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それぞれの神道

このように考えるならば、それぞれの言葉は、その言葉の仕組みを通してこの世界の不思議をとらえる。よって、それぞれの言葉にはそれぞれの神とその神の道たる神道がある。日本神道とは日本語の神道のことである。

聖書のヨハネ福音書の冒頭は

はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は、神であった。

である。「言葉」は「logos」の訳とされているが、これは「こと」そのものである。西洋語では、ことが先にありそのもとでものが作られる。このようにこの世界をとらえる。ここから出てくる「もの」は物質と精神とに二分するときの物質である。

日本語はそれとはまったく異なる。このような二分法ではない。ものは実に広く深い。この深く広いものを日本語は「もの」という一つの言葉でとらえる。この意義を吟味し、ここに蓄えられた先人の智慧に注目しよう。

同時に、「はじめにことあり」とする西洋の智慧もまた尊重しよう。それぞれは異なる言葉の構造をもつが、しかしそれぞれの構造を通してこの世界とここで生きる意味をつかんでいるのである。

ヘラクレイトス以降、ロゴス(こと)は、プラトン、アウグスティヌス、啓蒙主義と西洋の哲学者にとって極めて重要な意義を持つことばであった。

西洋においても、ときにものを先とする思想が現れる。かつて、東洋との交流のなかで生まれ南フランスに栄えたカタリ派を軸とする地中海文明もまた、ものを先にする文明であった。また、これは教えられたのであるが、スピノザはまさにものを先とする思想家であった。

西洋語について見たことは、いずれの言葉にもあてはまる。日本語には日本語に結実した智慧としての神道があるように、朝鮮語にも朝鮮語に結実した智慧としての神道があり、琉球諸語にも琉球諸語の神道がある。世界のそれぞれの言葉に、それぞれの神道がある。

それぞれの神道はたがいに認めあって共生しなければならない。そのための智慧と実践が今日の課題である。固有性を深く耕し、固有性をたがいに尊ぶ生きた普遍の場を生み出すことである。言葉のなかに蓄えられてきた智慧は、それが直接の生産を土台にする生きた智慧であるかぎり、十分に掘り起こされたならば必ず通じあえる。人はわかりあえる。


AozoraGakuen
2017-05-21