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経済は方法

本来、人にとって、経済は手段であり方法であった。それが目的となったのはこの八百年のことであって、この八百年は人の世のあり方として過渡的なものである。これがゆきづまっている。歴史は転換を求めている。転換の方向を一言でいえば、経済が第一の世から人が第一の世への転換である。

西洋の「学」は、ギリシア時代に労働を奴隷に任せた貴族の「知」として成立した。生きる現実からのからの遊離は、キリストの神の前の真理として「真理」それ自身を自己目的化することによって正当化された。この「労働」と「知」の分裂は形を変えて生き続けている。資本主義は偽りの普遍性をおしつけ、そのもとに市場を拡大してきた。しかし今日、資本主義はもはや拡大する余地がなく、拡大を旨とする資本主義は、終焉する段階に至っている。

であるから、今日の根本問題は資本主義にかわる別の生産関係を生みだすということ自体ではない。生産関係の問題ではない。経済は手段であり方法であるという立場から、これをのり越えるのである。言いかえれば、資本主義的生産関係を使いこなす人とその組織、そのもとの世を生み出すこと、これが問題である。

そして、これを創造してゆくこと自体が、資本主語の終焉である。経済は目的ではない。大切なことは、これを使いこなしうる、人を第一とする政治を生みだすことである。人としての尊厳ある生活、これこそ共通の目的である。

そのとき、資本主義がおしつける偽りの普遍性に対抗して、固有性を保守しようとすることが前提である。固有性を掘り下げ、自覚してつかむ。これなしに、固有性の保守はありえない。このゆえにまた、マコトの保守には、現状を打破する力がある。

その固有性を言葉においてつかむこと、これが基本の立場である。人とは、言葉をもって力をあわせて働きさちを受け取るいのちである。このゆえに、固有性は何より言葉の段階で自覚して取り出さねばならない。その上で、固有性が共生するところとしての普遍の場を生み出す。この営みへの目的意識性が必要である。

さちを受けとる働きの場こそが、固有の言葉の生まれるところであり、ことわりの世界そのものであり、働くものが固有性に立脚して、たがいに分かりあえる土台であると考える。非西洋の固有性を深く耕して徹底し、固有性を突き抜けた生きた新しい段階の普遍性をめざす。言葉のなかに蓄えられてきた智慧は、それが直接の生産を土台にする生きた人の智慧であるかぎり、十分に掘り起こされたならば必ず通じあえる。人はわかりあえる。

マルクスによって獲得された、世界に対する目的意識性と能動性を、西洋自体にも向ける。西欧文明がおしつけた疑似の普遍性ではなく、固有性が解放された人の生き生きとした普遍性は可能である。固有性が互いを認めあって共存し、ともに問いかける普遍の場は可能である。



Aozora 2020-07-14