next up previous
次: 問題の普遍性 上: 核炉崩壊以降 前: 人は資源か

神道の教え

私は、人のあるべき様を、前著『神道新論』において、日本語に伝えられてきた智慧を神道の教えとして取り出した。

zw第一に、人はたがいに、いのちのやどる人として、尊敬しあい、敬いあい、いたわりあえ。人のさまざまな力は、けっしてその人の私のものではない。世にかえしてゆかねばならない。人を育て、人に支えられる世であらねばならない。今日の日本では、人は金儲けの資源でしかない。このような世のあり方は神道に背く。

第二に、言葉を慈しめ。人は言葉によって力をあわせて働き生きてきた。言葉は構造をもつ。新たな言葉は、その構造に根ざして定義されねば意味が定まらない。近代日本の言葉の多くはこの根をもたない。これでは若者の考える力が育たず、学問の底は浅く、言葉が人を動かす力も弱い。もういちど近代日本語を見直せ。

第三に、ものみな共生しなければならない。いのちあるものは、互いを敬い大切にしなければならない。生きとし生けるものを大切にせよ。無言で立つ木々のことを聴け。金儲けを第一に現代の技術で動かすかぎり、核発電所はかならずいのちを侵す。すべからく運転を停止し、後の処理に知恵を絞れ。

第四に、ものみな循環させよ。使い捨て拡大しなければ存続しえない現代の資本主義は終焉する。人にとって、経済はさちを得て人として生きるための方法であって、目的ではない。人が人としてたがいに敬い協働し、いのちが共生する世のためにこそ、経済はある。経済が第一のいまの世を、人が第一の世に転換せよ。

第五に、たがいの神道を尊重し、認めあい共生せよ。神のことを聴き、そして話しあえば途はひらける。国家は方法であって目的ではない。戦争をしてはならない。戦争はいのちと日々の暮らしを破壊する。まして戦争で儲けてはならない。専守防衛、戦争放棄、これをかたく守れ。

これが日本神道の教えることである。そしてこれは、固有性を徹底して掘り下げることによって得られた普遍であり、日本を越えて世界によびかけることでもある。この五項目の教えを、人の理、ひとのことわり、と言おう。前著で指摘したように、近代日本の国家神道は、この神道の教えとは真逆のものであり、それが二つの敗北の根源にある。

このことは、二度の敗北を経ても省みられることなく、総括もされず、日本の世は何ら変わらなかった。この日本語に伝えられてきた理は、今の世の理とはなっていないのである。人の理をひらき、世の礎とせよ。そして、根のある言葉で根拠を問え。これが歴史の求めることである。

ここにまた、まことの科学がはじまる。根拠を問うとは、すべてを疑い根本において、根のある捉えることである。さらにその根拠をも問い直す。この永続運動が科学である。日本近代の教育において,このようなまことの科学は伝えられたであろうか。

人は、言葉によって協同して働くことにおいて人である。人であることの条件とは、言葉とそれにもとづく協同の労働である。言葉は、まずはそのときの手持ちの言葉で考えなければならない。それが思いの丈を表せていないと感じるとき、そこに新しい言葉をうみだそうとする促しがおこる。このことを心にとめながら、核惨事の中にある今を考え、新しい時代の新しい人の言葉を、古くからの豊かな言葉をもとに生みだす。

経済から人への転換の場において、言葉を拓き耕し、ものとこと、自然と人、物と力を分け離すことなくつかみ、そして語れ。言葉において深く根づく人々こそ、言葉をこえてただ人として、結ばれる。そこに新しい力が生まれる。それだけが新しい時代の深い普遍の礎である。

普遍的な課題とは、資本主義の終焉を見すえ、資本主義以降を構想することであり、その構想の下に次の時代を創ってゆくことの一環として当面する課題を闘い、この構想を深めてゆくことである。

前著『神道新論』で述べたように、この課題の実践は、一般化された議論とそのもとでの実践だけでは不可能であり、それぞれの固有性に根ざした思想と、そしてその運動を経なければ不可欠である。日本語に蓄えられてきた智慧としての日本神道は、それとは真逆の国家神道の下にあった近代日本を逆に照し出し、次の時代の構想と、そこに向けて今をいかに生きるかについて、深い示唆を与える。

前著は日本語に蓄えられてきたこの智慧を取り出すための基礎作業であった。本書はそれをふまえ、時代の課題、歴史の求めに応え、資本主義以降の歴史の扉を開くことについて,掘り下げて考えようとするものである。

日本はいま大きな分岐に直面している。この分岐は、もはや何を選択するかという選択の内容や方向をめぐる分岐ではない。人民の内部について言えば,能動的に選択するのか、それとも無自覚に流されてゆくのかの分岐である。

能動的に選択しようとする側にも、当然にさまざまの立場と意見の違いがある。しかしその内部では、思想信条の自由にもとづき、互いを認めあって議論を行い、そのうえで当面する政治課題においては行動を統一する。このことが、目的意識をもって追究される。アベ政治を終わらせるという課題で一致するものは、副次的な違いをひとまず横に置いて、行動で統一しなければならない。

その意味で、この分岐は、選択しようとする民主主義か、流されゆく全体主義かの分岐である。政治的には、この全体主義をのりこえ民主主義を実現するのか、これをそのまま続けさせるのか、この分岐である。



Aozora 2020-07-14