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ハイデガーの問い

哲学は西洋のもの

ドイツの哲学者ハイデガーもまた、「哲学は西洋のもの」ということを明確に述べた。1955年フランスはノルマンディの町でハイデガーは『それは何であるか−哲学とは』という講演を行った。その内容が木田元「ハイデガー『存在と時間』再構築」(岩波現代文庫)で紹介されている。

そこで〈哲学〉とそれに先立つ〈思索〉との関係をこんなふうに規定してみせる。〈哲学(フイロソイア)〉という言葉はギリシアに生まれ、ギリシアにしか生まれなかった。そこからも、〈哲学〉こそが「ギリシア精神の実存」を規定するものだと考えてよい。それだけではなく、この〈哲学〉は、このギリシア語の響きとそれによって名指されている特殊な知のあり方を受け継いだ「われわれ西洋=ヨーロッパの歴史のもっとも内的な根本の動き」をも規定することになった。逆に言えば、「西洋とヨーロッパは、そしてそれらだけが、そのもっとも内的な歴史の歩みにおいて根元的に〈哲学的〉なのである。」したがって〈西洋哲学〉とか〈ヨーロッパ哲学〉とかいう言い方は同語反復である。そして、西洋とヨーロッパの歴史の内的歩みが〈哲学的〉だということは、この歴史の歩みから諸科学が発生してきたことによって証言される、とハイデガーはつけくわえる。

これは「哲学は西洋のもの」という意味で本質的にアルチュセール同様のことを言っている。アルチュセールは「科学が哲学を生みだした」と言い、ハイデガーは「哲学が諸科学を生みだした」と言うところが逆であるが、同じ歴史的事実を指摘している。

日本語への問い

このハイデガーは同じ1950年頃、言葉と人間についての深い思索をふまえて、日本語で考えることについて根元的な問かけをした。この問いは、西洋近代が非西洋に対して行った問いかけとして最も本質的なものの一つである。日本近代の知のあり方は結局のところ人間本来のものではなく、一時的なものであり、そのことを根本から省みないかぎりそのうえになされた思索はついには空しいのではないか、という内容である。

『言葉への途上』と題された小編がある(ハイデガー:『言葉についての対話より』(1953/54年)、全集第12巻、創文社、1996)。著者自身による出典の指示では「このいままで印刷されたことのないテクストは、1953年から1954年にかけて成立したもので、この作品は東京帝国大学の手塚(富雄)教授の来訪を機縁とする」と記されている。手塚教授との対談をもとにして、日本人哲学者・九鬼周造への回想をひとつの軸に、言葉の思索を深めるという形で、対話編『言葉についてのある対話より−問う者と日本人との間での』は構成されている。

歴史的な事実は同全集の日本語訳の訳注に書かれている。

この対話の相手とされている東京大学の手塚富雄教授は、ヨーロッパ旅行の途次、フライブルクのハイデガーを訪れたのは、1954年3月末頃と記している(『ことばについての対話』手塚富雄訳、ハイデガー選集21、理想社1968年、巻末の解説)。日本人を対話の相手に想定した『言葉についての対話篇』は、手塚教授との対面以前に計画されていたことになる。ハイデガーのこの作品は、実際に交わされた「対話」の実録という体裁を取っていて、手塚教授の実際の業績に触れたり、旅程も話題になっている。そして、ハイデガーの愛弟子であり、この対話の中で重要な役割を果たしている九鬼周造は、ハイデガーから親しく教えを受け、さらに「いき」をめぐって『いきの構造』を発表していることも事実である。が、手塚教授は〈わたしは九鬼氏の講義を聞いたものではなく、九鬼氏との面識もなく、その読者に過ぎない〉(前掲書)と書き残しているので、九鬼周造を焦点としての対話の大部分はハイデガーの創作である。

京都帝国大学の田邊元以来、多くの日本人がハイデガーのもとを訪れていた。「ある日本人」とは、対話編の機縁となった手塚富雄教授や九鬼周造、ハイデガーのもとを訪れた多くの日本人から、ハイデガー自身が受け取った「日本人」に対する印象をひとつの像にまとめたものである。ハイデガーは日本人と出会うことを通して言葉への思索を深めた。しかし、同時に日本語に対する深い問題提起でもある。大きく三つのことが提起されている。訳は同全集を用いた。「問」とあるのは「問う人」つまりハイデガーであり、「日」は「日本人」である。

九鬼周造の『いきの研究』を下敷きに、九鬼の語る「いき」についてハイデガーは述べる。【】内はわれわれの評語である。

ヨーロッパの方法では日本語の心は閉じられたままである

     この言葉(「いき」)が何を語っているのか、九鬼氏と度々語り合った折りにも、私は遠くから感じ取ったにすぎません。

     九鬼氏は後にヨーロッパから日本に戻ってから、京都[帝国大学]で、日本の芸術と文学の美学について講筵を張りました。この講義は書物となって出版されております。この講義で、彼は日本の芸術の真相をヨーロッパの美学の助けを借りて考察しようとしているのです。

     しかし、そういう試みをする際、ヨーロッパ流の美学(Ästhetik)に頼っても良いものでしょうか。

     何故いけないのでしょう。【このことが判らない。これがハイデガーがとらえた日本国の「哲学者」の現実である。】

     美学というこの名称そのものも、この名で呼ばれている学問も、ヨーロッパの考え、ヨーロッパの哲学に基づいております。それ故、美学的考察は、日本という東アジアの考えにとっては、基本的に見て、異質なものに違いないと思われるのですが。

     おそらくおっしゃるとおりだと思います。それでも、我々日本人は、美学の助けを借りないわけにはいきません。

     何の為にでしょう。

     美学は必要な概念を与えてくれるからですし、概念があれば、芸術や文芸として我々に関わってくるものを把握することができるからです。

     あなた方には概念が必要なのですか。

     多分必要だと思います。と申しますのも、ヨーロッパの考えと接触して以来、我々の言葉の非力さが明るみにでてきましたので。【自らの言葉の非力さを、日本語の非力さにする。大学学者の限界露呈。】

     どの程度にあなた方の言葉が力不足なのですか。

     限定する力が欠けているのです。そのため、対象を誤解の余地がないほどはっきりと分類し、対象が相互に上位、下位に位置づけられるように、脳裡に思い浮かべて表象することができないのです。【そんなことは絶対にない。】

     あなたは本気でこの力不足を、あなた方の言語の欠陥と思っておられるのですか。

「ことわりの学・理学」はハイデガーの問いと同じ問いを近代日本の知のあり方に対しておこなう。それと同じ問いかけをなぜハイデガーがすることができたのか。ハイデガー自身が同じ問いかけを西洋内部で行ってきたからだ。そして、「いき」という日本語の指し示す意識が日本語の構造に深く係わるものであり、西洋語の構造から生まれてきた考え方で「いき」をとらえようとしても、それは原理的に不可能だ、と指摘している。なぜ西洋の考え方を借りねばならないのか。この日本人は「限定する力が欠けているのです」という。しかしそれはその日本人が「限定しよう」としなかっただけのことなのだ。日本語による「いき」の限定がが可能になるまで日本語を土台から耕すことを、しなかったのだ。そうしないかぎり「いき」をとらえることは不可能だ、ということにまったく思い至っていない。これがハイデガーのとらえた近代日本国の「哲学者」の実像だ。

     我々の対話の危険性は、言葉そのものの中に隠れていたのです。我々が徹底的に語り合ったことがら( was )の中にあったのではなく、また、我々が論じ合おうとしたやり方( wie )の中にあったのでもありません。

     しかし、九鬼伯はドイツ語を充分使いこなしていましたし、フランス語、英語にも珍しいくらい堪能だったのではありませんか。【個別の人間の言葉が得意か不得意かという問題ではない。】

     その通りです。彼は論点になったことを、ヨーロッパのいろいろな言葉で語ることができました。しかし、我々が取り上げて論じたのはいきのことでした。その場合、私にとっては、日本語の言語精神は閉ざされたままでしたし、今日でも依然としてそのまま変わってはおりません。

「日本語の言語精神」を外から対称として「見る」ことは不可能である。「ヨーロッパのいろいろな言葉で」語っても日本語のことわりを開くことはできない。ことわりを開かずどうして「いき」を限定することができるか。ハイデガーは自らの経験によってそれを指摘する。

     九鬼氏にとって、いきをヨーロッパの美学の助けを借りて、ということは,あなたのご指摘によれば、形而上学的にということになりますが、とにかく規定したい、という誘惑がいかに大きかったか、お分かりいただけると思います。

     私の懐いている危惧の念はそれより大きかったですし、現在でも依然として変わっておりません。つまり、その懼れとは、そんな道を歩めば、東アジアの芸術の本質は蔽われてしまい、その本質にふさわしくない領域に押し込められてしまうのではないか、というものです。……【ハイデガーの問うていることは、日本国哲学者の思いもよらないことだった。】

     技術の進歩によってすっかり目がくらんでしまいましたので、人類と地球を挙げてのヨーロッパ化が、本質的なものをすべてその源泉のところでいかに喰い荒らしているか、誰も見抜くことができなくなってしまったのです。源泉が枯れ果ててしまうようにすら思われます。

ハイデガーは「考えるものの中に考え方はある」という立場を一貫してとりつづけた。「もの」はとりあえずは考える対象である。対象に実は方法が内在している。美学という方法は西洋の技芸に固有のものである。東洋のものに対して美学は外在的なものであり、美学という方法では真に東洋のものをとらえることはできない。「美」としてとらえる枠組み自体が西洋と東洋で異なっているとしたら、そして方法とはその枠組みを自覚的に取り出すことであるとしたら、東洋の「美」を西洋の美学でとらえることは不可能である。「いき」を西洋の方法でとらえることはできない。そのようにハイデガーは述べる。「ヨーロッパの美学の助けを借りて」規定するくらいなら規定しない方がよい、なぜならそれでは「東アジアの芸術の本質は蔽われてしまい、その本質にふさわしくない領域に押し込められてしまうのではないか」。それに対して「ことわりの学・理学」は「ヨーロッパの美学の助けを借」りることなく日本語内部から規定することを可能にしなければならないと考える。

ハイデガーと「こと」

最後に、日本語の心を開く途は可能なのではないか、現代日本の思索が思いもよらない道があるのではないか、ということを実際にみずから考えることの一端を示して、問うている。

     日本人の世界では、言葉といったとき、何を考えますか。もう少し注意深く問うとすれば、あなた方の日本語の中に、我々が言葉 ( Sprache ) と呼んでいるものに相当する言葉 ( Wort ) がありますか。もしないとすれば、ドイツ語で言葉と呼ばれているものが、どうして経験できる ( erfahren ) のですか。

     私は誰にもこんな問いを発せられたことがありません。【なぜ自ら考えようとしなかったのか。】また、我々日本人の間でも、今お訊ねになったようなことに、何人も注意を払ったことは無いように思われます。ですから、暫く、私によく考える時間を下さるようにお願いします。(この日本人は眼を閉じ、頭を垂れ、長い間考え込む。問う人は、客人が再び口を開くまで待ち続ける。)【この人はこのときはじめて考えたのだ。はじめて哲学をした哲学者!、ハイデッガーは日本人哲学者をこのようにとらえていた。】

     話すこと ( das Sprechen ) 、および、言葉そのもの ( die Sprache ) を示すために使われるというよりは、むしろ、言葉の本質を言い表す言葉 ( Wort ) がひとつあります。

     そういう言葉のあることを、事柄自体が求めているのでしょう。さもなければ、言葉の本質は言語的な形を取りえないことになってしまいますから。「有の家」という言い方にも同じ事情があります。……(さらにしばらく躊躇したのち)それは、 ことば( Koto ba ) と申します。

     それは何を言っているのですか。

     ば とは 葉(Bltter) です。なおまた、はなびら(Blütenblätter)をもさします。桜の花や梅の花 (Pflaumenblütter)を思い浮かべて下さい。

     では、こととは何を言うのでしょう。

     これこそもっとも答え難いものなのです。しかし、いきを説明しようと思い切ったのですから、ことにお答えするのも少し気が楽になりました。さて、いきとは:呼びかけてくる静寂の与える純粋な恍惚のことでした。そして、この静寂の風のそよぎこそ、呼びかける恍惚を生起させるものであり、例の恍惚を到来させる主要な力なのです。ことはそのつど生じてくる恍惚そのものを指すのですが、この恍惚は溢れるほど優美であると感じたまさにその瞬間−−二度と繰り返されることのない瞬間−−ごとに浮かんでくるものなのです。……

     こと、すなわち、何かを作り出す慈しみ、みずから明るくなりつつ伝える知らせの生起です。

     こととは生起するときに主導的に働くものとでも…

     それならば、言葉を言い表す名称として、ことばとは何を言っているのですか。

     この語から聴き取るところでは、言葉とは:ことに由来する花びらです。

     これはまた不思議で、しかも、それ故に考えつくすことのできない言葉です。我々にとっては形而上学的な意味に理解されている Sprache (独)、 $\gamma \lambda \omega \sigma \sigma \alpha$ (ギリシア)、lingua (ラテン)、langue ( 仏)、language (英)という名称が 表象させているものとは全く別のものを呼んでいるのですね。ずっと以前から、私は言葉の本質について思索していく際、「言葉」 ( Sprache ) という語を用いるのがいやでたまりませんでした。

     もっと適切なものを見つけられましたか。

     見つけたと思います。しかし、この語がありきたりの標題として適用され、概念の表示にまで歪められてしまわないよう、注意して保護しなければならないと思っております。

     どんな語をお使いになるのですか。

     die Sage という言葉です。この言葉は:言うこと ( das Sagen ) 、言われたもの ( das Gesagte ) 、および、言われるべきもの ( das zu-Sagende ) を意味しております。

     言う ( sagen ) とはどういうことですか。

     示す ( zeigen ) と恐らく同一でしょう、ただし、示すといっても: 立ち現れさせる、輝き現れさせる、という意味においてですが、しかし、そのときでも、合図するという仕方においてなのです。

     そうなると、「言う」とは人間の語る活動 ( Sprachen ) を指す名称ではなく……

     そうではなくて、あの本当にあり続けるもの ( das Wesende ) に対する名なのです。この本当にあり続けるものを、日本の語であることばが合図を送って招き寄せると、そこに見えてくるもの:すなわち、言い伝えるべきもの ( das Sagenhafte ) を……

     この言い伝えるべきものの送ってくるさまざまな合図に、私はこの対話によって慣れ親しむことができました。そこでよりはっきりと分ったことは、九鬼氏があなたのご指導のもとに解釈学について思考をめぐらせようとしたとき、いかに彼がよき師に出会ったか、ということです。

     しかし、私の指導がいかに不十分なものにすぎなかったか、その点もご理解いただけるでしょう。この言 ( Sage ) の真相を底まで見抜くだけの眼力があってはじめて、形而上学の立場にのみ立ち、もっぱら表象をこととしていた我々は、やっと我々自身を取り戻す思考の新しい道を歩むようになるのですから。そして、この道こそ、あの知らせの送ってくる合図やめくばせに我々を気づかせ、この知らせを伝える使者に我々がなりたいと思うようになる道なのです。

これは、日本の思索に対する根元的な批判である。それにしてもハイデガーがとらえた日本人は、ハイデガーの水準から言えばまったく言葉について切実には考えていない。ハイデガーは彼が設定した日本人に「私は誰にもこんな問いを発せられたことがありません。また、我々日本人の間でも、今お訊ねになったようなことに、何人も注意を払ったことは無いように思われます。」と言わせている。これがハイデガーがとらえた近代日本の大学の哲学者像である。

ハイデガーは、日本語を固有の言葉とするものがまだ誰も「こと」の重大さに気づいていないときに、「こと」を思索の契機としてドイツ語世界での思索を深めている。なぜハイデガーは「こと」の重大さを知ることができたのだろうか。ハイデガー自身がドイツ語の内部でまさに限界まで言葉と人間について考えたからである。ハイデガーはこの水準での対話を日本人に求めていたのだ。そしてそれは彼が出会った日本人との間では成立しなかった。ハイデガーは「私の指導がいかに不十分なものにすぎなかったか」と述べている。1920年代にはまだ「こと」の重大さを日本人に指摘することができなかったということだ。ハイデガー自身の内部でおそらくナチスの敗北を契機とする転換があり、それを経てはじめて「こと」に気づいたのだ。

この対話編は、対話としての形式を取っているが、ハイデガーの内部での思索である。ハイデガーの内部で、日本人の日本語に対する関係に、さらに普遍的な現代の危機を見ている。

われわれは「ことわりの学・理学」で同じ問題を日本語内部から提起する。われわれの問いをすでにハイデガーがおこなっていたという事実のなかに、この問題の普遍性と、さらに深く掘りさげ耕すならば必ずわかりあえる、そのような場に互いに立てるという確信を得る。

問い再び

この対話が九鬼周造との間でなされたときから半世紀、『言葉への途上』と題された小編が発表されたときから16年を経た1970年、ハイデガーは再び日本人に同じ問いをなげかけた。

1970年とは、1960年代後半のフランスをはじめとする資本主義諸国の青年学生運動、そして中国の文化大革命が一つの結末を迎えたときであり、一方でベトナムにおける民族解放闘争の勝利とアメリカ帝国主義の敗北が決定的となったときであった。

雑誌『理想』は1970年の第444号で、特集『ハイデガー生誕八十年記念特集』(ハイデガー:「巻頭言」(『理想』444号)。理想社。1970 )を組む。雑誌の求めに応じて、ハイデガーは巻頭、次の挨拶を送った。

謹啓

    貴下の願いに応じて、この書面をもって日本における私の思惟の友人達とその若き僚友達に挨拶を送ることは、私の欣快とするところです。

    当地フライブルグで今世紀の20年代の初めに、尊敬する思索家田辺教授との出会いを得て以来、東亜の思惟と西洋の思惟とのあいだの実り豊かな対話への求めが、私をして思惟の道をたどらしめています。

    このような対話は、両者の側から現代技術の本質とその権力への問いが充足的に問われてこそはじめて営み得るものです。しかし更に一層深い次元のうちで、あるひとつの究明を目指す問いが待ちうけています。それは、東亜語と印欧語との根本構造のかかわり合いに関する究明です。しかしながらここで前提されるのは、およそこの地上での人間の言葉が、いよいよ乏しさを加える世界語にのっとって一般的な水平化に突き進まない、ということです。

    私の望は、日本における私の思惟の友人たちと論敵達とが、この二つの根本的な問いに留意して、そしてこの問いに彼らの思惟の熱情を傾注してもらいたい、ということにあります。このような方式によってのみ、それと同時に、民族の偉大なる歴史的伝承は、その生命を失うとなく、伝承のうちに包蔵されている人間の現有にとっての高貴な基準と模範とを、常に新たに経験され得る現在たらしめるでありましょう。

    私にあたえられました栄誉に対する深甚なる謝意と心からの挨拶をこめて、私は日本の友人諸氏を想致いたします。

1970年2月5日     

ハイデガーが技術の問題として提起していることは、実は技術が生みだした資本主義の問題そのものである。ハイデガーは現代の問題を技術の問題として提起する。そのことを踏まえ、ハイデガーの問いをとらえなおすならば、次のようにまとめられるのではないか。

世界を「単一の世界」へと突き動かす現代資本主義の力が、言葉に対してその固有の構造を失わせ表面的な水準での共通化へと突き進ませようとする。この資本主義のもつ力を自覚しこれに対抗すること、これが前提である。この前提のもと、東アジアの思惟と西洋の思惟の根本構造のかかわりあいを究明し、実り豊かな対話を実現しなければならない。それは可能か。ハイデッガーのこの問いは開かれたままである。ハイデッガーが問うているのは、固有の言葉に根ざした普遍性という、ことわりの学のめざすところそのものである。

ハイデガーの思索とは

ハイデガーは、第一次世界対戦後の「西洋の没落」といわれた事態を目の前にして、西洋哲学の起源を彼の仕方で問い、それが結局はプラトン、アリストテレスのいわゆる後期ギリシア思想における「知」の転回にあったという結論に達する。ハイデガーはプラトン以前に立ち返り、そこに立ち尽くすことを主張する。それは本質的に「近代の〈近代以前への回帰による〉超克」である。このような「近代の超克」が物質性を得ようとしたのが、ハイデガーのナチスとの一体化であった。

ハイデガーの思想方法に一貫していることは、本来は社会の階級的な矛盾に原因する問題を技術の問題としてとらえ、階級性を捨象するということである。階級性を捨象した「近代の超克」は必然的にファシズムと一体化した。しかし、それはハイデガーのみの責任ではない。さらに、ハイデガーの日本国哲学者に対する批判は正当である。

彼の西洋思想に対する内部からの批判それ自体は、その内部性において、日本人「哲学」者の考えもつかない深さをもっている。ハイデガーは西洋形而上学の成立をギリシア時代後期、ソクラテス、プラトン、アリストテレスに求める。アナクシマンドロスヤヘラクレイトスやパルメニデスといったそれ以前の思想家を「叡知を愛する人」と位置付け哲学者よりもっと偉大な思索者とする。

では、ソクラテス、プラトンで一体何が転換したのか。時代背景としてはペルシャ戦争における勝利という、いわば西洋の東方に対する軍事的勝利と奴隷制度を土台とするアテナイの物質的繁栄がある。このとき、直接の生産活動から解放された知識人が生まれた。生産活動から切り離されているがゆえに、その知性は「それは何であるか」と客観的に問う方向に向かった。この知性の向かうところは結局「あるとはどういうことなのか」「あるとは何があるのか」という問いに至り、これが高尚なものとされ、「あるとはあることそのものである」という事実存在から、「あるとは何があるのかというその何とはなにか」によって指し示される本質存在が分離され区別されるようになる。「机をつくる」とはつくる職人よりも先に「机の本質」があり、そのゆえに机の制作が可能であるとする立場である。これは直接生産よりも高尚なものを仮定する貴族の思想である。このような「本質」の世界がプラトンのいうイデア界である。イデア界の認識方法として定式化されたのが弁証法であった。プラトンの立場は、弁証法によってイデア界の構造を認識し、現実の世界をイデア界に近づけることを人間の生の目的と意義とする。

このギリシア時代後期の転換を明確に指摘したのがハイデガーである。ギリシアにおける技術の一定の発達によって引き起こされた質的転換として、この転回を捉らえようとした。ハイデガーの思想形成の時代は、第一次世界大戦後の世界であり、西洋世界の荒廃と没落の予感、それを背景とする西洋の自己認識を土台としていた。このハイデガーによる西洋哲学の自己認識は、大きな影響を西洋世界に与えた。それは当然である。ハイデガーは事実存在から本質存在が分離されることそのものを問い、区分される以前の単純な存在、始原の存在に近づくことがすべての問題であるとする立場に立ちつくした。

ハイデガーが西洋哲学の歴史のなかでいかなる位置を占めるのかは、議論がある。しかし少なくともハイデガーは、西洋内部から問題を考えたことは事実である。ハイデガーは西洋の内部から西洋近代を考えたという立場から、日本の哲学者に西洋と東洋の問題を提起した。日本の「哲学者」たちは、このハイデガーが指摘したことを乗り越えることはできないまま今日に至っている。日本で、ハイデガーがいつまでももてはやされるのは、日本の「哲学者」たちが、彼の提起した問題に答えることができないが故に、いつまでも「新しい」からである。ハイデガーは、「西洋の言語で『いき』の究明は出来るのか。日本の言葉の心が閉じられたままになっているではないか」と問うている。これは逆からいえば、「日本語で西洋形而上学が究明できるのか」と提起しているのと同じことである。具体的には、日本語を固有の言葉とするものに本質的に西洋語と一体である西洋形而上学の理解は可能なのか、ということである。ハイデガーは西洋の東洋に対する優位性の前提でいっているのではない。原理原則の問題としていっている。

「ことわりの学・理学」はわれわれ自身の問題として日本語内部からこの問題を考える。考えることができる土台を築く。考えることができるまで日本語を耕す。


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