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日本神道の本当の姿―国家神道の虚偽
この一文は、ロゴス社の要請に応え、雑誌『
フラタニティー
』第八号(二〇一七年十一月)に寄稿したものである。
『
神道論の試み
』の要約となっている。
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はじめに
神道と聞けば、人はそれぞれに何かが思いうかぶだろう。歴史的にも紆余曲折を経てきた。ここではひとまずそれを措いて、私の経験と日本語そのものから改めて神と神道をとりだしたい。結論を言えば、日本神道とは、日本語をとおして古来よりいまに伝わる人と神が語らい生きる道である。
拡大を旨とする資本主義が終焉に向かう段階になって、世界各地に排外主義的極右民族主義がひろがっている。日本においては、それを主導しているのが、かつての国家神道の時代への回帰を掲げる潮流である。その国家神道は、後に示すように、日本神道に背きそれとは真逆のものである。
そして、日本神道は、資本主義の次の時代をきり拓き耕してゆこうとするものの深い智慧でもある。この智慧を、日本語のうちに読みとり神のことを聴きとらねばならない。これはそのための試論である。
社寺叢林に坐る
私は、もう四半世紀以上、西宮にある甑(こしき)岩といわれる巨岩の磐座(いわくら)をご神体とする越木岩神社の地元に住んでいる。初参りもどんど焼きに参るのも、毎年欠かさず続けている。
越木岩神社を取りまく雑木林は、原生林である。冬も葉を落とさない常緑の林である。巨岩を囲む雑木林のなかに社を置き、それをとりまく自然の環境を守り、その力への畏怖をいだき、身近なものの安寧、世の平安を願って手をあわせる。この地で、営々と人は祈り、生活し、命をつないできた。
このように、磐座や川や山などその地にある固有のものをご神体とし、それをかこむ鎮守の森とともに、その地の協働体の中心にすえて、人々は力をあわせて生きてきた。森のなかの空間に人が来て坐り、心を放って自然とそれを超えたものを感じとり、またそのことを聴く。人が人として生きるうえでなくてはならない場であった。
私にとって、そして神社に参る多くの人にとって、神道は、神とその教えを信じるというよりは、神社によって守られてきた風土とそれに根ざした生活を受けとめ、われわれの生の根拠を感じとり、そして祈ることであった。それは一個人のことではなく、このような経験は人々の深い無意識の記憶として蓄えられ、言葉の基層で伝えられてきた。
それをふまえて、日本列島に住むものは神と神道をどのようにとらえてきたのかを、日本語において確認する。そしてそのうえで、このような人の行いの意味を考え、自己の経験に照らして、神と神道を再定義する。そして、いま神道が語ることを聴きとりたい。
日本語の語る神
日本語の語る神を考えるにあたり、文字の使い方を一つ決めておく。「このコト」を「この『こと』という言葉」の意味で用いる。カタカナを、明らかに他言語の固有名の翻訳とわかるとき以外に、「その音が示す言葉」を指示するもとする。ただし、二語以上のことばや、漢字語、そして文章は、かぎ括弧を用いる。
また「言葉」とは「ことのは」であり、ことの現れである。よって「言葉」は具体的な単語や文章を指すだけでなく、「彼の話す言葉は日本語である」のように、その人の語る言葉それ自体の意味でも用いる。
さて、「神」を日本語ではどのようにとらえてきたのか。言いかえれば、この言葉のもとに生きてきた人々は、何を「神」と言いあらわしてきたのか。
言葉としてのカミは、大野晋先生があきらかにされたように、タミル語に由来する。その意味は「大きな力をもつ恐ろしい存在」である。この言葉が多くの関連する言葉をともなって、三千年の昔、水田耕作とともに日本列島に伝わった。
そして、カミなどの言葉が縄文時代からの言葉と混じり合い、混成語として熟成する中で、カミのカはアリカやスミカのカと同じく人の生きる場を意味し、ミはムの名詞化であり、ムはその場をむすぶ、つまりそれを成り立たせることを意味しするようになる。
このような言葉の混成と熟成が、三千年前から二千五百年前の日本列島でおこなわれていった。こうしてカミは、人の生きる場をむすぶもの、つまりそれを成り立たせているものとなる。これがカミの基層の意味である。
本居宣長はカミを、
尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏き物を迦微とはいうなり(『古事記伝』一の巻) と定義している。「すぐれたること」のある「かしこきもの」をカミというのである。
「かしこきもの」のモノとは何か。この宣長の言葉において大切なことは、モノとコトという言葉が日本語の構造のうちにどのような位置をもつのかということである。
世界のすべてはものである。ものほど深く大きいものはない。この世界はものからできている。森羅万象、すべてはものである。これが世界である。ものは存在し、たがいに響きあっている。本居宣長は「すぐれたること」のあるものとして神を定義した。この宣長の定義では、「すぐれたることのあるもの」として、天皇もまた神たり得る。実際、宣長は「天皇は神である」からさらに「神は天皇である」に至った。
ではほんとうに人は神たり得るのか。それを考えるために、「生きる場をむすぶ」の意味をいま少し深めよう。そのためにコトを深める。
コトはモノと対になる言葉である。ものはことを内容として生成変転する。人はものの意味を聞きとりこととしてつかむ。人が、ものを、相互に関連する意味あるもののあつまりとしてつかむとき、そのつかんだ内容がことである。
無秩序であったものが意味をもって一つにまとまること、これがコトの原義である。言いかえれば、言葉にできる根拠がことである。いわれたこと(言)といわれること(事)のさらに根底にあって、それらを成り立たせている、つまり世界を意味あるものにしている働きをいう言葉である。コトはモノと対になって、日本語でもっとも基本になる言葉をなし、その意味は深く大きい。
人にとってこの世界は、動き、生き、響きあい、輝き、生まれ死に、興り滅びしている。それを人はこととしてつかむ。コトは、人が自らの諸活動と自らが生きる場所に生起する内容をつかもうとするとき、のべられる言葉である。
では、「こととしてつかむ」のはいかなる働きであるのか。人はこの世界のなかでいっとき輝き、そして生を終えてものにかえる。そのいっときを「いのちあるとき」という。いのちあるとき、それを生きるという。
いのちの根源をイキと表す。これが「生き」と「息」に分かれた。「生きる」はいきがはたらく状態にいることである。いのちとは、ものともののことと、さらにものがことにしたがってはたらくいきが一つになる場である。いのちをいのちとするこの根元的な働きがいきである。
いのちのイは食べ物のことで、ノの動作形はヌでナ(大地)からものを得ること。つまりイヌは生きるうえでの糧を得ることを意味する。そして、イノチはいきることの根拠としてのはたらきを表す。それがいのちである。いのちはものの一つの存在形式である。ものがいきのはたらきにより「こととしてつかまれる」のである。
このように日本語を読んだうえで、私自身の来し方をふまえて「神」を定義する。
人の生きる場をむすぶものとは、ものがいきを根幹にして「もの、こと、いき」の構造において存在するとき、この存在を成り立たせるはたらきをするもののことである。生きものを生きものたらしめる根源的なはたらきをするもの、これが「神」の定義である。
つまり、人のいのちを成り立たせるのものとしての神であり、その故に人そのものは神ではない。
私たちは、この「いのちの不思議」に出会ったとき、それをなりたたせるものとしての神のはたらきを「すぐれたること」として、実感する。神はかしこきもの、恐ろしいものである。雷(カミナリ)はまさに神の鳴りであり、成りであり、怒れる神であった。人は心に願うことがかなうように神に祈る。心から祈るとき「すぐれたること」のある神は、その願いをかなえる。
いのちあるものとしての人は、世界からものを受けとり生きる。それがはたらくということであり、その場はいのちが響きあい輝くところである。人と人はことをわりあい力をあわせてはたらく。人は心から語らい協働することで人になる。
神道
神道とはこのような、神との語らいとその人の行いである。これが神道の定義である。行いであるがゆえに「道」なのである。生産の不思議を聴きとり、語らい、いのちあるものの安寧と五穀の豊穣を、畏怖をもって祈ること、これが神道である。
人は、言葉を身につけることで、この智慧を受け継ぎ人間としての考える力を獲得し、そして成長する。成長の過程で身につけた言葉は、その人の考える力の土台である。神道とは、言葉に蓄えられてきた智慧を時代の求めに応じてとりだし、明らかにすることそのものである。このように考えるならば、日本神道とは日本語がその言葉の仕組みをとおして伝える神の道である。
神道という概念そのものは、それほど古いものではない。それだけにここで改めて定義することの意味がある。われわれはこうして、神道を見いだすのである。
七世紀になって統一国家ができたころ、国家統一のためにいわゆる記紀神話という物語が形成される。そして、神のよりしろとしての神社もまたさまざまに再編され、古来よりの御神体にあわせて、物語に由来する新たな神がまつられてゆく。神社を支配体系に組み込もうとする力と、その土地の神をまつる神社との間にさまざまの矛盾もおこり、その関係も世の変化にあわせてさまざまに変化する。しかし、その基底にはやはり今に続く日本神道がある。
あのすなおな心
日本列島においては、律令制の時代より、現実の宗教はつねに国家の支配制度の一部であった。そこにおいて神道と佛道は互いに位置づけあい、さまざまの形態をもって、いわゆる神仏習合がおこなわれてきた。
しかし、幕末の討幕運動は神仏分離を掲げる。それもまた理由のあることであった。江戸時代の幕藩体制のもとで、寺は宗門改めや宗門人別帳などによって、民百姓の管理を行い、封建支配体制の末端を担っていた。したがって、討幕運動が、幕藩体制のもとにある寺から神道を切り離すことを掲げたのは、当然のことであった。
また、徳川家康にはじまる江戸幕府は、天皇を擁して自らの権力と政治支配を確立した。幕府は朝廷に小大名なみの御料(領地)と公家領をあたえ、幕府の援助で祭司的行事と、天皇制は残した。しかし幕府は天皇が政治上の実権をもつことは許さず、朝廷を厳しい統制下に置いた。天皇は名目的な作暦、改元、叙位任官の祭司的役割を保持していたにすぎなかった。
このような封建幕府の時代に、歴史の要求にこたえて出てきた新しい思想こそ、一君万民の古代へ立ち返れ、という皇国思想であった。一七〇〇年代に本居宣長が説いたのは、日本国は神の国であり、神は天皇である。故に神たる天皇こそ唯一の統治者であり、その神の前では万民は平等であるということであった。天皇を実権のないものに祭りあげてきた徳川封建制に対する批判であり、反逆であった。一君万民思想は徳川時代の封建身分制度を内部から破砕する。
人が神であるという考え方はわれわれが定義した神道のものではない。人は神の言葉を聴くものであり、あるいはまた神が人に憑いて言葉を伝えるものであるが、人は神ではありえない。本居宣長の言説には、深い矛盾が存在している。同時に、彼をしてこのように言わしめた、封建体制の閉塞を打ち破ろうとする情念もまた、理解しなければならない。
そして、平田篤胤は、天皇のもとにおける人民の平等を「御国の御民」としてのべてゆく。一君万民思想のさらなる展開であった。篤胤自身は幕藩体制それ自体を否定したのではない。ただ、古の人間に託して人間の生き方を提示した。しかし、それは、江戸幕府を支えてきた儒教的、朱子学的世界観を一掃するものであるだけではなく、一君のもとにおける万民の平等という思想は、必然的にそれを抑圧する幕藩体制への批判を内包した。
平田国学は一つの大きな政治的社会的力となった。篤胤は全国に四千人を越える弟子(死後の弟子を含め)をもち、その膨大なつながりは、幕藩体制にかわる世を求める運動の基盤となった。そしてついに幕府は倒れ、明治時代となる。
倒幕に総てを託した志士たちが願ったことを、島崎藤村はその著『夜明け前』で、主人公青山半蔵の青年時代の言葉として次のように言う。
古代の人に見るようなあの直ぐな心は、もう一度この世に求められないものか。どうかして自分らはあの出発点に帰りたい。そこからもう一度この世を見直したい。
また藤村は、晩年の半蔵には「古代の人に見るようなあの素直な心」と言わせている。「あのすなおな心」こそ、島崎藤村がいまに残した貴い言葉である。封建体制を打ち破り、そのもとで押し込められてきた人の心を解き放ちたい、これが倒幕に生涯を捧げた志士たちの心であり、その彼らが願ったことこそ、「あのすなおな心」である。神社を寺から切り離し、「あのすなおな心」を世にとりもどしたい。こう考えたものたちが、倒幕に立ちあがった。
だが、明治維新の現実は国学の徒の夢を裏切っていく。明治維新から百五十年、実に世はまだ夜明け前のままである。
この問題については、雑誌『日本主義』(第三六号、二〇一六年十二月)に寄稿した「いま『夜明け前』を読む」を見られたい。この一文は、ウエブサイトの青空学園日本語科(検索)にも収納されている。
これまでの考察をふまえて、改めてこの「すなおな心」定義しよう。
人は、いのちの不思議に出会ったときに、身をただし心をただして、深く祈る。その神の前でのすなおさ、これが「古代の人に見るようなあのすなおな心」の基本の意味である。人と人はことをわりあい力をあわせてはたらく。人は語らい協働することで人になる。その人と人の素直な語らいの心こそ「あのすなおな心」のもうひとつの意味である。
神の言葉を聴け
日本が国家として統一された天平の頃から平安初期にはじまり、今日まで、神社は国家の支配を受けてきた。延喜式神名帳は、当時官社に指定されていた全国の神社一覧であるが、このような官社と、官社でない地域の神社が、江戸時代までは併存してきた。
明治維新は、青山半蔵と国学の徒の夢を裏切って成立した。明治維新は、幕府体制の末端をになっていた寺を明治元年の神仏分離令で廃仏毀釈のもとに国家から切り離した。また、明治五年には修験禁止令が出され、神仏習合の修験道も禁止された。
そして今度は神社が国家に組みこまれ、国家神道となる。大きな神社には国家神道のもとに入る必然性があった。国家神道は、日本神道本来の「場をむすぶ神」を「国家をむすぶ天皇」に置きかえることで成立した。むすぶものは神であらねばならず、「神としての天皇」という虚構を立てた。これはまさに虚構であり、日本神道本来の教えに根底から背くものである。
明治政府は神社の国家統制を強め、神社合祀令により地域の神社を国家の下に整理しようとした。南方熊楠らの民俗学者がこれに反対し、それぞれの地方でも反対の運動がなされた。その結果、大正九年、貴族院は合祀令の廃止を議決する。それまでの十数年間、全国二〇万社の中の七万社が破壊され、多くの鎮守の森が失われた。ここで失われたものはほんとうに大きく、取りかえしはつかない。
こうして全国の神社が国家神道のもとにおかれることになった。国家神道は、国家を第一にして人を第二とし、実際には、国家の戦争に人々を動員するための役割をはたした。そしてついにあの十五年戦争に至る。南太平洋から東南アジア、東北アジア、中国大陸と朝鮮半島、いわば日本列島に住むものの祖先の地のすべてに兵を進め、そして敗北した。
戦後体制は、天皇を「象徴」と位置づけてきた。これは「国家をむすぶ天皇」をさらに「国民をむすぶ天皇」に置きかえたものに他ならない。天皇は、神の言葉を聴き、その言葉にしたがって、人々をむすぶためにはたらく、ということである。しかし、神道においては、天皇もまた日本語と日本神道の下にあり、神の前ですべての人は同じである。よって、ある血脈のものがそのゆえに「国民をむすぶ」はたらきをするという考えは神道のものではない。「むすぶ」ことと「人間天皇がそれをする」ことの間にも深い矛盾が存在している。
戦後政治は国家神道を根底から見直すことがないままにはじまった。それに対応して、戦争責任もまた内部から問われることなく、明治維新ののちに成立した官僚制などの基礎組織はそのまま残った。そして、あれだけ「鬼畜米英を撃て」と国民を動員しておきながら、戦後は一転、対米隷属の政治となる。アメリカの核戦略の一環として地震列島に原発をいくつも作り、ついに福島の核惨事に到ったのである。
日本列島弧にくらすものは、福島原発核惨事に、日本神道の原点に立ちかえれという神の言葉を聴かねばならない。そして今の世の有り様を顧みよ。このとき、今日の問題に即して日本神道の教えることは、次のようなことである。
第一に、人は、たがいに人としての尊厳を認めあい、敬い、いたわりあえ。人のさまざまな力は、けっして私のものではない。世に還してゆかねばならない。人を育て、人に支えられる世を生みださねばならない。今日の日本は、人を金儲けの資源としている。これは神道に背く。
第二に、言葉を慈しめ。人は言葉によって力をあわせて生きてきた。言葉は仕組みをもつ。新たな言葉は、その仕組に根ざして定義されねば意味が定まらない。近代日本の言葉の多くはこの根をもたない。これでは若者の考える力が育たず、学問の根は浅く、人を動かす力も弱い。もういちど近代日本語を見直せ。
第三に、ものはみな共生しなければならない。いのちあるものは、互いを敬い大切にしなければならない。里山と社寺叢林とそしてそこに生きるものたちを大切にせよ。無言で立つ木々のことを聴け。金儲けを第一に動かすかぎり原発はかならずいのちを侵す。すべからく運転を停止し、後の処理に知恵を絞れ。
第四に、ものをみな循環させよ。使い捨て拡大しなければ存続し得ない現代の資本主義は終焉する。人にとって経済は、人として生きるための方法であって、目的ではない。人が人として互いに敬い協働する。人といのちの共生のためにこそ、経済はある。経済が第一のいまの世を、人が第一の世に転換せよ。
第五に、たがいの神道を尊重し、認めあって共生せよ。神のことを聴き、そして話しあえば途はひらける。国家は方法であって目的ではない。戦争をしてはならない。戦争はいのちと日々の暮らしを破壊する。まして戦争で儲けてはならない。専守防衛、戦争放棄、これをかたく守れ。
以上である。これに対して、国家神道に回帰しようとする神社本庁と日本会議、それに操られるものたちは、この日本神道の教えと真逆の政治をおこない、排外主義と軍事主義をあおり、それが二〇一七年の日本政治を主導している。
かつて人々は、日本神道のもとに、循環する共生の世を生きてきた。これを現代において見直し取りもどそう。こうして、閉塞した現代日本の旧体制をうち破ろう。そして、国家を超えてたがいの固有性を尊重しあう普遍の場が、この未曾有の困難のなかから生まれる。
今の日本の為政者や東電幹部には、福島原発核惨事で、周りの環境や多くの生き物、そして人々を損ね大きな傷手を負わせてしまったという、畏れの気持ちがまったくない。神を恐れることを知らない政治である。福島原発核惨事に神の言葉を聴きとり、それをふまえてこの地点から、大きなものへの畏怖を失わない政治へと、転換してゆかねばならない。
日本神道の教えをすなおな心で聴きとり、ものみな共生し循環する新しい世をひらけ。
AozoraGakuen
2017-05-21