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日記から

   党派活動に従事しながら、思索日記は欠かさなかった。党派の政治活動からはみ出ることを、考え記録していた。その一部である。母の癌が、私が教員を辞めて専従となった時期に進行をはやめたことはまちがいない。表に出さない人であったが、心配をかけてしまった。母は戦時中の男手が足りない時代に小学校の代用教員をしていた。戦後、よく教員時代のことや、教えた生徒のことを話していた。私が結局教育関係の仕事を生業にしたのは、母の影響がある。以下の日記は、いささか自己陶酔があり、いい気なものだという面がある。今はそれをおさえて、当時このように考えていたという事実を記しておく。

◆一九九〇年四月五日

   母の一周忌を終えてきた。 四月一日、宇治奥の山に新しく建てた墓に納骨、法要をした。

   一年経ち、その喪失感は深い。昨年の四月二十三日が忘れられない。あの日、ほんの一時であったが、庭の草木を父と三人でながめた。あれが最後であった。そのすぐあとから苦しみ始めたのだ。あの日のことは生涯忘れられない。あの時の畳のひんやりとした感触、あの部屋の空間の明るさ、今となってわかる人生最後の時の緊迫感、そのすべてが忘れられない。一年経って同じ時節になり、母のいない同じ空間に立って、あのときの、時の深さを改めて知った。救急車で入院してからも、母は気丈夫であった。ベッドの蒲団の乱れを兄妹二人になおさせ、「きっちりしないといやなのだ」といった。そのあと「Mちゃんありがとう。にいちゃんありがとう」といった。それが別れの言葉であるとは、実際、思いもしなかった。

   追伸(2013.1.22):65歳になってこの言葉は重い。私も同じことを言うだろうとつくづく思う。こうして人間は代をついできたのだ。

   父は、入院してからの日々をとおしてあきらめをつけたのだ。最期の苦しみの幾日かを世話して、断念したのだ。手術の日と死んだ日に、「仏さんのような人だ」とくりかえしていた。父が母の死と直面していた日々に、私はなんと軽薄であったことか。最後まで甘えていた。

   さらにその前、一九八九年の八月、私が活動で上京するときに、一日宇治に泊まった。朝六時に起こしてくれた。あのときもうずいぶん調子は悪かったはずなのに何もそのことは言わず、親戚の人々の消息などを語っていた。そして私が家を出るとき後ろから見送ってくれた。その背後の視線も忘れられない。私は本当に心配ばかりをかけてきた。次に実家から連絡があったのは九月、癌が見つかったということであった。今になってそのときの母の心を思う。

   母は宇治の土となった。わが故郷宇治は、母の眠る地となった。故郷の思い出のすべては母の思い出と一体となった。川東の間借をしていた家から近い空き地で、妹を背負い私とともに父の帰りを待った夕方。宇治川東岸の借家の裏は、宇治川であった。冬の宇治川の凍てつく寒さのなかで、もたれた石垣の温り。その温りを求めて陽だまりのなかにじっとしている越冬中のハエ。山吹の咲き乱れる興聖寺の琴坂の、あの明るさ。宇治川の四季。すべてに新たな生命が宿った。わが人生は、母の死をもってその前半が終った。

◆一九九〇年四月三十日

   新緑の美しい時節となった。昨日から父が来て泊っていた。母が死んで一年、残されたものの心のなかに今、いっそうい大きく生きている。

   自分自身のなかに新たな思想が生まれつつある。『基本思想』のなかで自ら到達した一つの考えは、つぎのことであった。 現代が失った人間存在への問いかけを、自分自身の問題として、真理が明示されるまでに追究せんとするならば、まず党でなければならない。無私に革命的実践に身を投じるものでなければならない。『われわれの決意』をそのまま実践するものでなければならない。そのうえで、人類精神の再建は、自然になされるものではない以上、この荒廃を自らの問題としたものが、目的意識的に闘わねばならないのである。

   階級的人間性、革命的ヒューマニズム、共産主義的人間像、これは、階級社会を止揚して、人間の本当の歴史のなかで、その歴史のための闘いのなかで、創造される新しい人間である。この創造はすなわち、真理の顕現そのものである。そしてこれは、形式的な目的意識性では、絶対に自らのものとすることはできないのである。主観的な思い込みによって真理が顕現することはない。客観的に自らの境涯を高めないかぎりあり得ない。それはすなわち、名実ともに真の党とならねば、真理もまた、自からのうちに顕現することはないということである。

   この新しい人間の思想の、その本当の内実は、まだ私自身の中に生まれてはいない。ただ、原則的な党たらんとするなかで、待つのである。党的実践の充実のなかで、すべての風光は輝きを増し、人間に対するかぎりないいつくしみが生まれる。母の死は、私の思想に本当の深さを与えた。死をもってわが思想を育ててくれた。母は私のしていることがわからなかったのではない。その浅さを見抜いていたのである。この死を受け止められる思想を築けと言っているのである。課題がこのように提起されている以上、解決は可能である。

◆一九九〇年五月六日

   連休は終った。雨が続いていたが、やっと今日、六日になって五月晴れとなった。連休中になすべきはした。今日は夙川河原でYさんと焼肉をした。昨年は母が死んだ直後でしなかったが、一昨年までは毎年恒例であった。雲一つない本当の五月晴れであった。むせかえる草の匂いの中に居るのは心が休まる。

   連休中に三−四月度の報告書を書いた。この連休中に、毎日の活動の中にあって動じない自分をもう一歩深めたいと思っていた。自分の基本思想を文書にすることはできた。しかし、それはまだ方向を示しえているのみで、その方向において新しい人間を創造してはいない。自分が考えていたのは、自分自身一体何を求めているのかを見極めたいということであったのかもしれない。

   『井之川巨編 江島寛・高島青鐘の詩と思想 鋼鉄の火花は散らないか』(社会評論社一九七五年三月三十一日発行)を再読した。江島寛、高島青鐘や編者の井之川巨、そして丸山照雄らの人生があのようにあったということは私に勇気をあたえ、また歴史が現在のわれわれに、あの人生を本当に生かすという任務を与えたことに対する感謝を起こさせる。今、党のもとで生きることができることを心から感謝すると同時に、解決できる条件が生まれている今、人生の価値を表現しうる本当の文学と文学運動を再建しなければならない。実際、党がすべての問題なのである。

   昨夜はまた、種田山頭火のドラマをテレビで見た。風光の麗しいものであり、最後まで見てしまった。上のように考える一方で、私は、すべてを投げ捨てただひたすらに坐わり、旅する人生がわかる。そこに人間のひとつの真実がある。種田山頭火もまた、私が一九七一年の秋に見たものを、もっと深い人生を背負って、見たのだ。「落葉ふる奥ふかく御仏を観る」「みほとけのかげ私のかげの夜をまもる」

   日常活動のまっただなかで、どんと坐れるならば、そこに道はひらけるのだ。新しい力が生まれてくる。これまでの人生を真っ直ぐに生きてきたところに生まれる力だ。

◆一九九〇年五月十六日

   十三日に徳田球一を偲ぶ会で山宣の墓参会をした。善法の墓地に参った。雨も上がり、新緑の丘の山肌を五月の風が吹きぬけていくなかで、偲ぶ会の面々とひとときを過ごした。帰りには、皆が母の墓に参ってくれた。

◆一九九〇年六月三日

   五月三十日の朝、前日の混沌としたなかから、目覚めとともに、基本的に次の考えが明確になった。

   私は、かつて七〇年代初頭に、自分自身の内部に存在したブルジョア的な知の持つ根源的な非人間性に目覚め、それまで考えていた人生の方向では最早一歩も前に進めなくなった。そして、北白川の風土のなかで実現した転換を経て、真の人間性と真に人間的な人生を求道してきた。

   根本的で根源的な非人間性とは何か。それを「本質的な人間精神の分裂」としてとらえた。その根本原因は結局は労働が人間にとって真の人生の意義とならない社会、ということである。始め私は、それを個別日本社会の人間精神の分裂としてとらえ、その後ブルジョア社会の分裂としてその本質を理解した。 そして私は、問題を根本的に、可能なかぎり大きな枠組みのなかでとらえ、自らの進むべき方向をその大きな枠組みのなかで確定しようとしてきた。唯物論の立場を獲得することによって問題をいっそう根本的にとらえることができた。

   私がこれまで追求してきたことは結局それは「新しい人間」、すなわち『階級的人間性、革命的ヒューマニズム、共産主義的人間像』そのものであった。ブルジョア的な退廃に対する闘争であった。これは決して人民権力樹立のあとから人間の問題となるのではない。人民権力とその内実はブルジョア独裁に対する闘争のなかで下から成長するのである。すなわち、ブルジョアジーの非人間性に対する闘争そのものが「新しい人間」の創造でなければならない。

   毛沢東は文化大革命を発動して修正主義と闘い、闘いのなかでその対局に新しい人間を創造しようとした。その原型はすでに、湖南における根拠地建設時代に形成されていた。ただ、毛沢東にあっては共産主義的人間の創造として自覚された目的意識的なものではなかった。 私は、この問題に対する目的意識的な追求に、自らの人生をささげたい。それがいかなる内容をもつのか、それはわからない。すべては内因論であり、まず自らの思想として準備されねばならない。

   私は一九七一年の秋、九月二九日に、あの転換のあとで「今はただ、この出発点にまで戻ってきた自分を注意深く、静かに、確固としたものとし、そして、ゆっくり、出て行かなければならない。世俗のあらゆる事にも、或いは学問でさえ、その深い歩みとは、直接の関係はないのだ。自己を、そのように鍛えねばならない。その直接の関係ないものを、けれども一つ一つ試練として、またその深い歩みをより確かなものとするための機会として、誠実にうけいれてゆこう」と書いた。「深い歩み」は上述のこういう意義をもつことであったのだ。ここに至って思う。党とは、歴史に対して、現実に対して、人間としての根本的な誠意をもって生きることそのものであり、そういう人生を送ることであり、人間とはそれができるのであり、その故にそれは大いなることなのである。それは、組織の一員であるかどうかよりも根本的なことである。

◆一九九〇年六月十六日

   何度も、一九七一年九月二十八〜二十九日の日記を読み返す。あの時は本当に追い詰められいていた。自分が高校生の時に選んだ人生の方向が、本当に自分がなさねばならないこととは違うことが、下宿をして考え続けることによって、はっきりとしてきた。苦しみであった。夏の休みに、考え続け追い詰められていった。ではどうすれば良いのか。それは、まだまだわかってはいなかった。その時に、あの北白川の風光に出会い、たった一人の自己として自己の全歴史と向いあった。八十九年の三月二十三日に書き記しているように、これは人間の真実なのである。真実から出発して求道の道を歩んだがゆえに、その結論は、マルクス主義と党になったのである。

   あの時、自己の本来の面目、「父母未生以前の本来の面目」に向きあえたか。それは、そこまではいかなかった。ただ、歴史のなかで正しい人生を歩む一歩となったし、あの時があったからこそ、あのようなところにいた自分がここまで来ることができた。このことに満足している。 だが、あの時に残してきた課題に、ある意味では今、直面している。「父母未生以前本来の面目如何」。この問に答え得たとき、そこに広がるであろう世界は、あの北白川の風光に出会って湧き上がった懐かしさよりも、はるかに底が深く温かく、懐かしいであろう。今はまだ、ただ待つのみである。

   わが人生は、随分と簡明になった。知識人の複雑さが拭われてきた。この簡明さを力にしたい。そして全身で残してきた課題が開けることを待ちたい。それ以外に、自己の使命はない。今一番心残りは、家族のことである。

◆一九九〇年九月二十日

   台風が過ぎていった今朝は、空気の澄んだ静かな秋晴れである。思えば、一九七一年の秋の、あの転換も、このような台風一過の秋晴れの時であった。あの転換は自らが育った日本の風土への回帰であった。それは人間の現実に立ち返って再出発しようとしたかぎりにおいて重要な意義をもっていた。だがあの時の思索は、風土への回帰を通りぬけて人間の普遍的な真実にまで立ち返ることは、できていなかった。あの年の秋以降、普遍的な真理を求めて思索と行動を重ねてきた。それはまちがいない。それがこの二十年間の課題であったのだ。そして事実、あの時の転換を出発点にして、みずからを党に高め得た。

   以来二十年である。今考えていることを整理したい。結論を言えば、宗教を止揚しなければならない、ということである。とりわけ仏教である。そしてそれは、人間の本史たる共産主義の時代の新しい人間の創造にとって不可避なことである。人類の最後の社会は共産主義社会であり、この時代から人類にとって真の歴史がはじまる。

   人類は必ず新しい歴史、新しい社会としての社会主義と共産主義を実現する。科学技術の発展と生産力の発展は近代労働者階級を生み出し、この土台は人間の意識を変えていく。その変化する意識の本質は社会主義と共産主義への指向である。そして唯物論の示すとおり、存在が意識を決定する。つまり社会がかわれば人間もかわる。新しい社会経済制度のなかから、まったく新しい型の人間、協同意識にめざめた社会主義的人間が歴史に登場する。人間は教育され、新しい型の人間となる。このときからマルクスが共産党宣言でいうとおり、人類の新しい歴史、本当の歴史がはじまる。

   だが、土台ができれば自然成長的に新しい人間が生まれるのではない。連続革命のなかで、ブルジョアジーによる人間性の破壊に対抗して、新しい人間を創造していかなければならないのである。「新しい人間」、すなわち『階級的人間性、革命的ヒューマニズム、共産主義的人間像』に満ちた人間の本史の内実を創造していくことは、人民権力樹立のあとから人間の課題となるのではない。人民権力とその内実はブルジョア独裁に対する闘争のなかで下から目的意識的に成長させるのである。この時に、宗教の止揚は、やはり決定的な意味をもってくる。

  マルクス主義の宗教に対する基本見解は明解である。 「人間が宗教をつくるのであって、宗教が人間をつくるものではない」(マルクス『ヘーゲル法哲学批判・序論』一八四四年二月)。 「宗教は悩めるもののため息であり、非情な世界の情けであり、精神を失った状態の精神であり、それは民衆の阿片である」(同上)。

  宗教は階級社会における人間の疎外の反映であって、その社会では「人間的本質が真の現実性をもっていないための、人間的本質の幻想的な実現」(同上) がなされる。すなわち、宗教は疎外された人間の自己意識である。 「この国家、この社会が、それが逆さまな世界であるために、宗教を、すなわちあべこべな世界意識を生みだすのである」(同上)。

  ひとたび生みだされた人間の創造物としての宗教は、 「社会的諸関係の発展によって、それらは、人間を支配するところの、そして結局は人間のおのれ自身に疎外するところの、諸々の力になる」(マルクス『経済学・哲学草稿』)。 すなわち、宗教は、あべこべな世界意識である。

  まさにこれは、現実の宗教であり、この規定以外にない。従って宗教に対する態度は、 「宗教にたいする闘争を抽象的=思想的な説教にかぎってはならない。このような説教に終わらせてはならない。この闘争を、宗教の社会的根源の除去をめざす階級的運動の具体的実践にむすびつけることが必要である。……現代の資本主義諸国では、この根源は主として社会的なものである。……働く人びとに加えられている資本主義の盲目的な力に対する、この勤労大衆の外見上のまったくの無力さ、これが現代の宗教の最も深い根源なのである。……大衆がこの宗教の根源にたいして、すなわちいっさいの形態における資本の支配にたいして、自ら団結し、組織的に、計画的に、意識的に、闘うことを学ばないうちは、どのような啓蒙書も、この大衆のうちから宗教を駆逐することはできないであろう」(レーニン『宗教に対する労働者党の態度について』一九〇九年五月)

ということである。

   問題は、釈迦や道元が人間として出発し、求道の末に真理をみずからのうえに顕現させたことを、われわれはどうとらえるのか、ということである。釈迦、道元が自分の場合深く学んできた具体的・歴史的人間である。

   釈迦、道元の“悟り”は歴史的事実である。われわれとは断絶した個人的・神秘的なこととして、われわれの思索の範疇から追い出してしまってはならない。「人間的本質が真の現実性をもっていないための、人間的本質の幻想的な実現」であるとするならば、幻想的に実現されたことの本質は何か、ということである。まさにそれは決定的に幻想であった。出家するということはすなわち幻想である、ということである。だが当時はそれ以外に真の求道の道はなかった。真の問題は、その幻想のうえに実現されたことは、いかなる人間の本質なのかということである。人間的本質が真の現実性をもつ社会の建設は自然になされるものではなく、目的意識的な創造が必要である。それは土台たる共産主義生産関係の建設と、その一方における上部構造としてのそれを担う人間の意識、文化の建設が必要である。とするならば、“悟られた”人間の本質を明らかにせんとする思索の意義はかぎりなく大きいのである。なぜなら、われわれは階級社会のなかで達成された人類の成果を継承しないかぎり、新しい社会の建設はありえないのである。

   現在の自分自身のこの思索が実りをもたらすのか、もたらさないのかわからない。しかし、まず何よりも、真理をみずからの上に顕現させたいというこのことが、わが人生の原動力であったし、この求道がいわばわが人生の根幹である。そしてまた、二十年前のあのとき以来の内面における思索が、現実においては、党への結実をもたらした。人間にはこのような思索と求道が必要なのだ。求道は過程であり、いかに無心に原則的に歩み得るか、である。やはり、いかなる結果も期待しない態度のうえに、この思索を深めきりたい。

   ◎釈迦、道元の求道(発菩提心)の根底には、階級対立と階級闘争がある。釈迦は、奴隷制社会の小国の王子であり、大国からの侵略を受けんとしていた。その階級的没落の予兆を人間存在の「不安」として受けとめそこからの解脱を求めた。道元もまた、古代奴隷制の崩壊期に下級貴族の子として生まれ、幼少期の苦難から確固とした真理を求めた。釈迦、道元は、人間として真理を求め、修行し、真理を得たのである。これは歴史的事実である。

   われわれはまさに、人間の本質が真の現実性をもつ社会の建設のために闘っているのである。その党である。故にわれわれは、この人間の本質を自らの実践と闘争のうちに自覚することができる。その可能性がある。自分自身にあってこれはまだ現実性になっていない。

   このことばの内容は、「偶然的、個別的自己を脱却して、発展する物質としてのこの世界の法則に則った人生を生きよ。その法則は、哲学唯物論と弁証法、史的唯物論そのものである。その人生態度は『われわれの決意』である」ということではないか。だが、真に脱却すること、そのような自己を完成することは、また別の問題である。

   マルクス・レーニン主義は真理であり、党はその実践である。従って、現代が失った人間存在への問いかけを自分自身の問題として追究し、真理を追求するものは、まず党でなければならない。革命的実践こそ、真の創造の土台である。やはりこの結論に達する。 だがもっと考えねばならない。

   ◎これは新たな二十年の出発である。この二十年の内外の激動を原則的に闘い抜き、自らの内部を鍛えあげたい。

◆一九九〇年十月十二日〜十六日

   いくらかの時間を得て、心を内面に集中させることができた。これまでの思索を一歩踏みだすために、『新しい人間の建設』と題して系統的に考えを深めることにした。しかし、ただちに壁である。頭の先のことではないのである。あるいは単なる知的なことではないのである。宗教の総括と何度言っても宗教が総括されるものではない。

   自分自身に即して、一から、内面からすべてを点検し直さなければならない。『仏道をならふというは、自己をならふ也』。まず、この一節である。己を見つめよ。真理はそこからしか明かとはならない。では、この自己の内面のどこに何があるのか。この自己は党である。では一体それはいかなる意味をもつのか。何が、党なのか。党とは何か。党は真理の現実化である。それはいかなる意味を持っているのか。 このように考えるとき、やはりまだ人生の軸が定まっていないということを確認せざるをえない。

   共産主義人間の創造、その方向、その内容の発見と創造というこの問題が、これまでの自分の思索と求道の本当の意義であるとつかみ直し、自己の前半生を後半生の課題と結合させたことは、絶対に正しい。世界がまさに大破局、大動乱と根本的な再編成に向かっており、それが結局は共産主義へ向かわざるをえないものであること、修正主義、反スターリン主義の大合唱のなかで、真理がわが方にあることもまた、はっきりとしている。

   しかし、まだ求道は本当の切実さをもっていない。仏教の出家は幻想であると今の自分は言いうるのか。現実の中にありながら、主観的には出家と同じこと態度で考え、また行動する、そういう態度をとってはいなかったか。これまでの前半生は実際そのような人生であったのではないか。その幻想のなかで真理の一端をつかみえたのは、まったくの偶然に近い。いや、改めてこの真理をももう一度点検することが必要である。この幻想的な人生態度はまだ根本的には転換されていない。一歩前進したのなら、一歩人生態度が変らなければならない。人生の基本的態度、基本構造が根本的に変らなければならない。

   現代、つまりは階級社会から共産主義社会への大転換期における求道はいかなる内容そのものであり、いかなる原理的構造であるのか。そして、その求道を生きることが新しい人間の創造そのものであるという、基本的な路線を明示しなけれならない。この課題はもはや幻想ではない。ここから出発して、明確な陳述をなすことが、幻想的に実現された真理の本質を、転倒を逆転させて真理として体現させることなのである。


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