序章において書いたように、新型コロナウイルスという疫病の世界的な蔓延は、新自由主義段階の資本の放埒な世界支配と改造の結果である。それは間違いない。しかしさらに考えるべきことは、このような資本主義が実際になされてきたのであり、それを許してきたという、この半世紀の歴史である。
そして、疫病の蔓延という現実の下で、資本の側はこれを機に、老齢人口を削減し、小さな企業を潰して大きな資本の下に再編しようとしており、コロナによる経済危機から回復するために遺伝子組み換え作物を増産し、商業的農業はいっそう拡げられている。資本は、疫病の蔓延さえも世界の再編に使う。
これに対して、経済拡大によらない地球生活の維持と再生産の仕組みは可能なのか。核惨事の起こる前年に浜矩子は『死に至る地球経済』において「悲惨な結末を回避したければ、思い切って耐え難きを耐え、不可能を可能にする」と述べた。これはそのまま原発を維持するのか、廃棄してゆくのかの問題にあてはまる。産業廃棄物としての使用済み燃料の処理方法さえないのにもかかわらず、歴代自民党政権は五十六基の原発をこの地震列島弧に作ってきた。
これを許してきた結果、疫病の蔓延もまた資本拡大に利用される。資本の側はこの疫病の蔓延を機に、一層の、新たな形式による世界支配をうち立てようとしている。
資本主義とは絶えず拡大しなければ持続し得ないものであるなら、地球という有限の船の上で、それは永遠ではありえない。浜矩子の言うように、リーマン・ショックの本質をこの五百年来の近代世界の行き詰まりそのものである。そしてそれをのり越える叡智が求められていることを説く。それは説得力がある。二〇二〇年の疫病もまた、その叡智を生みだすことを求めている。
だがしかし、いずれも開かれたままの問題であることはかわらない。資本の側は、軍事のような限界のある方法ではなく、情報技術を用いた新たな経済拡大と支配体制の変革を狙っている。
それに対して、われわれの側も、あらたな途を見出さなければならないところに来ている。使用済み燃料の処理方法未解決という問題ひとつとっても、これをおおやけにし、その上でこれをどうするか、智慧を集めて方法を見つけねばならない。しかし未だにここに大きな問題があること自体が隠されている。
人はどのようにこの転換を現実にしてゆくのか、これが普遍の問題である。その方法を見いだし、それを担う人を育てる。これが現下の歴史の課題である。『神道新論』において「さち」について述べた。その前半部分を引用する。 zw人はいのちとして働き、ものと語らい、ものから生きる糧(かて)としての「さち」を受けとる。「海の幸」「山の幸」のサチであり、世界が人に贈るもののことである。「さち(矢、幸)」は「サツ(矢)」の転。矢という道具のもつ獲物を捕る威力、霊力。幸の意味である。
日本語はタミル語に由来する言葉が多いのであるが、サチはそれより古く、おそらく縄文時代からあった言葉ではないか。この言葉を生かすことで、現代の生産というものを少しことなる観点から見ることができる。
人はものと係わり、もののことをわり、世界から生きる糧を得る。それが人のいのちのはたらきである。糧を得るそのちからがさちである。人々は心を一つにして一心不乱に働き、さちの力をその身に得る。田畑、山野、海原、工場、商店、学校等のあらゆる場において、耕す。そのとき世界は人々に豊かなものを贈り届ける。さちは何よりちからであり、働きである。
さちは、そのちからによって得られた糧そのものでもある。海の幸、山の幸、自然のめぐみ、このような直接贈られたものもさちなら、すべての作られたものもまたさちである。人がことをわり、そして贈られたすべてのものがさちである。命そのものとしてのたま(魂)が、見えないところにこもり、新しいものが現れるように、蚕が蛹から孵るように、稲穂が実るように、それまではなかったものが現れる。耕すことによっていのちがこもり、はじめて、さちはなる。
さちを受けとる働きが、人が世界に生きてあることの姿であり、世界の輝き、世界の響きあいそのものである。人はこのさちを、協同して働くことによって受けとる。さちを得て生きることが、人がこの世界で生きることそのものであり、その実現は人の人たるゆえんの実現である。さちを受けとるとき、人は幸いである。それが人のいのちの輝きである。「幸い」とは、ものが成るはたらきが頂点に達し、内から外に形を開き、いのちのはたらきが盛んな様そのものである。
人と世界が存在する意味は何か。この問いは大きい。しかし少なくとも、その意味が資本に根拠をもつことはあり得ない。その根拠は,さちを受けとる喜びこそが、意味の有無を超えた輝きであるというところにある。