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転換と自立

  一九七一年の夏が終わり秋の気配がして、感覚が鋭くなったころ、転換を経験する。それは京都北白川の風土の中で起こった。

  

北白川天神宮鳥居(12.11)

  九月二十八日の夕方小一時間、北白川の天神宮を歩いた。そのころ考えごとに疲れるといつも北白川の下宿の辺りを歩いていた。如意ケ岳、俗にいう大文字山、つまり八月十六日の送り火で左大文字が浮かぶ山の麓に下宿はあった。古い地元の農家の二階だった。とにかく当時誰とも一日ものをいわないような日が続いていた。 まったく数学にゆきづまっていた。夏中自分で考えた方向でいろいろやってみたが何の結果も得られなかった。心だけは集中していたが、壁にぶつかっていた。すべてが袋小路であった。

   一方、大学を去るものは去って新しい人生を追求し始めていた。私の高校時代からの友人が当時大学を離れて空港反対運動のために淡路島に移り住んでいた。自分が遅れてしまったという意識もまた切実であった。それは今から思えば小知識人の焦りにすぎないものであったが、若い私には十分深刻であった。

   ■九月二十八日

北白川天神宮(1971.11)

  夕方小一時間、天神宮を歩く。台風が過ぎていった今日は、秋晴れである。西の方に傾きかけた陽の光が、深い木立の間を通して、この岡のあちこちに安置された祠を照す。天神宮は、小さな岡全体を境内としているのだ。その岡のふもとを、白川が流れている。長い石段を登ると、本殿や、おそらく深い由緒があると思われるあまり大きくない社や、口を清めるための水を湧き出させている石で作った手洗所とそれを守る屋根などが、目に付く。少し向うには稲荷神社の赤色の、狐を両側に添えた建物もある。もっと目立たぬ、小さな祠、もう屋根もずいぶんゆるんでしまって、あまり人も、物を供えたりはしないようなものが、二つ三つと散らばってある。

   そのうちの一つの前に立ってそれに見入る。西の方を向いていて、ちょうど木々を通してきた光が、不思議な明るい空間を作っていた。誰もいない。どのような縁でこの祠が建てられたのか。それが何時の頃であるのか、何も知ることはできない。そこに、そうして陽の光があたり、そして生れたその場所。それに見入る自分には、何故か、それがはじめて見るのではない、いつかも確かに見た事があるものなのだという思いが起こる。確かに、この、古い建物に静かに陽が照って生まれる空間は、はじめてなのではない。生れてこの方、この風土のなかで育った者が、折にふれ、いろんな機会に、何回ともなく見てきたものに違いないのだ。一々思い出す事もない程に、見てきたのだ。

  

 北白川天神宮拝殿(12.11)

 この世界は何の世界なのだろうか。

   もう一つの、いつも天神宮で心に染みる風光、それは陽のあたる木々が風に揺られ、静かな、音と光の世界を作るなかにひっそりとある、あの口清めの場所のただずまいだ。その様々の要素が織りなしつつ、一つの空間をかもし出すのだ。何れの風光も生きている。まわりの木立や、風光や、陽光と切り離してあるのではないのだ。それら天然のなかに、確かに人工のものが置かれているのに、そこに人間の計らいが働いているとは感じられないのだ。

   これはどういう事だろうか。作った人には、人が作るという思いすらなく、彼は、当然の事の様に、人と自然の垣根を取り除いていたに違いない。常に彼がそうであったかどうか知る事はできない。けれどあの建物を作る作業に、その職人としての技能の全てを注いでいた時、彼は確かに天然と一つであったのだ。再び、それはどう言う事なのだろうか。もはや如何に想像を働かせても、想像によっては、決して原理的に知る事のできぬ事だ。

(06.01,他の2枚も)

   何時も、心に何か動かぬ深いものを生れさせる風光には、陽の光がある。それは特徴だ。もう一つは生の自然ではなく、生の自然と溶けあった、人の手になるものがあるという事、それは第二の特徴だ。さらにその感動は、その風光自体に因るというよりは、何かその風光に感応したと言うか、そのような心の動きによっている。じっと思いを潜めて、その風光に見入る時、頭のどこか高い所から、さっと、ある懐かしい感情が広がる。それがその風光に更に深さを与え、そして、ある充足感が残ってほっと我に返る。何時もこんな風なのだ。

   三度これは何なのだろうか。この世界は、何処へいくのだろうか。懐かしさと、悲しさは、同じ事の両面という気がする。その同じ事とは、何なのだろうか。全てこれからという気がする。

   ■九月二十九日

   昼食の後少し、また天神宮までゆく。今日も、時々雲にかくれるけれど、日が照っている。長い曲った石段の下の方の横の所に座って、上の方を見る。石段を登りつめたところに、社の上半分程が見える。両側は、立木の繁み、そして残ったところは青空と雲だ。昼下がりの静けさの中で、虫の音が、その静けさを一層切実にしている。

   この風光の中には、深い、透き通った、人間的な、何かがあるのだ。その何かに、限りない懐かしさを感じるのだ。これは一体何なのだろうか。道元の世界は、或いはその何かに答えているのかも知れない。けれど、今はそれはわからない。確かに識ることのできる時まで、わからぬ事は、わからぬ事として、保持してゆかねばならない。

   一切の神秘主義的傾向を、退けねばならない。自分の内の何が、そもそも懐かしさを感じているのだろうか。何が懐かしいのであろうか。何が何に感じているのか。こう書いている、私は誰だ。

   ■同日夕刻

   今、やっと自分が出発点にまで、戻ってきたのだという事を、しみじみ感じる。そしてこの出発点というのは、自分が幼い日に、無意識に、無邪気に、とり入れた、何かあるものと直接に繋っているのだという気がする。

   その何かあるもの。それを言葉にすることは難しい。何処からとりいれたのか、と言われれば、幼い日の回りにいた人々、そして自然の環境によって作り出されるある精神の状態としか言えない。その精神の状態を何処に定着させていったのか、と言われれば、心と答えるより他はない。

   とにかくそれは懐かしいのだ。日のあたる古い建物の作る静かな空間に、心を動かすのも、ずっとたどってゆけば、まだ六才の頃にまでたどりつける。あのころ西の方を裏とする、宇治川に面したところに住んでいた。けれども六才以前に具体的な思い出は出てこない。あの以前のところこそ、けれど、より本質的であるように思える。

   今はただ、この出発点にまで戻ってきた自分を注意深く、静かに、確固としたものとし、そして、ゆっくり、出てゆかなければならない。世俗のあらゆる事にも、或いは学問でさえ、その深い歩みとは、直接の関係はないのだ。自己を、そのように鍛えねばならない。その直接の関係ないものを、けれども一つ一つ試練として、またその深い歩みをより確かなものとするための機会として、誠実に受入れてゆこう。

   日記以上。

   これは不思議な経験であった。自分というものがはじめて既成の価値観から解き放たれたようでもあった。ここからすべてをはじめから考えていこうとする土台にぶちあたったような気持ちであった。自分の計らいではなかった。

   北白川天神宮のなかにおかれた小さな祠にはいったい何が祭られていたのだろう。あるいはあの天神宮の小山の森の空間のなかには、神社合祀令によって取り壊されたまつろわぬ神、つまりは近代日本の歩みのなかで殺されうち捨てられた人民のこころが息づいていたのかも知れない。それが私に働きかけたのかも知れない。そういうことに自分の内が感応したのかも知れない。あの時間のなかで、自己の土台に触れた。そのとき人間にそのもの立ち返って歩み出せという促しを感じ取った。あれは転換であった。

   秋の転換を経て、大晦日に宇治に帰った。晦日の夜半、一人宇治の街を歩いた。県神社から平等院の裏門前を通り、宇治川に出る。川の中之島を通って対岸にわたる。宇治神社の下に、御輿を清めるところだろうか、川べりに朱の門が立っている。そこに立って空を見る。月は雲にかかり、天下を照していた。さらに宇治上神社の方から小さい頃に住んでいた辺りまで足をのばした。家々は、年越しのたつきの音がしていた。月に照らされひとり歩いた。このとき何か決意した。私は自分自身の内部に普遍的な人間の真実をめざす立場がうち立ったように思われた。

   自分には自分で考えていたような数学の才はなかった。このことをおさえて、そのうえで自分が直面した問題を正面にすえて生き、そして考えていこう。数学には途が見いだせなかったが、壁に当たってはじめて転換を経験し、新しい道へ踏み出していくことができた。それから二年間いろいろ模索が続いた。最後の一年は大学を出て働くために教員免許を取ろうと、そのためにだけ大学院に籍を置いていた。


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