序章の「歴史の現在」に現代日本の相対的な位置を示す指標あげた。しかし、ここにある指標はすべてこれまでの資本主義のもとにおける指標である。これらの指標が、そこに生きる人の生きがいや充実の度合いを示しているわけではない。
これらの指標において没落し果てたそのところから、新自由主義の政治と経済を変革し、生産者と消費者が直接につながり共生し、人として互いに敬い尊厳を認めあう世を生みだしてゆかねばならない。それはつまるところ、人であることにおいて等しく尊厳しあい認めあうことであるが、この価値を制度化する世を作らねばならない。
歴史が求める可能性は必ず現実に転化することができる。しかし、その途はまだ明かでない。可能性を現実性に転化するための実践的方途は、開かれた問題のままである。現在を転換するこの途を見いだしていくには、膨大な努力の蓄積と、現実のちからが不可欠である。
すでに述べたように、人にとって経済は手段であって目的ではない。この五百年、近代資本主義において経済は目的であった。金儲けは至上の目的であった。しかし、昔からそうであったのではない。人はながく、協働して自然からの恵みを得て、助けあって生きてきた。経済はそのための手段であった。一万年を超える新石器時代以降の人歴史のなかで、経済が目的であったのはこの五百年にすぎない。
もとより奴隷制社会や封建社会が成立すると、実際に働くものは経済以前のところで収奪されてきた。だから、フランス革命や明治維新とそれにつづく近代資本主義そのものは必然であった。しかし今日それはもはやのりこえねばならないところにまできている。経済は手段にすぎないという人の原点に立ちかえることを歴史は求めている。
かつて社会主義は資本主義経済に代わる計画経済をやろうとして失敗した。そこにはやはり経済を第一の目的とする資本主義の思想から抜けだせないという面があった。物の生産を第一とする唯物論、単純唯物論による経済第一の社会主義は失敗した。こうしてまたその時代にはじまる政治組織、いわゆる左派政党も歴史的役割を終えた。情報技術的には輪転機と鉄道時代にはじまる「共産党」や「労働党」などを名のる政党が現代の人々の願いの受け皿となり得ず、党派の利害を優先することで人々に見放されつつあるのも、必然である。
今日の根本問題は、資本主義にかわる別の生産関係を生みだすということ自体ではない。生産関係はそのままにしても、経済は手段であり方法であるという立場から、これをのり越えるのである。言いかえれば、資本主義的生産関係を使いこなす人とその組織、世のあり方、これを創造してゆくこと自体が、資本主義の終焉である。