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人は資源か

日本では「人的資源」という言葉が用いられてきた。中央教育審議会は一九七〇年代「人的資源の開発」を言いはじめ、教育を生産活動の一部とする考え方が表面化する。「人的資源」とは生産活動に必要な労働力ということである。人を人として育てる教育から、人を資源として使えるようにする教育への転換がはかられ、今やそれが一般的になっている。

もとより近代の学校制度は、産業技術を習得した人の育成を目的にしている。その時代の文明とそれを支える技術を習得することは必要である。人が何らかの生産につながることは、人の存在条件そのものである。だから仕事を求める人すべてに仕事を保障する。それは人の尊厳を尊重するということだ。

だが、「人的資源」という考え方がいきわたることで、この関係は逆転され、正面から人は「資源」であるという主張が行われてきた。これはまさに資本主義の見方そのものであり、その結果として、格差と、そして貧困が拡大してきた。

このような近代のあり方、人を資源と見なす世のあり方は、人と人の間のあり方、地域と地縁のあり方、そしてそのうえにある街や世のあり方についてまで及んでいる。

今日、格差は拡大し、それのみならず貧困のあり方が大きく変わってきている。根底にあるのは、人を資源とみなす世のあり方である。

「人」という言葉についても『神道新論』でその定義を述べた。

zwヒトのヒは「ひ(霊)」とおなじ。「ひ(霊)」はタミル語 pe に起源をもち、いのちの根源的なちから、いのちの根拠を意味する。元来「ひ(日)」とは別の言葉であった。しかし古事記の時代、すでに「ひ(霊)」を「日」で表しており、早い時期から「ひ(霊)」は太陽の生命力、太陽神の信仰の根源と考えられてきた。 トは「処」、つまり場所を意味する。よって、ヒトはいのちの根拠である「ひ(霊)」がとどまるところを意味する。これが、日本語が人をつかんだ原初の形である。

長く使われてきた「人」が近代になって改めてとらえ直され、「人間」という言葉が近代日本で用いられてきた。これは西洋語の翻訳語でもある。しかし、上述のように、「人(ひと)」には近代の見出した「人間」を超える意味が込められている。よって、ここでは、人ー人間ー人の第三段階の言葉としての「人」を用いてゆく。

日本語は人を資源とはとらえていない。霊のとどまるところであり、そのゆえにそれはいささかもおかすことのできない尊厳をもち、そういうものとして互いに認めあうべきものととらえてきた。この日本語に伝えられてきた智慧に立ちかえらねばならない。



Aozora 2020-07-14