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宇治の歴史

  下流(北方)を見る(02.03)

 百人一首にある喜撰法師の歌「わがいほは みやこのたつみしかぞすむ よをうじやまと ひとはいふなり」以来、宇治は「みやこのたつみ」、つまり京都の東南にあるものと意識されてきた。が、それは平安時代に生まれた京都を軸とする意識であって、宇治は京都盆地にみやこができるよりもはるかに早く開けた。宇治の歴史は、二世紀、今日の「木幡」という地名のおこりと言われる、許国(このくに)が宇治地方に成立していたところにさかのぼる。この時代の日本列島には多くの小国家が郡立していた。ちなみに「木幡」は「許の国の端」、つまり「許端」からきているといわれる。

 宇治は、琵琶湖を流れ出た水が湖南の山塊のあいだをとおりぬけたところに拡がる扇状地にある。大阪平野から淀川をさかのぼり、陸路に出てさらに東に進もうとすると、半世紀前まであった宇治川の遊水池・巨椋池(おぐらいけ)に出会う。巨椋池の東南が宇治である。大阪平野と東日本を結ぶ交通の要地にあり、日本列島西部の勢力と東部の勢力が陸上で出会うところであった。ユーラシア大陸の東縁に位置する日本列島は北海道から樺太、そして千島列島を通ってアジア大陸東北部につながる線と、九州北部から朝鮮半島、また琉球弧から海の道を経て中国南東部につながる線があり、その南北二つの線からこの日本列島弧に進んだ人が出会うところ、それが宇治であった。

 宇治川に橋がかけられたのは律令体制のもとにあった大化二年(六四六)のことであり、橋のたもとに市が立ち、そして街が開けた。今も盆の前には朝市が出る。東と西、東西の縄文、縄文と弥生、東西の弥生、さらに大陸からの渡来者と土着の勢力が、この宇治の地で出会った。この出会いとその蓄積が、竹取物語、源氏物語、今昔物語、宇治拾遺物語などの物語を育てあげた。

  

  宇治橋から上流を見る(02.03)

 宇治という場の性格を定めたのは、応神天皇の子で仁徳天皇とは異母兄弟になる五世紀の人・莵道雅郎子(うじのわきいらつこ)である。私の小学校は「莵道小学校」と書いて「とどう」と読む古い学校であった。莵道雅郎子がこの地に来たとき、道に迷ったところ兎が現れて、道を振り返り振り返りしながら案内した。この『見返りの兎』の伝承から莵道という地名がおこった。それが小学校の名前なのだと何度か母に聞かされた。兎の道案内という話は南方熊楠の『十二支考』にも記されており、イギリスはじめ各地にある。戦後はもう日本神話を学校で習うことはなかったが、親の代が覚えた昔話として成長の過程で印象の奥深くに刻まれている。莵道雅郎子という名は宇治に育ったものにとって、深くはわからないままではあったが、忘れがたい名なのである。

 古事記と日本書紀によれば、莵道雅郎子は応神天皇の末子で幼少より聡明であった。百済の人である阿直伎について典籍を習った。まだ文字で日本語を書き記すことがおこなわれず、思想が口承によって形作られ受け継がれていた時代に、雅郎子は文字というものそのものの意味を理解した。さらに文字が表す内容について深く把握した。翌年、同じ百済の王仁がきて阿直伎に代わり師となった。彼らが文字をもって考えることを日本人に教えたのである。

 

  宇治川東の山塊とその頂上にある雅郎子の墳墓。
この麓に宇治上神社がある
(11.03)

 このとき伝わった思想は儒教である。雅郎子の時代、中国文明はすでに巨大な文明として成立していた。紀元前千数百年に成立した殷からは二千年近い時間をかけた成熟を達成していた。雅郎子の時代から今日に至る時間がすでに経過していた。雅郎子はその文明を理解した。百済と日本の関係はまだ明確でない。ただ当時中国は五胡十六国の時代から北魏と宋の南北朝時代へと大きく動いた時代であり、朝鮮半島もまた高句麗、百済、新羅がこの中国の変化を受けて激しく動いていた。六六三年の白村江の敗戦によって倭政権が朝鮮半島から撤退するまで、四、五、六世紀のあいだ日本と朝鮮は一体となって動乱の時代をおくり、そのなかで地域的な協働体を超える新たな国家が形成されつつあった。

 日本という意識がすでに形成されていたのかわからない。「日本」自体は中国からみて、日の出る国ということであり、大陸人の視点である。当時はまだ、東アジア全体のなかに、倭政権あり、高句麗、百済、新羅の政権があり、そして大陸の諸政権があり、ということであったのかも知れない。雅郎子はそのような時代に生きたのである。百済からの知識人がはるばる渡来したのは、百済からみれば新羅に対する同盟の相手としての倭政権への連帯であった。『日本書紀』の応神天皇のくだりには「二十八年秋九月、高麗の王が使いを送って朝貢した。その上表文に、『高麗の王、日本国に教える』とあった。太子莵道雅郎子はその表を読んで怒り、表の書き方の無礼なことで高麗の使を責められその表を破り捨てられた」。日本書紀のなかで莵道雅郎子のこの行為は、新興の支配階級の知識人の毅然とした態度として描かれている。日本における漢字使用は、『宋書』倭国伝に「倭王武」の上表文として、四八七年という書かれた年代とともに明確な跡を残している。これは莵道雅郎子のときからおよそ半世紀後のことである。

 応神天皇は雅郎子を後継皇太子に指名した。その翌年応神天皇が死ぬと、年長の異母兄大山守皇子が反乱を起こし莵道雅郎子を襲う。もうひとりの異母兄大鷦鷯(さぎ)皇子が雅郎子に知らせ、雅郎子は木津川で大山守皇子を殺す。だが雅郎子は大鷦鷯皇子こそ即位すべきとして自らは即位しようとしない。大鷦鷯皇子もまた難波にあって先帝の遺志を守り即位しようとはしない。雅郎子は、日本の習慣としてあった末子相続を、自ら学び思想となった儒教で否定し、年長のものこそ即位すべきだとしたのである。だがこれは同時に父の遺志に背くことになる。儒教思想に立つなら、いずれにせよ矛盾するのである。ついに雅郎子は自死する。こうして大鷦鷯皇子がやむなく即位し仁徳天皇となる。莵道雅郎子は思想に殉じて死んだ。

 これが古事記と日本書紀に描かれた莵道雅郎子である。事実として何があったのかはわからない。三人の皇子は異母兄弟である。それぞれの母親の里の勢力が背後についていた。雅郎子には莵道の土着の勢力が、大山守皇子には大和盆地内の古い勢力が、大鷦鷯皇子には河内平野の勢力が、背後にあった。雅郎子と大鷦鷯皇子が連合して大山守皇子を倒し、そののちに雅郎子の勢力が大鷦鷯皇子によって倒されたということかも知れない。残された播磨の国の風土記の断片に「宇治の天皇」という記述がある。雅郎子は即位したが早々に殺され、即位自体が否定されたのかも知れない。そして日本書紀の書かれた時代には、天武朝と雅郎子の背後にある莵道の勢力との関係が敵対的なものではなくなっていたがゆえに、このような和解の物語として描かれたということは大いに考えられる。また儒教に殉じたということも、中国を意識して対外政治のために書かれた日本書紀であるから、このように脚色されたのだとも考えられる。倭政権にも儒教に殉じた人がいたのだということを強調することは、大いに意味のあることであったはずである。

 雅郎子の時代から日本書紀の時代まですでに三百年が経過している。だから日本書紀の記述をそのまま歴史的事実とすることはできない。儒教もまた当時の日本の支配階級とその知識人にとって内部からの必然性はなかったはずである。ただ、中国の支配思想であり、また朝鮮が中国と同じかそれ以上に儒教が広まっていたから、それに対抗して日本書紀では、儒教に殉じたことにしたのかもしれない。日本書紀を成立させた天武の王権は、万世一系の物語のために莵道雅郎子の即位を無視し、さらに仁徳との争いも和解の物語に作りかえたと思われる。日本書紀の記述は、内発的なものではなく外を意識して組み立てることによって体裁が形成されていた。日本におる思想形成の基本的な特質である外因依存の傾向性を備えている。はじめて文字で書かれた歴史書がすでにこのようなものであった。

 莵道雅郎子は文人として死んだ。莵道雅郎子の墓は宇治川東岸の山塊そのものである。雅郎子の屋敷があったと考えられる宇治上神社は東の山を背にその山塊の麓に位置している。応神天皇の時代にその皇太子莵道雅郎子がはじめて漢字とその文明を理解し修得したこと、それが朝鮮中国日本が一体となった東アジアの激動と交流のなかで実現したこと、莵道雅郎子が宇治という東西の勢力の相交わるところで皇位継承に絡んで若死にしたこと、その墓が宇治の山塊であり、その居住跡が宇治離宮・宇治上神社であり、宇治の地の基本的な構造を決定していること、これらは確実なことである。

 後世、宇治という地は古事記や日本書紀のこのような記述によって理解されてきた。たとえば紫式部の源氏物語宇治十帖はこの宇治の構造をふまえそれを下敷きとして編み出されている。「思想に殉じた最初の人である莵道雅郎子」という日本書紀の記述が宇治を根底で支配してきた。

 莵道雅郎子は、東方の勢力と西方の勢力がせめぎ合う現実の土台のうえに、圧倒的に優勢な中国文明を理解し受容し自らの思想としたのである。だが、雅郎子は自らが中国文明を自己の思想とすればするほど、自己の土台である現実の世界から遊離していくことを知っていたのではないか。そのようなものが王たる国家は根本的に脆弱であることを理解していたのではないか。

 それに対して大鷦鷯皇子はたとえ聡明さにおいて雅郎子に劣っていたとしても、即位して四年の春に民の竈に煙の立たないのを見て三年間の課税を停止し、三年の後に「人家の煙が国に満ち、人民が富んでいる」とのべたことが事績としてのるように、現実の土台に立脚して王権を確立することのできる人であった。雅郎子は大鷦鷯皇子のこの本質を見抜いていたのである。確固とした権力をうち立てるのにいずれが適任であるのかを知っていたのである。だから、日本書紀に述べられているとおりに自死したのか、あるいは大鷦鷯皇子と争って死んだのかは、実はいずれでもよい。いずれにせよ、ある方法でより王にふさわしい大鷦鷯皇子を後継者にするために自らを滅ぼしたのであることに変わりはない。

 応神、仁徳に関するくだりからは、雅郎子を軸に、日本語の成立と政治権力の場における知識人の運命を読みとることができる。宇治はこのような歴史の舞台であった。雅郎子のこの問題は、宇治の問題なのではなく、実は、今日に至る日本の知識人と思想の運命に関する問題である。

  

  山本宣治の墓碑、戦争中は
石こうで塗り固められていた

  

花屋敷山本家の墓(10.05)

 宇治は物語の場所であるとともに、また幾多の戦場ともなった。とりわけ寿永三年(一一八四)源範頼・義経軍と木曽義仲軍との戦い、承久三年(一二二一)の後鳥羽上皇軍と鎌倉幕府軍との戦いは、いずれも日本政治史の画期となるものであった。源平の戦いの時代からさらに下って戦国時代には、山城の国一揆の根拠地ともなった。

 さらに近代には山本宣治が出た。彼は、日本軍国主義に対して闘いぬいた。一九二九年春、治安維持法改悪反対の演説をおこなう予定で草稿を準備していたが、一九二九年三月五日与党政友会の動議により強行採決され、討論できないまま可決された。そしてその夜、軍国主義者の手先となった右翼団体である七生義団の黒田保久二に刺殺された。このとき治安維持法改悪に反対したのは、山本宣治ただ一人であった。

 それに先立つ日、彼は全国農民組合大会で「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る! だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから…」という有名な演説をした。宇治川西岸の小高い岡の上の墓地にはこの言葉を刻んだ碑が立ち尽くしている。それは、一九二八年三月一五日に続いて、一九二九年四月一六日に共産主義者への一斉弾圧があった年であり、日本軍国主義が破局の道に踏み出したときであった。


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