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『いきの構造』の挫折

九鬼周造

この対話のなかで「九鬼氏」と呼ばれているのは 九鬼周造である。九鬼周造が西洋に渡ったのは1921年であった。1929年に帰国し京都帝国大学の講師となった。ハイデガーが日本人に対する印象を形成した時代と場所は、1920年代後半の西洋である。1920年代後半とは、1917年のロシア革命以後の世界革命がその内部で分化を開始したときであった。1921年に成立された中国共産党は国民党と合作し、中国人民の軍閥との闘いは勝利しつつあったが、ちょうどそのとき1927年4月、蒋介石は上海反革命をひき起こし、上海を血の海とした。これに対して毛沢東は、中国共産党のなかで孤立しつつ、困難と苦難のなかから中国の現実に足をつけた革命の道を歩みはじめていた。日本では、田中義一内閣が東方会議を開催、1928年3月15日、1929年4月16日と日本共産党への大弾圧を行ない、これを契機にアジアへの侵略の道をひた走りはじめた。また、欧州では第一次大戦以後の一時的な平和が行き詰まり、内部にファシズムが着々と準備されているときであった。ファシズムの台頭と、革命と反革命のせめぎあいの時代に、九鬼周造は西洋でハイデガーと出会った。

『いきの構造』は何をしているか

『言葉についてのある対話より−問う者と日本人との間での』によれば、九鬼周造はドイツに留学し「いき」を研究していた時代にハイデガーに会い、またハイデガーの問いに出会っていたことになる。九鬼周造はこのような対話があったことを公にはしていない。事実どのようなやりとりがあり、九鬼がそこで何を主張したのかはわからない。とはいえ、一方にハイデガーの問いがあり、一方に九鬼の著作がある以上、これを突き合せることはわれわれの責任である。

『いきの構造』(九鬼周造:『「いき」の構造』、岩波書店、岩波文庫版、1979)では、西洋の概念がハイデガーその他の彼が学んだ西洋の哲学者の大著を根拠として用いられる。

『いきの構造』は〈序説〉〈「いき」の内包的構造〉〈「いき」の外延的構造〉〈「いき」の自然的表現〉〈「いき」の芸術的表現〉〈結論〉の六章からなる。〈序説〉では「いき」を直接的につかまなければならないという。「いき」の本質は何かを求めるのではなく、『意味体験としての「いき」の理解は、具体的な、事実的な、特殊な「存在会得」でなくてはならない。我々は「いき」の essentia(本質存在) を問う前に、まず「いき」の existentia(事実存在) を問うべきである』というところから出発する。だが、西洋に根拠をもちつつ、漢語に翻訳された概念によって「いき」を対象化していくほど、この「存在会得」と概念把握が乖離していく。

九鬼は西洋語に堪能であり、西洋での生活経験をふまえて当時の西洋哲学を学んでいる。この学んだ西洋哲学の方法をもって、自ら愛着してやまない「いき」をなんとか言葉でとらえようとした。しかし、一方で九鬼自身が東洋人であり、「いき」という言葉をふくむ日本語を、自らの固有の言葉とする人であった。それはつまり彼自身がこの概念による分析の対象でもあるということを意味する。したがって、一方で九鬼自身が西洋の概念で「見て」いながら、「見られるもの」として、西洋の概念よっては真に見ることが出来ていないことを自覚していた。この書のなかでは、こうした分析の果てに突如として、見るものから見られるものへの立場の転換を宣言し、結局「いき」は感覚的・経験的にしかわからない、というところに立ち戻る。ハイデガーのいう「概念の違和」を自覚する。そうすることで「ハイデガーの問い」が問いとして成立していることを自ら実証してしまう。

ここには、西洋の概念によって考え実践し、行きづまり、そして自らの実感に還るという、近代日本の転向の構造がそのまま現れている。九鬼は著作の結論でつぎのようにいう。

    「いき」の存在を理解しその構造を闡明するに当って、方法論的考察として予め意味体験の具体的把握を期した。しかし、すべての思索の必然的制約として、概念的分析によるのほかはなかった。しかるに他方において、個人の特殊の体験と同様に民族の特殊の体験は、たとえ一定の意味として成立している場合にも、概念的分析によっては残余なきまで完全に言表されるものではない。具体性に富んだ意味は厳密には悟得の形で味会されるのである。

    ……

    意味体験としての「いき」と、その概念的分析との間にかような乖離的関係が存するとすれば、「いき」の概念的分析は、意味体験としての「いき」の構造を外部より了得せしむる場合に、「いき」の存在の把握に適切なる位地と機会とを提供する以外の実際的価値をもち得ないであろう。……しかしながら概念的分析の価値は実際的価値につきるであろうか。体験さるる意味の論理的言表の潜勢性を現勢性に化せんとする概念的努力は、実際的価値の有無またはまたは多少を規矩とする功利的立場によって評価されるべきはずのものであろうか。否。意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸かっている。実際的価値の有無多少は何らの問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである。……

    一言にしていえば、「いき」の研究は民族的存在の解釈学としてのみ成立し得るのである。

    ……

    いきの核心的意味は、その構造がわが民族存在の自己開示として把握されたときに、十全なる会得と理解を得たのである。

『いきの構造』の挫折〜転向の一形態〜

ハイデガーは東洋の「美」を西洋の方法でとらえることはできないと述べた。九鬼周造はそれに対し西洋の方法で「いき」をとらえようとした。そのたどりついた結論は「概念的分析によっては残余なきまで完全に言表されるものではない」ということであった。九鬼は日本文化の「いき」を自分自身の「生き方」としていた。西洋で生活することをとおして、「いき」の自覚を深めた。「いき」は日本近代になって生活の実際においては失われつつあった。九鬼は「いき」にたいして深い哀惜をもつがゆえに、「いき」を自らが生きる近代日本の学問の世界でとらえきり確定したいと考えた。だがそれは挫折した。

そのうえで九鬼は「意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸かっている。」という。その「概念的自覚」とは、体験として「いき」がわかっているものが、西洋の考え方でそれを解釈し「わかる」ということである。しかし西洋の知の内部のにおける「概念的理解」を西洋をさえこえた普遍的なこととしないかぎり、その「わかる」にどれだけの意味があるのかと問われれば答えることはできない。事実、ハイデガーがいうように「概念が必要なのか」という地点に立ち返れば、九鬼の前提自体が崩れてしまう。九鬼は「概念的分析」「概念的自覚」を無条件に西洋にも東洋においても人間に普遍的なものとしている。そのうえで、概念的にかぎりなく東洋に近づくことに意義を見いだそうとしている。だが「それは何のために」という問いに答えることはできない。

さらに「概念的につかむこと」を「名辞をもって言挙げすること」とととらえたとして、西洋語に規定された概念でそれは可能なのか、と言う問いが生まれる。ある感情を「いき」としてとらえること自体、言葉とその言葉による枠組みが先にあってそれは「感じ方」をも規定し、「いき」が「いき」としてとらえられる。固有の言葉から抽出された「概念」によるより他、「いき」を言挙げすることはできない。

ハイデガーの問いはやはり有効であった。「概念」による西洋の方法をさらに相対化する観点はついに九鬼の中には生まれなかった。西洋の「概念」で東洋の「いき」の中に入ることはできなかった。これは九鬼周造の「哲学」の破産ではないか。そして自らの実感の中に還っていった。これは転向そのものである。

1953/4年の著作『言葉についての対話篇』でハイデガーは、この「日本語哲学者」九鬼周造の破産を自ら確認し、そのうえに立ってこの問題をドイツ語・日本語の枠を越えて考えようとした。しかし日本国の哲学者たちはそのように問題をとらえることができていない。

九鬼周造の『いきの構造』は、西洋哲学の翻訳によっては、日本固有の美すら言葉にすることはできないことを示した。九鬼は結局は、西洋が民族学としてアジアやアフリカを見るように、一旦は西洋の立場に身をおいて日本の「いき」の構造を叙述した。しかし、一方での彼の日本人としての感性は、そのように外から見たのでは捉らえきれないことがあることを認識していた。最後は西洋からの翻訳の言葉では到達しきれないことを悟り感性の中に戻った。

失われつつある「いき」を哀惜するものが、日本語のなかから展開した方法で「いき」を言挙げしたならば、まったく違ったことが行われたであろう。しかし、まだ日本語はそれに耐え得ない。われわれは歴史過程を観念で越えることはできない。日本語を耕し、日本語の中から「いき」をとらえうるところまで進まなければならない。今は「ことわりの学・理学」で着手されたばかりであり、まだまったく開かれたままの問題である。


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