しかし、これらの指標はつまるところ資本主義の価値そのものである。この指標において徹底して没落したところから、資本主義の指標に変わる別の指標によって新たな世を生みだしてゆかねばならない。
日本の世は、いずれ行きつくところまで没落することは避けられない。既存の価値観、つまりは資本主義の価値観において徹底して没落する。そのところにおいて、異なる価値観のもとにしか再生はありえない。資本主義の終焉から次の段階を拓くという課題の、日本におけるあり方そのものである。
後に述べるが、資本主義は人を資源と見なしてきた。これを、人が人であることそのことにおいて認められ、人として互いに敬い尊厳を認めあう、そのような世に変えてゆかねばならない。それは、生きるものの命とその環境を守ることを第一とする世のあり方に転換してゆかねばならないということでもある。生産者と消費者が直接につながり共生すし、すべての分野において誰一人取り残さない世にしてゆかねばならない。そうしなければ、これからも疫病の蔓延そのものを抑えることはできない。
近代日本の没落は、資本主義の基準とは異なる基準でこの世を作り直さなければならないという歴史の求めなのである。経済を第一とすることから、人を第一とすることへの転換ということができるが、その内実を生み出すことは未来にひらかれている。そんな世は、思想的にも実践的にも、闘いなくしては生まれない。それでも、歴史が求めることは実現可能なことなのである。
日本のいまの世のあり方は、人と人の間についていえば、根拠を問わず、まことの語りあいを欠いた人と人の関係の上にある。これはまた、人が人としてうち立っていないことと一体である。このような関係のありかたは近代教育の結果でもあり、明治期に急造された近代造語による日本語によって、日常のこととして世にゆきわたっている。
したがってまた、これを越えてゆくためには、まず、この根なし草近代が日々の生活と政治を含む世のあり方に現れていることを自覚しなければならない。そしてそういうもの同士がたがいに語りあい、そのなかで言葉を改めて確認しあうこと、それがことをわると言うことであり、つまりは再定義の営みであるが、それが不可欠である。
方法の基礎にあるのはことをわる営みである。
ことわりという言葉の意味するところを、再定義と思索の基礎におく。理(ことわり)については、『神道新論』でその定義を述べた。 zwこと(言)をわる(割る)ことにより明らかとなること。ことをわって人が知ったそのもののこと。ことをわって開かれたより深いこと。これがことわりである。
ことは、生々流転する世界を一つのまとまりで切り取りつかむ作用によって得られる内容そのものであり、したがってことわりは、つかんだものの道理、ものに内在する道理を意味する。ものは人の意のままにはならない存在であるがゆえに、ことわりは人の力では支配し動かすことのできない条理、すじ道、も意味する。
ことわりは、ことを割ることによって、人にひらかれるものとしてある。ことを割り、人にひらくためには、深い人の営みがあらねばならない。それ自体が、人の営みなのである。
『神道新論』においては、『夜明け前』を読むところからはじめて、「もの」、「こと」、「ことわり」等の日本語の基層まで至り、その基層において、「かみ」、「あのすなおな心」をとらえた。
近代日本を根底から見直し、世のあり方を根本から変えてゆくこと、それが歴史の要求である。そして、歴史の要求は、実現可能性が存在するという条件の下で現れるのであり、したがってそれは、実現可能である。
そのための必要不可欠な準備として、『神道新論』の上に、ことをわり、言葉を再定義する営みを、今の世の考察の中でおこなう。それは、今の世のあり様を考え見直そうという人と人の対話である。その積みあげは、時代の扉を開くための基礎作業である。
近代日本の基本問題を、資本主義の終焉期という普遍的な枠組の中でとらえる。そうすると、実はそれぞれの地での具体的で現実的な問題の一つであり、そのゆえに、それはまた普遍的な課題であることが分かる。
こうしてわれわれは、新しい普遍性とその場における固有性の共生の実現という課題に出会う。この課題は、資本主義の終焉期に、それを越えてゆく実践を、固有性をふまえて現実化せよという歴史の課題である。
そして、扉を開け歩むための実践に一歩踏み出す。これはそのための試論である。