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青空学園数学科をはじめる

1999年初秋になってウェブ上でホームページ『青空学園数学科』の制作と管理運営をはじめました.

青空学園数学科はウェブ上の仮想の学園です.高校数学や受験問題を学問として学び,力をつけようと呼びかけています.学問としての高校数学の復権が願いです.同時に私は青空学園数学科を,高校生・受験生,大学初学年生,数学教員,数学をもう一度学ぼうとする社会人の誰にも開かれた,草の根数学の協同の場としたいと考えてきました.その一環として,メーリングリストを用いた読書会も続けています.

学問としての高校数学の復権を!

私が受験生に教えるようになって,予備校や塾から教材を手渡されました.実は私は,このときはじめて受験数学に出会ったのです.高校のとき,数学は得意科目でした.いろいろ数学の本を読み,練習問題を一般化したりして考えていましたが,数学を考えること自体がおもしろくて,それが受験数学だと考えたことはありませんでした.

かつて教えていた高校も大学受験とはほとんど無縁だったので,受験のために数学を教えることはありませんでした.予備校から渡された問題と解答を見て思ったのは「自分が高校のときこんな勉強はしなかった.こんなことをしなくても解けるようになるはずだ」ということでした.

高校生や受験生に教える以上,こうやれば力がつくという方法を実際に伝え,また本当に力をつけねばなりません.私が塾・予備校で働くにあたって,数学の準備としてしたことは,自分が高校生のときにやっていたように,入試問題をできるかぎり一般化して解く,ということでした.そのときに作ったノートが青空学園数学科の基礎になっています.「わかってにっこり」という教授法と,一般化を背景に内容を深めることと,この二本足で受験業界での仕事をはじめました.

私は,生活のために塾での仕事をはじめたのです.やりはじめて二,三年して,自分が結構この数学を教える仕事が上手いの出はないかと気づきました.自分にこんな能力があるとは知らなかった.実際に教えて,はじめて数学を教える力が自分にあることに気づいたのです.生徒が分かっているのか分からないのか,当の生徒以上にこちらがつかむことができなければなりません.そして,原理原則のはじめに戻ってそこから考えさせ自分で分かるようにしむけていかなければなりません.これができるのは,教えた高校での試行錯誤のたまものです.そこでいつの間にか身につき血肉となっていた自分自身の教える力に気づきました.このような力を与えてくれた初任の高校,とりわけ私の担任した生徒たちに心から感謝しています.

私がいろいろ考えてきたことを掘りさげ,まとめていく場がほしいと思いました.それがウエブ上で青空学園をはじめたきっかけです.高校生・受験生諸君,そしてここを訪れたすべての人と,現在学んでいること,その底にあることを,自由に深く協同して考える場として,青空学園を考えています.ここで,それこそ何の制限もなく自由に根本的に考えたいのです.

高校時代に,数学同好会をつくりました.部員が二人,教師が二人の同好会でしたが,そこで数学の入門書を読んだり,入試問題の一般化を考えたりしたときが自分にとって至福の時間でした.そんな高校生は今でもいるはずだ,一人で考えている高校生もいるはずだ,そんな彼らとウエブ上に数学同好会を作ろう,これもまた青空学園をはじめた動機でした.

私自身は,ここでは,どんなことを考えるときも日本の高校生のおかれた現実である「教科書」と「入試問題」から始めようと考えています.高校生向けの数学読み物などで「受験のことはしばらく忘れて」と書かれているものがあります.しかしこの態度は,現実からの逃避です.あくまで高校生の現実を忘れず,生徒諸君とともに現実の教科書や入試問題を深く考えてゆきたい.

日本の学校数学は,無限悪循環に陥っている

日本の教育は,「わかってにっこりしたい」という生徒の願いとはまったく逆の方向へ進んでいるとしか考えられません.高校教員時代の経験は,「わかる」ためには,はじめにたち返らなければならず,そこをとばしてうわべを感覚的に教えてもだめだ,ということです.やはり,たち返る理論は明確で,しかもきっちりしていなければならないのです.考えぬいたうえで言いあらわされた理論というものは,かえって分かりやすいのです.

ところが,指導要領を作成している人は,「日本の数学」に対する考えも定まらず,数学を教えるということの経験に乏しく,生徒の数学力が低下していることに対して,本質的な部分を感覚的な説明に置き換え,そうすることでわかりやすい教科書になると思いちがいをしています.しかしそれでは,わからないときにたち返る根拠がいよいよなくなり,教えるにも土台なしに感覚的にしか教えられない,ということになります.そしてますます分数や関数のわからない高校生を増やしています.

四半世紀の日本の文教政策を省みると,共通一次テスト・センター試験が導入され生徒が落ちついて勉強できなくなり,指導要領の改変のたびに学ぶ内容が薄められてきました.考える力と判断力を育て人間性を豊かにするのとは逆の方向に,一貫して施策が進められてきたといわざるをえません.為政者が,その権力を維持,強化しようとして,人びとの批判力・判断力を弱めるためにとる政策のことを「愚民政策」というのだそうです.四半世紀の日本の文教政策が現場でどのように機能したかという事実からの帰納的な結論は,日本の文教政策の基本は愚民政策だということです.最近,小学校の英語義務化などがいわれていますが,これは母語で考える力を失わせるものであり,この結論を傍証するものです.

算数・数学の学習内容はたびたび改変され,一貫していません.その根本には,「数学の意味」についての確かな理解が,日本のなかで打ち立っていないという事実があります.したがってまた,学校教育で数学をどのように位置づけ,どのように教えるのかについても,実際のところ世間の統一した理解があるわけではありません.

私は,小学校の「算数」も中学・高校の数学も大学初年の数学も,そして専門的な現代の数学も,数学として高い統一性がなければならないと考えています.そのうえで,専門化される前の,文明社会で生きるうえで必要であり,人間の土台となる数学のすべて,これを一つの言葉で言い表したいのです.「初等数学」,「基礎数学」「教養数学」等といわれてきたこともありましたがこなれていません.その結果小学校では算数といい,中学からは数学という折衷主義できました.しかし本当は一つの数学です.

西洋では,Element of Mathematics といえば,日本語では「数学原論」と訳しています.実際,ブルバキの『Éléments de mathématique』は『数学原論』と訳しています.一方,クラインの『高い立場から見た初等数学』は『Elementar mathematik vom höheren Standpunkte aus』の訳です.つまり,西洋文化では,element は原理・原論であると同時に初等であるということになるのです.これはどういう文化でしょうか.要素に還元することが,あることの成り立つ原理を解明することであると同時に,要素に還元するならばそれは万人の理解しうることとなる,という基本思想に貫かれた文化です.

私は,要素に還元することが原理的であり,それがまた初等段階からの積みあげていく土台であるという文明は,力強い文化であるし,ここにまた,近代資本主義が西洋にはじまった根拠もあると考えています.しかし,日本では「原理」と「初等」を等しいこととする考え方は,一般的ではありません.西洋文化とは異なる文化にあって「初等」といえば,それは「初歩」の意味しかもちえないのです.

しかし,私が若いころ授業でタイルを使って分数の積や商を考えたときに教訓とした,一歩原則に立ちかえって考えることは,まさに原理に立ちかえることが初等でもあるということそのものです.ですから,原理原則に立ちかえり根拠示すことでかえってわかるようになることはまちがいありません.いずれにせよ,この数学の意義と内容とそれを表す言葉とが,現代日本ではまったく定まっていません.

第二の母語・数学を大切に

人間は一人では生きていくことができません.力をあわせて働かなければこの世界から恵みを受けとることはできないのです.力をあわせて働くところに言葉が生まれた.最初は力をあわせるためのかけ声だったかも知れない.あるいは危険を知らせる叫びだったかも知れない.長い長い時をかけて音を分けて発することを学び言葉を獲得しました.こうして人間は言葉で考える生命体になりました.言葉は発展し,物事を抽象して「これこれのもの」「これこれのこと」としてつかむ働きも,つかんだ内容を表す記号としての働きも,もつようになった.これを言葉の分節作用といいます.

成長とともに身につける言葉が母語です.母語の役割は,人と人の対話をおこなうだけではなく,考えることそのものを支えます.数学は母語と同じ水準で成長とともに身につけ,世界を切りとってつかむ基本的な方法となります.世界を言葉で分節するとき,分節されたものの大きさや個数などの量的な把握がはじまる.「今日は昨日よりたくさん捕れた」のなかにすでに量的把握が現れています.こうしてものを量としての面からつかみ,さらにその変化や量の相互関係の把握へと進むのです.数学は第二の母語なのです.

人間は,言葉によって世界に働きかけることで世界の量的法則を発見し,それを数学という言葉で表しました.言葉は表現の道具であるとともに,考えることそのものです.これと同様に,数学は世界の量的法則を書きあらわす言葉であると同時に,数学それ自体の世界もまた存在しています.

現代文明は数学と一体です.現代文明は数学なくしては不可能であり,誰もが,この世界で生きていくために,それぞれ一定の数学を身につけなければなりません.幼年期にはじまり大学初年級までに学ぶ数学そのものです.そのうえでこの数学を土台とする文明のもとで,人間らしく生きていかなければなりません.そのためにこそ数学は真剣に学ばなければならないのです.

すでに述べたように,近年,日本の一般的な高校生の数学力は日に日に低下しています.数学力には前提として言葉の力が必要ですが,その力が一昔前に比べて大きく損なわれています.言葉の力は,言葉の学習だけで育つものではありません.教科学習のみでなく,日々の生活そのものが言葉の力を育てるものであったはずです.

人間は本当に問題が自分のもになったなら,そのとき自分がもっている力で考えようとします.そしてそれが考える力としての言葉の力を育てます.教科学習において言葉の力が育つためには,考えるべき問題がわざとらしく作られたものではなく,必然性が納得できるものでなければなりません.具体的であり,問題が現実に存在していて立ち現れるようにつかめなければならないのです.

ところが実際に高校生が勉強する数学は,教科書のなかで閉じており,その教科書も,2007年現行のものはいきなり文字式を天下り的に定義するところからはじまっています.これではいったい何のための文字式であるのか,その必然性は理解できません.人間にとって数学はやはり必然であり,必然からはじまって抽象されて世界を広げてきたはずであるのにそれがつかめません.

空虚な抽象性を脱し,かつ単なる経験の羅列にも陥らないためには,どのようにすればよいのか.言葉の力と数学の力をもう一度高校生に取りもどさせることは簡単なことではありません.小手先の教育方法論では歯が立たちません.数学教育に携わる者が,まず人間としての自らの数学の根拠を考えなければならないところにきています.

そのためには,初等数学を現代数学から系統的に基礎づけることが必要です.それを学ぶことで数学教育に携わるもの自身がわかる喜びを知り,逆に現代数学はこの社会での存在意義を獲得します.そんな営みをできるところから積みあげたい.

人間は言葉によって人間です.これと同様に,人間は数学によって人間です.人間の社会は言葉によって組織される.これと同様に,現代文明は数学によって実現している.言葉が使いこなせ,数学もまた使いこなせるようになりたい.これは青空学園の心からの願いです.大いに考え,大いに議論しよう.


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