこの資本主義に対する闘争であった。であるがゆえに北白川での経験はこの闘争の内実と一体であった。

  だが私にとってすべては未熟であり、問題の緒についたばかりであり、この内実を豊かにするためには旅に出なければならなかった。旅に出てその運動と闘争のなかで失われた人間の生き様としての文化を回復し、さらにその土台として私が学んできた宗教を新しい人間の内実として再生させたいと考えた。

  大学院の修士課程を終えたとき、数学研究者への道を離れることを決めた。博士課程に籍を置きながら、教員免許に必要な単位取得に講義を聴き、教育実習もした。そして、街に出て、京都のベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)などに加わった。そこで知りあった人のつてで、兵庫県で公立高校教員の仕事を見つけ、京都を離れた。

  平安時代末期、道元は比叡山を降りて新たな求道の旅に出た。それをまねて、自分の行動を山を降りることだと考えていた。そのように考えたこと自体、若気の至りであったけれども。人間は人生にゆきづまったときに、風土の内に圧殺されたものの息吹を感じ、そこから立ちあがる力を得る。日本列島の土、深い樹木の奥、こけむした巌、木漏れ日のあたる場、そこにまつろわぬ神の息吹を感得する。これが京都北白川の経験であった。


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