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父母の言葉

  一族の祖先は近江商人だと聞かされてきた。江戸時代の後半に初代辻利兵衛が近江から宇治に来て茶菓子屋を開き、その長男である辻利右衛門が、江戸幕府の衰退とともに宇治茶が廃れてきていることを惜しんで、万延元年に茶問屋を開いた。曾祖父の与左衛門はその弟で、河村家に養子となった。宇治の古い茶問屋は秀吉の時代から続いているなかで、辻一族は宇治では新しくやってきた者である。新しく来た者だけに進取の気があり、玉露の新しい製法と,運搬のための茶櫃の発明など,製茶技術の改良で大いに貢献した。その功労を顕彰されて銅像になって平等院の入り口に立っている。

 母親は京都近郊の農家の人であった。京都の橘女学校を出て和裁の免許を持っていた。戦時中男手が足りないときに莵道小学校で代用教員をしていた。それで父を紹介する人がいて結婚した。小さい頃、内職に和服を縫っていたのを覚えている。一九八八年の秋に大腸の癌が発見され手術をしたが、結局翌年四月二十八日に死んだ。一九八九年一月から二月は、一時小康を得て家で療養していたが、そのころに、孫へ戦争中の思い出を書き残した。いろいろと手を加えて、別のノートに清書が数行ばかり書き始められていたが、そこで終っていた。

戦争のころの思い出

 Tちゃんとお約束をしていた戦争の思い出、その時の兵隊さんや日本人の暮らしぶりについて私の記憶を少し書いてみます。

 昭和十二年七月七日、蘆溝橋(ろこうきょう)事件が起こり、日中戦争が始まり、昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃で昭和天皇の宣戦布告があって太平洋戦争に入りました。

 この時の私は女学生で京都まで通っていましたが、路面電車(市電)はガラスが割れていたりして冬は寒いでした。平安神宮や京都御所へ武運長久をお祈りによく行きました。卒業して昭和十七年四月から十九年三月まで宇治菟道(とどう)校の女子組を担任する先生でしたが、学校は男の先生はだんだん出征していかれて、五十人の中、男の先生は十人もいませんでした。町の中は若い男の人の姿がへっていって「もんぺ」をはいた女の人の働いている姿が今も目の前にちらつきます。戦争は今のような原子爆弾ではなく、機関銃とか鉄砲、戦車でした。召集令状といって「赤い紙」がきて何月何日集合と親が病気でも子供が小さくてもいやおうなしです。しかし戦場は中国とかフィリピンですから身近なこわさはありませんでした。私の組の子のお父さんも召集令状がきて、朝早く日の丸の小旗をもって駅まで送っていったのです。その時そのお父さんは涙を流して「子供をよろしくたのみます」と言って淋しく汽車の窓から手を振ってられた姿が、今でも目の底にやきついています。

 しばらくすると役場(今の市役所)からお使いの人がこられて、「名誉の戦死です」と通知を持ってこられたのです。そこのおうちは三年生の女の子と一年生の男の子でしたが、お母さんが頑張ってこられて今はお米屋さんとして立派に暮らしておられます。

 私の実家でも二番目の兄が三才と一才の女の子をおいて出征したのです。フィリピンへいく船が太平洋で撃沈されて戦死です。遺骨と言って白い布で包んだ箱が帰ってきましたが、中身は砂でした。

 そのころの人々の暮らしぶりは、お米は配給、野菜は家で作れる人はよいほうで、お魚もお肉も忘れたころに配給でみんなひもじい思いでした。山で木の葉や木ぎれを拾ってきてお風呂をわかしている家もありました。それもできない家は何日もお風呂に入れず、石けんもだんだんなくなり、洗濯も遠のき、頭や体に「しらみ」という小さな虫がわいてかゆくて勉強もできないので、放課後頭の「しらみ」を取ってあげるのです。勉強のほうも兵隊さんの見送り、防空訓練、ストーブ用のまき運びと、みな戦地の「兵隊さんありがとう」という気持と、神国日本はかならず戦争に勝てると思って頑張りました。お昼のお弁当も「むぎこはん」「大根めし」はよいほうで「さつまいも」のふかしたのを持ってきている子もいました。どうしてもその日は持ってこられなかった子はお弁当の時間は外で遊んでいるのです。私はお弁当を持っていてもだれに食べさせてあげることもできず、食べない日もありました。上履き(ズック靴)は一カ月五足くらいクラスに割り当てがあるのですが、足と靴が合わない子は順番がなかなかこないのです。わらぞうりの子はよいほうで、はだしが多く、先生もはだしで頑張りました。放課後の掃除は校長先生が「心をみがく」と言われて、冬でも水でぞうきんをしぼり、光がでるまでふきました。

 そのころの新聞やラジオでは、「どこどこ爆撃、敵機何機撃墜、敵艦撃沈」という喜ぶようなことばかりでしたが、ほんとうは日本に不利の形勢だったようです。

 私は校長先生やK家のことをよく知った先生のすすめで三月でやめて昭和十九年五月十八日に結婚しました。おじいちゃんは京都の丸善という洋書の会社から舞鶴というところの軍需工場に行っていたので、宇治に三日いて、二十日に戻り、舞鶴で生活しました。ちょうど一カ月ぶりに宇治に里帰りしているところへ召集令状がきて、私はそれをもって舞鶴に戻りました。そしておじいちゃんは二カ月後に応召しました。舞鶴の家をかたづけてそれから宇治で生活です。おじいちゃんは中支へ送られたようでした。この時はおじいちゃんのおかあさんと生活しました。弟さんは中支へ出征中、もう一人の弟さん(大学生)は学徒動員で愛知県の知多半島の軍需工場へ行っていました。おじいちゃんのおかあさんは何でもよくできた人で、私は何でも教えてもらって失敗しては「すみません」言っていました。そのころ人にたのまれて家で若い娘さんにお裁縫を教えました。宇治の工場へ二回ほど焼夷弾が落とされましたが、京都は古い都ですから爆撃だけはまぬがれました。

 中支へ出征しているおじいちゃんや弟さんからはたまに葉書がきましたが、書いたときは元気でも、着くころはどうなっているのかと思うと不安の多いことでした。そして銃後の国民も兵隊さんに負けないようにと勤労奉仕、出征兵士の見送りと忙しい日々でした。もしも空襲があったらと、家の土間に防空壕をほってもらい、肩かけかばんを作って大切なものを入れ、綿の入った防空頭布を枕もとにおいてふだん着のままでねるのです。

 戦局はだんだん日本に不利になり、敵が上陸してきたら竹やりでさしてやると言って家のかど口に立てかけてありました。軍部や政治家には分っていても、国民は勝てることを信じて不平不満を言わすに働いていました。そうこうしているうちに敵が上陸してくるとか、沖縄へ上陸とか色々なことが言われて出征兵士の家は二重の心配で大変でした。そうしていよいよ日本に敗戦の色がこくなってきたとき、ついに昭和二十年八月十五日、昭和天皇のお言葉で終戦となったのです。ラジオで天皇のお声を聞いて涙がとどめなく流れました。何の涙だったのか、くやしさ、やれやれ、おいじいちゃんや弟さんのことを思っていたのでしょう。

 戦争には負けたが、その日の晩から電気がつけられたのが嬉しくて今でもよく覚えています。下の弟がみずぼらしい姿で帰って来ましたが、元気であることが何よりで、三人で白いご飯をたいて食べました(お米は裁縫を教えていたのでもらった分です)。それからの毎日はガラス戸の爆風よけの紙をめくり、家を開け放して掃除をしたりして忙しいことでした。日本の国の軍部や政治家の人はこれからが大変な日々が始まります。うちではおじいちゃんと弟さんがまだ帰ってきませんので、二人分の陰膳を供えて待ちました。

 世間の人が食べ物に困ってられるので三人で大根めしも、さつまいも入りごはん、メリケン粉入りみそ汁も食べて、みんなの苦労を少しでもと味わっていました。

 役場の人がおじいちゃんの部隊名を色々としらべて知らせてくれましたが、顔を見るまでは安心できませんでした。そうこうしているうちに、弟さんが昭和二十一年二月、おじいちゃんが二十一年六月五日にあかでよごれた軍服で帰ってきました。まだ河村の長男が中国の大連から引き揚げてないので、家中で無事を祈っていました。二十二年三月六日、長男一家が十人で引き揚げてきました。大きな家があったのでよかったのですが十五人の食事の用意は大変でした。それからTちゃんのお父さんの生まれる日が近づいてきたので、別のところで住んでおじいちゃんと二人の生活がはじまりました。和裁を習いにくる人もだんだんふえて、おじいちゃんは元気で丸善へ勤め、まり子、るり子も大きくなって、今日になったのです。

 昭和天皇が一月七日に亡くなられました。昭和の前半は戦争でした。私はKちゃんやTちゃんにそんな思いをさせたくないので、戦争といういまわしいことが二度と起こらないように、戦争反対の署名はどこでもしています。

 今の日本は表面は豊かでありがたい国です。でもあまりもったいないことをしないでください。何時か食糧難の時が来ることがあるかもしれないことを心にきざんでおいてください。

 今は健康に注意してお父さんお母さんの言うことをよくきいて頑張ってください。K兄ちゃんにも読んでもらってください。

 これが両親であった。親は戦後働きに働いて子供を育てた。子供に自分たちが受けられなかった大学教育を受けさせることもまた働く意味であった。そして私はとにかく京大で数学者を目指しているはずであった。私は後に述べるように結局は大学院を中退して高校教員になった。

 私が教員になったのは、代用教員時代を懐かしそうに話していた母の影響があるかも知れない。親もまた、教員になることは理解してくれていた。

 その息子が四十歳を目前にして高校教員を退職し左翼組織の専従になった。私のすることを、「大学でいろいろあった時代だったからなあ」といいながら、やはり理解しようとはしてくれていたと思う。しかし世間体やら、それになにより孫たちをちゃんと育てられるのか、ということでずいぶん気苦労をかけたことはまちがいない。

 私が教員を辞めたことは宇治や京都に住む親戚にはいっていなかった。母がこの孫への手記を書いたころ実家に見舞った折りに、親戚にいえばよいではないか、という私の言葉に対して、「共産党なんていえるか」と癌が肺に転移して息苦しいなかではっきりといったことがある。

 母が免疫力を弱め、癌を発病したり進行がはやかったのは、私にも責任がある。しかし、当時、こちらも必死で、母を思いやる余裕はなかった。今はただ手をあわせることしかできない。そして、母も父も亡くなってから、私は左翼活動から離れたのだ。

 この歳になってようやくに母の気苦労を思いやることができる。人はこうして歳を重ね、そして土に還るものなのだ。つくづくとそれがわかる。

  父親は京都の丸善に働いていた。父は幼年期を大連に過ごし小学校に上がる前後に日本に帰ってきていた。高等商業学校を卒業して大阪の市立商業、今日の大阪市立大学に推薦入学が決まっていたときに、その父に死なれ、進学の夢が断たれた。少しでも勉学に近いところと本屋に就職したのだ。以来定年まで徴兵の間をのぞいて丸善に働き、定年後は系列会社の役員になって終わった。その後は、本家の茶問屋を手伝い、また宇治の文化財愛護協会の世話をしていた。源氏物語宇治十帖ゆかりの場所に由来を記した板が立っていたが、それは父の字だった。筆の立つ人であった。私のしたいことについては、まったく好きなようにさせ、なにもいわなかった。

  父は、母が亡くなってからおよそ二年後に肺癌で亡くなった。死ぬ直前の時期に自分の生い立ちを書き始めていた。ほんのはじめのところで終わったが、本家の支店の茶問屋があった大連の思い出を書き記している。

大連の思い出

 幼き日の思い出、うすくらい北国の風景を思いだす、町並みは日本と違い赤煉瓦の家々で道幅は広くとつてある。それが大連である、大広場にある大山元帥の銅像とその背景にあるヤマトホテル、その横をとおって赤煉瓦の大連商業学校を経て幼稚園へ、大樹のある薄暗い園舎であつた。日本橋の下を南満州鉄道がとうり黒煙をはいていた。夜は五燭程の電気がともり、薄暗い町中を演歌師が演歌をうたいながら流していた。

 大正十一年浪速町の家を馬車に乗り大連埠頭にきて船に乗り内地に帰る。ぶらじる丸で神戸につき宇治に帰る。宇治の町におり立ち五燭ぐらいの明るさの中にうかんでいた町をみてなんという田舎だと感じた。

 蛇がおり関東大震災あい内地はこわいところだなあと思った。小学校に行く時、毛糸のジャケッにランドセル、革靴という格好は異色で、大半の子供は絣の着物に草履ばきであつた。卒業の時は男女組で今の進学コ−スであとはほとんど高等小学校へ進んだ、PTAにおべっかする塚本という先生と軍隊帰りのこわい尾崎先生ぐらいであまり良い印象は残つておらない。

 京都市立実習商業学校に入学する、(一種三年、二種三年の六年制)今までと違い成績の悪い時は落第するとの事、事実クラスには二、三名落ちてきた者がいた。無我夢中に頑張つた。おかげで二年になり三年にあがる時二種の一年にジャンプ出来た。

 満州事変が起こり、軍事教練が喧しくなる、配属将校は陸軍歩兵少佐で野外演習が盛んにおこなはれた。昭和九年室戸台風にあう。ふるい校舎が今にも倒れそうな暴風で下級生をつれ京都御所に避難する。向島の小学校が倒れ多数の犠牲者がでた。宇治橋も流され渡し船で通学することになつた。
 いよいよ卒業の時がきた、主任の先生は進学か就職かをきいてきた、[昨年父が死んでいたので心配していた。君ならば大阪商科大学の予科ならば無試験の推薦が出来る]と薦めてくれた。

 世の中は所謂昭和恐慌の時代で大学はでたけれど就職が出来にくい時であつた。大連より帰つてた兄に進学の事を頼んだところにべもなくことはられた、このご時勢に、だめだと、誰におしえられたのかしらないが、詳しく話をきかないで帰っていつた。母親も憤慨していたが……。急遽予定を変更して卒業式の日副校長に就職の世話を頼んだ。幸いにして丸善と大沢商会の求人がきているからとのことで、卒業証書もつてたづねる。大沢商会は乙種卒業の人を求めているので駄目、丸善京都支店へ行き入社試験を受ける。英数国語の試験で難なくパスする。東京本社に送り決定するが明日からきてもらつても良いとのことで、以来四十余年の歳月をおくることになつた。

 昭和十年四月丸善株式会社京都支店に正式に入社する。三条麸屋町の旧社屋である。京都大学、第3高等学校の先生達が多く、薄ぐらい洋書の売場に頑張つていた。昭和十一年二月二十二日、東京にて青年将校がク−デター。十二年七月七日、中国大陸蘆溝橋にて日中事変勃発全面戦争になる。

 父は母が亡くなったときに、「仏さんのような人だった」といったのを覚えている。そういう夫婦であった。


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