二〇二〇年の前半、福島原発の核惨事と疫病の蔓延が日本列島を覆っている。核惨事がいつまで続くのかはまったく見通せないし、疫病の蔓延は繰り返される。そしていずれ南海トラフなど日本列島をとりまく地層が動き大きな地震が加わることが避けられない。これが現実である。
ときの日本政府は、核惨事を覆い隠し、一方で疫病に対してはなんら適切な対応をしない。単に愚かで無能であるのではなく、人民の犠牲のうえに資本の利益を優先する明確な意図をもっていた。この政治が当時アベ政治といわれたものであるが、疫病の蔓延がそれを暴露した。もとより、日本の報道はこの事実を報じない。それでも疫病の蔓延からこのことを知る人が多くなった。
このアベ政治は安倍個人の資質の問題なのではなく、資本主義の終焉期という普遍的な場において、根なし草の近代日本百五十年の成れの果てとして現れたものである。
このままでは、たとえ安倍個人が除けられ別のもに変わっても同じことが繰り返される。アベ政治から日本近代を省みるとともに、その教訓の上にこれからの方向を考え、動かねばならない。ここで、変革とは世直しのことである。根のある変革とは、この世直しが、上辺のものではなく底からのものであることを意味する。
明治維新にはじまる日本近代は、西洋帝国主義の外圧のもとになされたものであり、内因によるものではなかった。帝国主義の段階となっていた西洋に対して、植民地となることなく近代に入ろうとしたものであり、そこに能動的な意志が働いていたとはいえ、それ以前の世を継承した近代ではなく、そのゆえにそれは根なし草であった。
近代日本において、いわゆる西洋思想は数多く紹介され、それに依拠して多くの論がなされてきた。それは今も変わらない。西洋帝国主義の圧力という外因によって近代化した日本がかかえる根本的な問題は、外因となった西洋の内の思想によって解決できるものではない。
近代日本の世の変革の運動の多くは、この根なし草近代の枠組の中でなされてきた。それを近代主義的左派と言うことにすると、この近代主義的な左派による世の変革運動は、人民を深く動かすことができない力のないものであった。
私自身が、かつての活動に破れたとき、そのことを考えた。『神道新論』では「序章」次のようにはじめている。
かつて、私は高校教員として地域の教育運動に取り組み、その一環として教員組合運動を担った。地域の底辺校であったその公立高校は、いわゆる行革の流れのなかで、その後廃校になった。教員を辞してからは政治組織の専従もしたが、それにもまた破れた。およそ四半世紀前のことである。 このような闘いは、いずれにせよ敗北の連続で、破れたこと自体は一般的なことであるが、そのとき私は、組合や党派の機関紙などに書いてきた自分の言葉が、人の心にまでは届いていなかったのではないかということを、深く考えざるを得なかった。
そして、これらの近代日本の抱える問題は、非西洋にあって近代化した多くのところに共通する課題である。
しかし、非西洋にあって近代化したいくつかのところでは、反帝国主義、半植民地主義の人民闘争を経て、その上に次の時代を模索している。西洋もまた、深く自らを省みるとき、非西洋の思想に出会うことはできる。日本における思想もまた自らを掘り下げるとき、はじめてアジアの諸思想に出会うことができる。
ところが日本においては、外発的に近代化し、しかもこのような人民闘争と内からの掘り下げの乏しいままに資本主義の終焉期に至った。そのために、人は人としてうち立たず、多くの人々は問題を掘り下げることなく現実をそのまま受け入れる。これが天皇制の中味である。あの敗戦に至る侵略と植民地支配に対する歴史的責任の追究はないままに、したがってまた天皇制もそのままに、戦後政治に移行した。『神道新論』で次のように書いた。 zw戦後政治は国家神道を根底から見直すことがないままにはじまった。それに対応して、戦争責任もまた内部から問われることなく、明治維新ののちに成立した官僚制などの基礎組織はそのまま残り、今日に続いている。
この象徴天皇制によって、まず戦後革命を抑え込み、そして、あれだけ「鬼畜米英を撃て」と国民を動員して数百万に及ぶ犠牲を出しながら、その後は一転、対米隷属の政治となる。国家の基本法である憲法に対し、その上に安保条約がある体制が戦後一貫して続いてきた。立憲主義が実際におこなわれたことはいちどもない。
ここにいまの悲惨国家日本のその悲惨さの根源がある。
それでも、日本列島に生きるものの問題は、自らの内から省みる他に途はない。つまり、ことここに至った段階においては、内発的にこの問題に対さねば途はない。
それを確認し、どのような道筋で越えてゆくのかを考えることが、本稿の課題である。