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手紙から

   一九九五年の一月十七日、阪神淡路地方に大地震が起こった。これは阪神地方に住むのもにはまったく大地震だった。それからいくらもしない三月、まだ震災の後も片づかないうちにオウム真理教によるサリンテロが起こった。そしてその後一九九七年には神戸で十四歳の少年による連続殺人事件が起こった。この丸二年の間の出来事は、いかに現代の日本が人間の世として底のない深い闇をかかえているかを明らかにした。

   私は、一九七〇年から七二年に日本社会の荒廃を言語の水準でつかんだ。そして人生をいささか転換させたが、そのとき問題として考えたことは何ひとつ変えることはできていなかった。むしろ逆にその荒廃は深まり続け、それがこういう形で現実化した。

   転換以降、いささかでも世の変革の渦のなかに身をおこうとして携わった運動は、思いにおいて世の変革をめざしながら、結局のところ根なし草であった。変革の思想は日本語世界の奥深いところからのものではなく、人々の心の奥底には届かないものであった。かつてはこのように考え転向した人間が多くいた。転向の真の総括は、思想の根を深く下ろすことである。近代日本の根のない思想は、根こぎにされたのではなく、もともと根がなかったのだ。

   このようなときに阪神大地震が起きたのである。自己と時代に即して内からそしてはじめから考えよ、これが阪神大震災が教えたことであった。

   一九九六年に中央大学の野崎守英氏と手紙のやりとりをした。拙い問題提起に丁寧に応えていただいた先生には心から感謝している。この交流をとおして、結局は自分のなかに考え切れていないものが多くあることを思い知らねばならなかった。すべては一からの出直しであった。

【第一信】

拝啓

  私は、先生の『歌・かたり・理』を読み終えたものです。突然に手紙を差しあげますことをお許し下さい。

  私は、一月二十二日に、別の書籍を手に入れるつもりで書店に参りましたが、いくつか立ち読むうちに貴書に出会い、その場で購入し、一通りではありますが、一気に読んだ次第です。 これを読んだ機会に、自分自身の考えを深め問題を明確にするために備忘録を書きはじめましたが、問題が個人のことではなく、現代日本の社会と文化の問題そのものに係わることでありますので、私の考えたことを著者に送ることは許されることであるし、また必要なことであると考え、お手を取らせることになるのを恐れながら、こうして手紙とさせていただいた次第です。

  私自身は、六〇年代末から七〇年代初頭の、いわゆる大学闘争の時代に学生生活をおくり、大学では数学を専攻しました。その後大学を去って、一時期は高校教員にもなり、左翼運動や労働運動に取り組んできました。数年前、現実の運動と闘いのすべてで転換を余儀なくされ、現在は予備校講師をしながら、やってきたことを省み、一からの出直しに向けて準備しているものです。 まず、私が一見して惹きつけられましたのは、ひとことで言えば私自身のことばに対する問題意識と著者の問題意識とが共鳴するということでした。

  私は、この二十年間、つねに「ことば」を意識して参りました。七〇年代のはじめの青年時代に、現代日本語が深く考える力をもっておらず、人間のことばとしては根本から再建しなければならないと思い至りました。卑近な例では、私自身、学生時代も労働運動のなかでも,立場が異なるものから、いわゆるレッテルを貼られ非難され、いかに対話しようと試みても対話が成立しないという経験に何度も出会いました。また、現代日本語の概念諸語が、日本語のなかで土台から互いに有機的に定義されあうということにはなっておらず、考えたことをことばで表現しても、それが日本語として定着した人間の経験としては蓄積されていかない、ということも深く感じました。大きな欠落感を日本語に対していだいてきました.日本人は日本論の大変好きな民族であるといわれます。それは、日本を意識しなければならないほど日本語に欠落が大きい、ということだと思います。

  日本語は、古来より、古層のうえにその時々に外来のものを塗り重ねてきました。日本語世界は、近代に至り、とくに理のことばを、それまでの日本語の内部からことばを自覚的に発展させるのではなく、西欧語に対する漢字語を作りあげ、それでもってやってきました。西周らの啓蒙家が明治初期にそれらの漢字語を作りましたが、そのように根のないことばでの民主主義の啓蒙は底が浅く、西周自身、明治政府の反動化とともに、国権主義者に転向していきました。ことばは全体のなかに有機的にあるものであり、西周らがしたように個別の「ことの端(ことば)」を作りあげ切り貼りしても、それは有機的なものではなく、ことばとしての力、つまりことばに蓄積された人間の経験が逆に人間を鍛えるという力を持ちえません。

  私は、一読して、「著者は、日本語の現状について自分と感覚が同じであり、人間とことばの真理を識っておわれる」と思いました。これが惹きつけられた第一の理由です。

  第二に、著者は人間にとってのことばの重大性を深く識るのみでなく、日本語の現状を変革しなければならないと考えておられる、ということです。

  青年時代の私には、この日本語の現状というものが日本の近代の現実そのものと重なり、自分はその全体をを根本的に再建する道をゆこうと決心しました。そして、ことばの再建は、この現実を変革する運動と闘いのなかにおけることばとして再建される以外にないと考え、実践活動の道に入ったのです。そのような人生の転換を促す時代でした。

  実際に社会的な運動をすることで身についたことのひとつは、「すべてなにごとも内部からの力で展開される以外にない。外からの力は契機とはなりえても真の力とはなりえない」という「内因論」の立場でした。ことばについていえば、ことばはそのことばで生きるものの人生の闘いを力として内部から自己展開して発展し世界を拡げてゆかねばならないし、そのようなことばのみが人間を内部から動かすことができるという、考えです。 しかし、二十年の経験を経て、問題の大きさに絶望的な気持ちを抱いてきました。

  昨年の冬、阪神地方を大地震が襲いました。まさか、阪神間であのような大地震が起きようとは、思いもよりませんでした。私も西宮市の丘陵地帯に住んでいてこの地震に会いました。幸い自宅の被害は大きくはありませんでしたが、私の住んでいるところの近くで、道ひとつ隔てて西側は無事であったのに、東側は大きく土地がねじれて側道もおしつぶされ軒並み全壊し、死者も何人か出たというところがありました。この違いは、西側は昔からの台地であったが、東側は江戸時代までは浅い谷筋で、明治になってから埋めて畑としてところであったのです。この二十〜三十年の間に宅地化されてきていたのです。

  これは教訓でした。現代の日本語はまさに埋め立てたうえに構築したものそのものです。このようなことばとそのことばによる社会と人生は、大地震に比較すべき歴史の大転換期には、それに耐えることができず崩壊するということです。地震は、日本の近代を根底から点検し直せということを提起しました。

  私は、自分自身の社会活動をふくむ一からのやり直しを、こういう人間とことばの土台からの再建とそれに対応する日本社会の人間関係の再構築、という方向でおこなわなければならないと考え定めました。地震に出会い、これまでのように絶望的な気分ですますのではなく、自分自身の課題としてなしうることはしなければならないと考えたのです。ですから、「日本語内部からの可能性の掘り起こしとして理にかかわる場の方向を求めるとしたら、どんな道筋が考えられるのか」という著者の問題意識に心から共鳴したのです。

  第三に、ことばは、ことば自体として再建されるのではなく、結局はこの問題を自覚して問題とする共通の意識の場を構築しつつ、そのなかで自己の人生そのもののこととして「ことをわる」以外にありません。「理については、やるのなら自分が自分の考えることとして展開する道を求めるしかないのだろう」という認識に、あらためて「このひとはことばを識っている」と思いました。この人が何を言っているのか読んでみようと思いました。

  私自身、学生時代は数学をやろうとしていました。しかし、数学が日本の文化のなかでは外来のものであり、文化に深い根をもっていないという意識が少しづつ大きくなり、ついにはそれに耐えがたくなりました。問題の根本は、日本が近代になって自らの土台というか古層と断絶して西欧文化を上塗りした事実、またそれですませる日本文化そのものの質、です。数学は科学技術や経済運営の基礎として必要なものになっていますが、西欧文化において数学が文化の軸として占めている位置と役割を、数学は日本の文化のなかには占めていません。ギリシアの魂そのものとしての数学精神は、非西欧の日本の土壌には文化としての根をもっていないのです。あくまで技術としての位置を占めているに過ぎません。

  近代に西欧の文物を取り入れたことは、当時の西欧帝国主義に対抗するためのひとつの選択ではありました。西欧諸国の軍事的優越性が根本的にはその社会や思想のありかたに根ざすものであることを自覚したがゆえに、西欧近代を日本に接ぎ木しようしとたのです。西欧の文物を移入する、そのために西欧語に対応する日本語を漢語から作った。一つ一つが内部から定義されるという時間はなかった。一つ一つ定義するしかなかった中国文明ではそのために動きか遅くなり、帝国主義の半植民地となった。しかし、こんどは日本が、西欧を上塗りしたまま自らがアジアに侵略しました。今日に至るもその歴史に決算をつけていません。

  私は、そのことと、現代日本語が理のことばとして人間を深部から動かしえないこととを、表裏一体の日本の現実としてとらえました。ならば、この近代日本の根本からの変革の実践に身を投じ、その実践のなかのことばとして、日本語を再生させる以外にない、これが私が大学を去り、実践活動に入っていった内因でした。こういう疑問を抱いた以上、自分に才能が無いこととあいまって、数学者としてやっていくことはできませんでした。

  私はこれまで、自分の内部にあることばと人間の本来のありかたへの思いと、それに対する現実の日本語世界でのことばと人間のありかたの現実認識とを、わかりあえる人には出会いませんでした。そういう出会いはあきらめてきましたが、先生の著書を拝読し、やはり問題意識を共有しうる人はいるのだと思いました。 このような次第で、その場で判断しすぐに購入しました。いくつかのことをそこから学びました。

  まず、私の、「近代日本語が人間のことばとして、考える力をもっていない」という認識は、より具体的には「うたとかたりをことわる力が弱い」という事実としておさえるべきことなのだ、ということです。かくし味といわれていますが、この事実を明確に言明した人は他にいないと思います。西欧言語論のうわべに学んだ根なし草の言語学者にはできないことです。この問題を問題として自覚できるためには、ことばの「うた・かたり・ことわり」という三つの側面とその相互関係という構造的な認識が必要であり、そのためには移入の言語論ではなく、日本語の歴史的現実に密着した考究が必要だからです。さらにこの事実は、日本語に固有のことではなく、普遍性をもつと考えます。つまり、この「うた・かたり・ことわり」の三側面は、いずれの言語においてもあり、この三側面の相互関係がそのことばとその文化の基本的な構造を定めているということです。このことは、厳密に立証しているわけではありませんが、確かなこととして貴書をとおして学びました。日本語の現実に立脚して言語の普遍性に至る道が、この本のなかには用意されている、ということです。

  第二に、「かみ」をどのようにうたい、かたるのかという構造が、ことわりの位置と役割を定める、ということです。西欧文明は唯一の神を生み出しましたが、これはことばが主語と述語を軸として、しかも主体としての主語を先行させるものであるがゆえに、絶対主語としての神へ向かわせる力が内在していた、その結果である。日本語の「かみ」はそうではなかった。西田幾多郎は絶対述語としての場所の論理を構成しようとしましたが、これは日本語に内在する力がその方向に促したと言えます。その同じ力がうたの世界では連歌へと向かわせた。  このように、人間が「かみ」ということばで何をいおうとしてきたのか、どのように「かみ」をいうのかが、いかなる自然との関係のなかでいかに社会を構築しいかに生きるのかを定め、「ことわり」の構造を規定する、ということです。西田幾多郎のその試みは成就したのか。連歌が歌の世界でことばの輝きを十全にひき出しているだけのものを、西田哲学はことわりの世界でひき出しえているのか。あるいは近代日本の幾人か思想家が「ものからことへ」とか「主語の論理から述語の論理へ」とかを標榜して、何かをしようとしましたが、その試みは成就したのか。この点について、まだ本当の総括はなされていません。貴書に述べられているように、ことばに内在する「うたとことわりの関係」の傾向性が、思想構造をどのように規定するのかを自覚化し、その傾向性に立脚しつつ、傾向性から自由になって普遍性を獲得することは可能なのか。これはまだ答えが出ていません。  日本語の内在する傾向性さえ、その本質を明らかにするには至っていません。そのためには「ことをわる」ことについてのさらに深い考察が必要だと思います。「うたう」「かたる」はそれ自身が単一単語ですが、「ことわり」は「ことをわる」と合成語です。つまり、「ことわり」はより基礎にある言葉から合成されたものである、ということも学びました。歴史的に「ことをわる」から単一語が形成されず、単一語となった「断る」は「ことをわる」のひとつの側面をきりとったものでにすぎない、ということです。「断る」が「ことをわる」のひとつの側面であるということ自体は、著者も注目しておられたように、大変重要なことですが、ひとつの側面であって全面を単一語化することがなかったというのも事実です。ここには、「ことをわる」ことが「ひとつの概念」に成熟していない、という側面があります。あるいは「ことをわる」ことはひとつの概念になるものではないのかも知れません。

  これは、私が貴書より勝手に読みとったことで、先生のお考えの方向とは違うかもしれませんが、私にとっては、これはこれから自分の考えを延べてゆくための大きな示唆となりました。

  第三に、実践的な問題です。私は、兵庫県で高校教員をしていました。七〇年代さまざまの日本近代の矛盾を背負った高校生が、自分や親の生きてきた道を「かたった」のです。教師自身が「かたりの作風」と言っていましたが、これは兵庫県下の教育運動のひとつの特徴ともなっていました。高校生は「かたる」ことで自立する。しかし、指導する側の「ことわり」がなければ、かたること自体が自己目的化し「もの語りはしても生き方は変らない」という事例にいくつも出会いました。「ものがたり」は原初においてはいのちの噴出です。しかし理のことばかいのちの深みに届いていない現実にあっては、「ものがたる」こと自体が自己目的化してしまい、現実を変革する力を失います。日本の作文教育には、教員個人の責任の範囲をこえる問題ではありますが、この共通の根本的な弱点があります。

  私は、貴書を読むことで、経験的に知っていたことを、まさに「ことわる」ことができました。

  さらに、西田幾多郎の解読をとおして学んだことは、「ことわり」の水準で近代日本の思想を読みとかなければならない、ということです。「ものがたり」として思想家を解説する書物は枚挙に暇がありません。しかし、ことわりの水準で思想が真に総括されたことはないといってよいと思います。私は、貴書をとおして「ことをわってよむ」という問題を深く自覚させられました。

  西欧語では、「ことをわってよむ」力が言語に内在しています。あるいは西欧社会に内在していると言うべきかもしれません。いずれにせよそれは歴史的に形成されたものであり、産業革命をはじめとする近代が西欧にはじまった内因もここにあるかと思います。ただ、それは西欧語に内在しているがゆえに、西欧人に自覚されてはいません。近代になって西欧を移入しようとした日本人が、西欧語に内在するこのことに無自覚なまま移入しました。しかし、日本語と日本社会には、この「ことをわらせる」力が内在していません。ために、移入したつもりが表面だけのことに終わり、結果として現代日本語が荒廃の極に至りました。しかし、ものには表裏があります。われわれは今日、「ことをわってよむ」ことの意義を自覚しています。方法論としてさらに高め普遍性を持つことができるならば、逆に深部から世界文化に貢献できる、と思うのです。

  貴書からこのようなことを学びました。

  さて、にもかかわらず、現実の日本語はまったく困難のまっただなかにあります。何より私は、先に述べましたように、現代日本語は、理のことばがいのちの深みに届いていないと思います。これが私の第一の現状認識です。昨年はオウム真理教の問題がありました。オウム真理教は最後には、薬物と頭皮からの電流で教祖とおなじ心理状態を獲得しようとし、極端な心理主義となりました。この、心理状態の実現そのものを目的とする傾向は、当初からありましたが、それは真理を悟ることとは無縁なものです。また、現実の物質の力で一定の心理状態を得ることが修業の目的なら、すべてはこの世界のなかで成就できることに過ぎず、本来宗教がもっている現世への根本的批判がなくなります。にもかかわらず、青年が、あのような荒唐無稽な宗教にはしる根源は、日本語の理のことばが、人間の生き方を深く動かすことができないという日本社会の根本構造に根ざしています。先人の智慧が蓄積した生きた理のことばが育っていないからだともいえます。

  第二に、現代日本では、理のことばを耕すべき人間が、耕していないということです。例えば、『現代思想・入門』(宝島社,1984)という本があります。そのなかの「ヘーゲルの体系」という解説のなかで、編者は「ヨーロッパの知的な累積は、ヨーロッパ人にとっては精神の土壌そのものであり、輸入された概念を使って思考する私たち日本人にとっても知らず知らずのうちにことばを規定しているコンテクストである。ひとつの概念はその概念だけでは意味をもたないのだから、わたしたちはヨーロッパ的な概念を誤用していることもあれば、無意識のうちにこの概念のもつ潜在的なコンテクストにしたがって思考しているときもある」と述べています。この書は比較的日本ということを意識している良心的なものですが、にもかかわらず、この一文のなかには、現代日本の知的状況の荒廃がそのものとして顕在しています。「知らず知らず」に規定されたことばを「誤用」したり、「無意識のうちに」、つまり明確な定義なしに用いるということが日常化していることは事実です。が、ここで知的荒廃というのはそのこと自身ではありません。

  編者は自分を「在野の哲学者」としています。しかし、「誤用」とか「無意識のうちに」とか言いながら、なぜ次に進むことができるのでしょうか。そこをそのままにして次に行けるのは、単なる評論家であって哲学者ではありません。哲学とは、このような荒れ地に来たならば、そこを耕し人間の土地にする人でなければなりません。哲学者とは、理のことばを自己の人生をかけて耕す人でなければなりません。編者はフランス思想の紹介をしていますが、少なくともフランス人は、ことばをもっと大切にしてきた。荒れ地を耕してきた。「哲学者」と自己を規定する人にして、この現実である。これはまさに知的な荒廃ではないでしょうか。フランス読みのフランス知らずの知識人が何と日本には多いことかと思います。

  日本では理のことばを内因論の立場に立って内部から発展させるという根本が社会の共通意識として打ち立っていません。つまりことばと社会に「ことをわる」力が内在していません。それを自覚しないまま西欧語に対する漢字語を上塗りしたことによって、現代日本語は荒れ果てました。知識人は、この荒れ地を耕すのではなく、埋立て上塗りのうえに上塗りをしてそれらことばの相互関係だけで何かを言ったつもりになってきたにすぎません。いざとなれば自分自身は根拠を求めて西欧語の原典に還るのです。しかし、西欧人こそ、むしろそのような根なし草と闘い、内部から理のことばを育ててきました。それが西欧文明です。とすれば、近代日本の知識人は、西欧を根本的には「知らない」のです。これが第二の私の現状認識です。本当に他者を知るためには、自らのこととして内部から知らねばならないのです。 一九〇一年、二十世紀が始まったときに中江兆民は「わが日本、いにしえより今に至るまで哲学なし」(『一年有半』)と言いきりました。以来百年、兆民のこの遺言は、そのまま現代日本の課題として残っています。

  第三に、このような現代語に潜む問題は、必ずしも日本だけの問題ではなく、非西欧社会の現代化の根底にある問題として普遍的であります。韓国でも、中国でも、われわれと本質を一にする問題が、その現象形態は違っていても、存在しています。

  さらにいえば、西欧近代の問題でもあると思います。西欧においては問題として自覚する必要のないことが、われわれにはまことに痛切で切実な問題です。日本の現実の問題に真摯に取り組むことは、西欧人には理解しえない西欧近代の問題を人類全体の普遍的な問題として対象化することとなるはずです。問題は普遍的だ、これが第三の私の認識です。ただ、日本人の自意識はいつも「西欧にあって日本に無い」という欠如としての認識です。私がここで述べたことも、基本的にその範疇です。しかし、もともといま考えているようなことは西欧にも無いのかもしれない。内部から社会の変化に対応して必要性が出てきたことを欠如として認識するのは後発の近代社会しての日本の特性であって、その点に特徴があっても無いことは西も東も同じなのかも知れません。この点を明確にしなければ本当の普遍性は実現できません。

  以上のような現状認識を、私は貴書を学ぶなかで持ちました。

  現状を改めてこのように認識するとともに、貴書に学んで、これからどうしていくのかを考えさせられました。私は、なににせよ日本の現実から出発しなければならないと考えます。現代日本語のありようとそれに表象された現代日本の人間への批判それ自体が、現代日本語をもってしなければなりません。百年前に中江兆民は遺言ともいうべき『一年有半』、『続一年有半』で日本語をもって日本語社会を批判しつくしましたが、このような近代日本の良心ともいうべき経験を継承しなければならないと思います。ことばは取り替えがききません。

  このような仕事は、実は日本という個別性に立脚して普遍性を獲得することだと思います。「現にある世界のうちにあるその構造を見ぬくことで未来を透視できるような視点を立てないことにはやはりどうしようもない」という言葉に深く共感します。私はそれは、現代日本の荒廃の真因を「近代日本の経験」として自覚化・対象化して、はじめて実現されるのではないかと思えるのです。現代日本の荒廃を深部でとらえきり、それを乗り越える思想として、実現されるしかないと思います。またそれは必ず可能であると信じています。

  このような仕事は、それ自身がことばをうみだすことであり、そうであるなら、そのための共同の場がいるのではないか、と思います。やはり共同の力で人間の経験を蓄積しつつ、ことばとことばに現れた日本人の人間関係を、再構築していくということでなければなりません。そのような場はあるのでしょうか。先生が言われましたように「存在しなかったことが具現する場面」を、目的意識的につくりだしていくことが、求められているのだと思いました。そして、それはまだ無い、と思います。

  以上、勝手なことを書きつらね、貴重な時間をとらせてしまいました。もっと貴著に密着した感想を述べるべきところ、貴著を読むことを契機として考えたことの一方的な陳述となってしまいましたことをお許し下さい。また、素人のとんでもない読み違いがあり大きな失礼をしているかも知れません。もしあれば、ご容赦願下さい。

  私自身は、ここでまとめることで、展開するべき幾つかの課題も明確になりました。自分自身の問題として取り組むつもりです。

  読みとおしていただきましたことに感謝しつつ筆をおきます。最後となりましたが、先生のご健康とますますのご発展を心より祈念申し上げます。   敬 具

一九九六年二月二十三日

【第二信】

拝復

  私の突然の感想に対して、ていねいなご返事をいただき、ありがとうごさいます。ご推察のとおり、私は、昭和二十二年生れの団塊の世代のものです。

  私の「悲観論」に対して、先生が「これはひどい、と考える人がでてくる条件かえって与えられている」と言わましたことは、まったくそうだと思います。マルクスが『経済学批判・序論』で「課題を解決するための物質的条件がすでに存在しているか、すくなくとも成立の過程にある場合にだけ、課題そのものが生まれてくる」と述べていますが、今「基盤のところから日本の地ならしをする」ことが課題として生れているということは、その解決の条件が成立しつつあるということだ言えます。とはいえ、解決を現実のものにするためには、解決しなければならないという内部からの切実な要求が必要であり、その力は、逆説的ですが現実に対する根本的な否定から生れてくると思うのです。私は、問題の第一歩は、現実の何を根本的に否定し何を解決しなければならないのかということを明確に言挙げしきること、つまり問題の設定であると考えています。問題を結晶させ真に設定することを、私自身の課題として取り組んでみます。私はまた、同世代のものほど「戦後民主主義」に否定的ではありません。当時から、戦後民主主義に否定的であった新左翼に対して、「新左翼の存在自体が戦後民主主義を前提にしているではないか」という批判を持っておりました。

  さて、先生はお手紙のなかで、宗教の問題に関して“歌”“語り”“理”のかかわりがどうなっているのかを、空海、道元、説話集、御詠歌などをとおして検証するとの課題を述べられました。この点に関しまして、一点私が先生の御本のなかで違和感を感じたところがありました。自分の読み取り方が間違っているかもしれないとの気持ちがあり、前の手紙では迷ったうえで書かなかったのですが、空海、道元がお手紙のなか出ててきましたので、思いきって述べてみます。それは八六頁の「空海でも道元でも理の表現の側に立つことになったのは、中国からの刺激を主要な契機としてであった」という点です。

  私は、生れ育ったところが京都の宇治で、そこには道元開山の興聖寺があり、宇治川東岸は小さいころからの遊び場所でした。そんなことから、正法眼蔵の世界に実感として強く惹かれ、大学に入ったころは京都相国寺の僧堂に参禅してきました。相国寺は臨済宗ですが、そのとき老師が提唱に使われたのが正法眼蔵で、昔の三巻本の岩波文庫の正法眼蔵を繰り返し読みました。正法眼蔵はわかりませんでした。参禅のほうも大学闘争の高揚の波にのみこまれて途絶えてしまったのですが、このときに学んだ道元の求道精神の非情なまでの厳しさと、春夏秋冬、とりわけ真冬の僧堂での座禅が、その後の自分の生き方の背骨となりました。

  私は、道元の発心・求道はまったく内部からのものであり、さらに天童山での道元の経験は、「中国からの刺激」ではなく中国や日本という文化の制約をこえた普遍的なもので、如浄もまた、普遍的な立場から道元に法を嗣いだと思うのです。道元は自分の経験を述べるために、自身は堪能であった中国語を漢文として使うことはしませんでした。中国語に堪能であっただけに、漢文式日本語の叙述に入り込む理の空白を道元は十分に認識していて、そうしなかったのだと思います。道元は、当時の日本語の枠組みのなかに中国語から漢字語を切り取って、独自に自己の経験に裏打ちされた意味をもって配置する、という方法をあみ出しました。当時の日本語の条件のなかでそれ以外になかったのだと思います。「而今の山水は、古佛の道現成なり」というこの「而今」を、他に訓読みしうる表現で言うことはできなかったのだと思います。言葉をこえた普遍性を獲得し、言葉からも自由な地点から逆に言葉を駆使したのではないでしょうか。ですから私は、正法眼蔵は「理にかかわる表現が自発的に発生した」数少ない実例であり、日本語の現実に立って普遍性を獲得する可能性を示すものだと考えたいのです。

  正法眼蔵の言語世界については、寺田透が詩人としてその世界を切り取ろうとしましたが、理の世界に切り取ることは本当のところなされていないと思います。森有正がパリの東洋語学校のテキストに正法眼蔵を使ったということが、彼自身の文章のなかに見えますが、それ以上のことはわかりません。理の世界から道元の世界を読み取ることは、道元が示した可能性を現代に甦らせることであります。先生が先の八六頁で言わんとされたことは違うことで、私が取り違えているのかもしれませんが、この叙述に違和感を持ったのは事実で、それはなぜかと考えてみた結果がここに述べたことです。素人の感覚として、受け止めていただければ幸いです。

  三月十日の朝日新聞の朝刊で詩人・評論家の北川透氏が「『オオム』の深層に言葉は届くか」と題して書評を述べ、結論として「どれを読んでも欲求不満が残る」という言い方で「届いていない」と言っています。私が、現状認識として「現代日本語は、理のことばがいのちの深みに届いていない」と言ったことと同じことをとらえているように感じました。「言葉が届いていない」との感覚が、共通感覚として成熟してきています。これを逆に言えば、課題が現実に存在している、ということだと思います。私も、自分なりに目的意識的に取り組んでみます。

  先生の御本に触発されて、いろいろ考えることができました。心から感謝いたします。考えていくなかで、自分が断片的に述べたことや感じたことを深めまとめる必要を切実に感じました。予備校講師をしながらですが、時間をつくって数年をかけてみるつもりです。

  言い尽くせないことが多いのですが、とりあえずはいただきましたご返事へのお礼とさせていただきます。季節の代り目ですが、先生のますますの御健勝を祈念申し上げます。 敬 具

一九九六年三月十二日

【第三信】

拝復

  空海、道元についての先生の御本の意図について、わかりました。仏教は、普遍宗教として、人間を日本とか中国とかあるいはヨーロッパとかの地域性でとらえず、人間そのものに立ち返ろうとする本性をもっていますが、そのなかで禅は、同時に具体性を絶対に離れないという指向性をもっていると思います。自分が立っている場所からとらえきるという目的意識性をもっています。個別文化の特質を破壊せずにそのまま普遍性へ向けて底を抜こうとするものです。道元の身心脱落は、身−心であって心−身ではなく、まさに体が悟るもので、肉体の個別性や個別文化から離れることなく、普遍性を実現するものです。私は、道元は中国という個別のなかでこの普遍を学んだと思うのです。

  現在あるところから超越した普遍性を立て、そこへ飛び出すことを求めるのがヨーロッパ文化の普遍、少なくともカトリシズムはそういう普遍性だと思います。禅は東洋の根源的智慧として、別の道筋を立ててきました。道元の言語世界はそれを表現する言葉として当時の日本語の土台のうえに道元によって造られた世界です。ここには日本語のひとつの可能性があります。その可能性をことわりの世界に再生させたいと切実に思います。私は、普遍と個別について禅がもっているこの智慧を育てねばならないと考えるものです。

  道元も、法然や親鸞らの鎌倉仏教の創始者と同様、いちどは比叡山に入り、その形骸化を見て山を降りた人です。私が道元に惹かれるのはさらに、道元が「山を降りた」人だということがあります。自分が大学をやめたこととひきあわせて、そのことに共感するからです。

  日本の学問的営みは、都市の、国家やその他の公と結びついた大学での学問と、それとは別の、山野を跋渉しあるいは市井に住みつつ、自然の原始的な生命力を土台する知性とが、併行し影響しあってきました。今昔物語によく「禅師」というのが出てきますが、あれは体制の学問を離れて山野を放浪する知識人の総称だと思います。空海もまた山野に入り、そのような人々から大きな影響を受けています。空海が得た自然のいのちの智慧ともいうべきものに、形を与え、普遍性を実現する契機となったのが、仏教でした。比叡山自身、最澄が、奈良の都市の学問を離れ山に入って仏教を内部からの地に着いたものとして開いたものです。が、平安時代の終わりころには、再び比叡山自体が体制の大学となり形骸化していました。

  このように日本文化は、これは一般的にいって周辺文化の特質だと思いますが、権力を背景とした新式の文化体制と、その無内容と形骸化に飽きたらず、そこを出て山野を跋渉することで磨かれた智慧との、対立と反発と葛藤を活力源として展開してきました。平安時代の「禅師」や中世の「禅律僧」とよばれる人々は、貴族やアカデミズムからは忌み嫌われてきましたが、庶民は彼らを頼りにしていました。原始的ではあるが生命力のある智慧をもっていました。私が大学をやめたときも、やはり私なりにこのような意味で「山を降りる」という感慨がありました。

  私はその後マルクス主義者として左翼政党の専従活動もしてきました。その頃も私は、宗教から、宗教という外皮や外枠を取り払い、そこからより普遍的で根源的な智慧を引き出すことが不可欠だと考え続けていました。今は本当にすべてが一からのやり直しであり、そのやり直しは根本的です。私にとっては、まずマルクス主義を再建に向けて徹底的に解体しなければならないと考えています。ただ、今、やはり私はこの解体は再建に向けてのものであると考えたいのです。が、たとえその過程で、さらに別の途に入ったとしてもかまわないと考えています。

  私は、内部で真に熟するまで「静かに沈潜」して待つつもりです。私には、今日までの時間はやはり必要なものでした。これからもまた必要なだけ待つつもりです。

  何度かやりとりをさせていただき本当にありがとうございました。何か本当に言うべきことが私のなかから出てきましたなら、またお手紙させていただきます。また先生の方で考えを公にされましたら、ぜひ読ませて下さい。

  ようやくに春となりました。学校も始まってゆく時節ですが、ご健康に留意され、ますますご発展されますよう心より祈念申し上げます。   敬 具

一九九六年三月二十六日

   大地震、オウム事件、野崎先生とのやりとり、これを通して私はもう一度はじめからやり直そう、と思った。自分の言葉が、やはり核心をつかんだものではないことを知らねばならなかった。内からあふれるように語ることはあるのか。これを考える場がほしい。


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