二〇一一年三月の東京電力福島原子力発電所核惨事は近代日本の結末として起こった惨事であり、今後ますます惨事であることが明確となることであった。この核惨事は、日本語のことわりと断絶した近代漢字造語に支えられた日本国の官僚制を中心とする無責任体制が生みだしたものである。これをのりこえるためには、近代日本語をこの核惨事という経験を通して再点検し再構成することが不可欠である。
まさに、われわれは今、福島原発の核炉崩壊以降を生きている。核炉崩壊の意味とは何か。それ以降の世をいかに生きるのか。それが問われる世を生きている。
原子力緊急事態宣言は今も続き、これを根拠に被曝許容範囲の制限も福島ではないに等しい。そのことを覆いかくし、終わったことにする力が今の日本を支配している。地震列島に五十六基もの原発を作ったのは、そこに利権と利潤の拡大を求める日本の資本主義である。
そしてこの資本主義は原発事故とそれを受けて発令された原子力緊急事態宣言を覆いかくし、今が核炉崩壊「以降」にあることを否定する。しかし、いかに覆い隠そうとしても、核惨事の中にあるという事実は、厳然と現実化する。
戦後日本政府は、「核兵器」のように兵器には「核」を用い、発電などには「原子力」を用いできた。そこには、広島・長崎に落とされた爆弾と発電を別のものとする意図がある。しかし、あの爆弾と発電は同じ原理である。本稿では、基本的に「原子力発電」ではなく「核力発電」または「核発電」を、「原子炉」にかえて「核炉」を用いる。一方、原発を脱しようとする運動のなかで用いられている「脱原発」「原発廃炉」などの「原発」は、それを引用するとき、本稿でも用いる。
東京電力福島第一発電所の引きおこした核惨事は、かつての十五年戦争の敗戦につぐ近代日本の第二の敗北であった。近代日本に内在する基本的な問題が、二つの敗戦に通底している。
九年前、福島原発の核炉が東日本大震災で崩壊したとき、これを教訓として、近代の世のあり方を問い返さねばならなかった。しかしそれはなされず、それどころか、これをいわゆるショックドクトリンとして利用し、惨事に便乗して新自由主義の政治がおおっぴらになされてきた。それがアベ政治である。
二〇二〇年にいたるこの数年の世のあり様をひと言でいえば、近代国家の枠組とそれを支える柱の崩壊である。東電核惨事ではあれだけ核汚染をまき散らしながら企業責任は問われず、安保法、共謀罪法、入管法改変などが強行採決によって成立した。そして首相が収賄と便宜提供の当事者であることが白日の下に曝されても、その罪が問われることはない。
かつて造船疑獄があった。戦後日本の計画造船における利子軽減のための「外航船建造利子補給法」制定をめぐる贈収賄事件である。一九五四年一月に強制捜査が開始された。吉田茂は法務大臣に対し指揮権発動を命じ、検察の捜査を止めさせようとした。これが大きく報道される。結局、政界・財界・官僚の被疑者多数が逮捕され、吉田茂内閣が倒れる発端となった。ここにはそれでも近代国家の基本原理である法治主義が働いていた。
それに比して、安倍首相の収賄は首相そのものの犯罪であり、はるかに悪質で規模も大きい。また、公文書を偽造し、国家の基本的な統計も改ざん操作してきた安倍政府とその官僚の悪事は、造船疑獄の比ではない。しかし捜査すらなされない。
実質賃金は下がり続けているのに、賃金上昇と景気拡大が続いているかのように偽装してきた。大手の新聞やテレビは政府の言うままに報道する。それはもはや報道機関ではなく洗脳機関である。
だが、この事実のうえに、さらに考えねばならないことがある。
安保法制反対の運動のとき「戦後七〇年を迎えた今、立憲主義はかつてない危機に瀕している」ということが言われた。立憲主義とは何か。それは、その国の最高法規としての憲法を国民が定め、国家がこれを遵守し、そのもとで政治をおこなうということである。では、戦後日本の最高法規は憲法であったか。
占領が終わってから今日まで、日本国憲法の上には日米安保条約があり、日本政府の上には高級官僚と在日米軍からなる日米合同委員会がある。
鳩山民主党内閣はこの合同員会によって潰された。安倍内閣はこの合同員会の指示によって、法を超えて権力をにぎり独裁政治をすすめ、戦争法などの諸法を作った。その仕上げが改憲である。すべては米軍と軍需産業資本のためになされている。
さらに、沖縄は講和条約において「アメリカは沖縄で全権を行使する」と規定され、「無憲法・無国籍」のまま今日に至っている。
それらの背後にあるのは、在日米軍を権益の一つとする国際的な軍需産業とその国際資本である。日本の官僚はこの在日米軍を後ろ盾にしている。沖縄・辺野古に巨大な基地を作るのは、アメリカの必要からではない。後ろ盾である米軍を日本に引き留めるためである。原発を再稼働するのは電力のためではない。アメリカとそれに従属する日本の核戦略のためである。
立憲主義は日本において、事実としてなかった。したがって、「近代国家の枠組」の崩壊と言ったが、正しくは「立て前としての近代国家の枠組」であり、それさえ崩壊したのが昨今の現実である。
こうして今日の日本は、国際資本の収奪に国家と国民を完全にゆだね、すべてをそこに捧げる政治体制となっている。ここまで酷いことは、歴史上はじめてである。一度は堕ちるところまで堕ちないと何も変わらないのかも知れない。
しかしそれでは犠牲が大きすぎる。現実に、疫病の蔓延とそれによる経済の破綻のしわ寄せを人民に押しつけ、これを機に独占資本の支配を強化しようとする政治の下で、大きな犠牲が広がっている。