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継承と断絶

 人が故郷を思い出すときに浮かべる心像風景は一代かぎりの個別の人だけのものである。自己が滅したらもう何も残らない。だがにもかかわらず、一つの風土とその風土のうえで営まれる生活の場の風景として、その心象の核となるものは共有される。私にとって故郷は、人の真実をかたるときその人間の具体的事実そのものとして不可欠である。故郷と故郷の生活は、人が転換を迫られたときに立ちかえる原点である。

 資本主義は故郷を奪う。政治のゆえに故郷にいられなくなるということもあれば、経済活動を通して故郷が変わってしまうこともある。故郷が平均化され、その固有性が奪われることもある。それだけに、事実としての故郷を書き留め、人が守るべきものを考えたい。

  

宇治川の朝(04.01)

  

  橋寺から宇治川を望む(03.06)

 私が生きた短い時間のなかでも人の土からの遊離は大きくすすんだ。新石器革命からこの方、人は土との交感をどれだけ失ってきたのだろうか。人がこのように土から離れていくということは一体何を意味しているのだろうか。失ってきたことをどのような形で取りもどすのだろうか。取りもどせるのだろうか。

 今日の日本語の言葉としての土台は長い縄文時代に形成された。それは環太平洋とユーラシアに広がる言葉の一つであった。人々は土と太陽の恵みのもとで、大いなる自然との交感のもとに、言葉を形作っていった。紀元前十世紀にこの日本列島にやってきた弥生人は鉄器と稲田稲作の文明を持っていた。彼らは長く縄文人と共存しながら、原日本語の上に混成語としての弥生語を生み出していった。「もの」や「こと」や「とき」といった現在の日本語の基幹をなす言葉も弥生人の農耕文明が縄文の生命力と出会うことで形成された。五世紀頃にはすでに混成語としての日本語が成立していた。天皇家の祖先などは五世紀前後に大陸から亡命してきて列島を支配したにすぎない。

 資本主義は発展過程で何度も何度も土と人の繋がりを断ち切る。断ち切ることによって搾取自由な労働力をつくり出す。それはまた農耕に土台をおいた文明からの断絶である。故郷は戦後世界のなかでどんどん変化し、世相は大きく変わった。高度経済成長は水俣の水銀汚染をはじめとする公害に至るのだが、同時に生活様式の変化が日本人の考え方を奥深くで変えた。例えば炊事が土間でするものから板の間でするものに変わったようなことが、決定的である。

  

  新緑の宇治川(04.06)

 私が住んでいた長屋にも竈があった。それが六〇年代から七〇年代一斉に洋風の台所に変わっていった。炊事と農耕文化の断絶が起こった。竈からガスや電気に変わるにせよ変わり方はあったはずだ。しかし実際のところ、土と食の繋がりを断ち切るかたちでこの変化が起こった。資本主義に他の方法は不可能だったということである。これは日本人の考え方にとって後戻りできない大きな変化だった。この時期を境に日本語もまた大きく形を変えた。意味の定まらない漢字訳語からさらに音訳洋語が氾濫しはじめる。土との断絶が言葉も変えていった。

 日本近代はこのような断絶を繰り返してきた。明治革命自体が、国学の思想を裏切って成立した。明治政府は軍国主義に向かう過程で神社制度を通した人民の思想支配を企て、一九〇六年(明治三九年)の神社合祀令といわれる神社の整理統合を行い、その過程で多くの神社の取り壊しが行われた。全国で一九一四年(大正三年)までに約二十万社あった神社の七万社が取り壊された。単に神社の統廃合ではなく、古くから神社とともに伝わってきた固有の生活文化が断ち切られた。まことに深い断絶であった。それは幸徳秋水らを処刑した大逆事件と対をなすものであり、そのうえに日本軍国主義の大陸侵略が行われたのだ。

 そして高度経済成長による断絶である。失われたものは何か。そしてそれは根こそぎ失われたのか。あるいはまだ掘り起こしうるのか。あるいは取り戻しうるのか。このように失われたものを記憶に残して人はこれからどう生きるのか。人が生きることとは何なのか。土との断絶の記憶は、逆に人の根元を問いかける。これは日本語世界にかぎることではない。人は再び甦るのだろうか。私はこの問いをかかえて生きてきた。

  

  小学校の裏山の竹藪(03.01)

 私は明治六年開校という莵道小学校を出た。二〇一三年の春、久々の同窓会があった。その事は「小学校の同窓会(二)」に書いた。

 そして、京都学芸大附属桃山中学校を受験した。いまのように塾があるわけでもなく、ただ京都の街は小さい頃からの憧れでもあり、親の言うままに受けた。はじめは不合格であったが、しばらくして補欠合格が来た。当時の附属中学は高校がなく、高校のある私立中学に合格した人が、附属中学を辞退して、その分こちらに補欠がまわってきたのだ。

 宇治から伏見の桃山に通い、それから高校は大阪学芸大附属高校の天王寺校舎にすすんだ。これも受けたら通ってしまった。当時、父が大阪心斎橋にあった本屋の丸善に勤めていたので、親が通えるなら,いけるだろうと受けたのだった。高校を大阪で過ごしたことは、大阪という街を知るうえで意味があったし、そこでの高校生活は、その後の土台となった。

 その一方で、当時の私には、この親戚縁者のいっぱいいる古い宇治の町から出て行きたいという気持ちがあったこともまちがいない。少しずつ新しい世界に出て行くような気持ちであった。人はいちどはこうして故郷を出なければならない。そして長い道をたどって、故郷を見直す。そこに至る遍歴のはじまりでもあった。

 後に書くように、一九七一年の秋、日記に「今、やっと自分が出発点にまで、戻ってきたのだという事を、しみじみ感じる。そしてこの出発点というのは、自分が幼い日に、無意識に、無邪気に、とり入れた、何かあるものと直接に継(繋)っているのだという気がする。」と書く経験をした。そして、そこからまた歩みはじめ、それをふまえて、二〇一八年三月に『神道新論』を表した。これはいわば、「幼い日に、無意識に、無邪気に、とり入れた、何かあるもの」を言葉にしようという試みであった。


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