up previous 上: 歴史を尊重しよう 前: 新石器革命

次の段階とは

技術発展の爆発としての産業革命

人間にとって火は根元的なエネルギーであり、言葉は本質的な方法である。人間は、火を使い、協同して働き自然からめぐみを受け、言葉を獲得し、人間となった。言葉を使い経験をまとめ、掘り下げ、伝え、智慧を磨いてきた。言葉を持つことによってはじめて人間は「考え方」を磨き伝える生命となった。協同の労働と言葉の仲立ちをするのが道具だった。道具を配置した機能が技術である。技術の発展は、一つの到達点として産業革命に至った。産業革命を考え方として準備したものは何か。それが、ニュートン力学とデカルトの近代的世界観であった。

かつて人間は、自然界からさちを受けとるという段階から世界を耕し幸を成らせるという段階へ転化した。それが新石器革命であった。その転化の一つの到達点が産業革命とそこからはじまる現代である。つまり、自然を変革するために、自然の法則を対象化して認識し、具体的現実に適用する、これを最後まで進めたのが産業革命なのである。

その思想と理論を準備したものこそが本質的にニュートンであり、デカルトであった。十八世紀の自然科学の成立は、デカルトの二元論をその根拠とした。ヨーロッパ近代は世界を物質世界と精神世界に分離したうえで、その物質面の探究に専念した。十八世紀に成立した自然科学は、時間と空間を、物質が存在し運動する枠組みとしてあらかじめ前提した。これは、言葉によって人間が自然を対象化して認識した時以来育ててきた世界認識の型であり、ニュートン力学はこの人間の世界を認識する仕方の集大成であり、その極限であった。いわゆる「主観−客観」という認識上の図式は言葉によって人間である人間の認識にとって必然の帰結である。西洋近代資本主義文明はこの必然性に根拠をもっている。

しかし同時にそれは生命を物質に還元し、人間を個別の人間に切り離した。人間をばらばらにすることは、近代資本主義が人間の働くということそのものを冨の源泉として搾取するうえで、必要でありまた十分なものの見方であった。

原子力と高度情報技術

だが、産業革命を土台とする自然認識技術の発展によって、ニュートン力学では説明できない現象がつぎつぎと発見され、その思想的掘り下げのなかから相対性理論と量子力学が生まれた。それは、現象の時間・空間的かつ因果的記述に対する制約を暴露し、時空概念の絶対性を奪い取った。ニュートン力学が生みだした近代の生産技術は、逆にニュートン力学を乘りこえる事実の存在を人間に示した。

それまでの「problématique(問いの枠組み)」が事実によって転換を求められたのだ。

ニュートンの時間と空間を前提にする世界観の超越的枠組みは、相対性理論と量子力学においてとりはらわれ、その世界観は「発展する物質」としてのこの世界自体の認識を一歩一歩深めることを可能にした。相対性理論と量子力学は、時間・空間が物質存在と運動の前提ではなく、逆に物質が「運動しつつ=存在する」ことが、そこに時間・空間の「ある」ことである。このことを明らかにした。

この思想と理論によって獲得されたものこそ、原子エネルギーであり、今日のいわゆる高度情報化技術である。半導体技術や超伝導技術の前進、コピューターと通信の劇的な普遍化の土台には、量子力学が基本思想と理論として存在している。これぬきにいかなる先端技術も不可能であった。電子や光子を1個づつスクリーンに向けて放つ技術は、量子世界の波動性と粒子性という二重性の具体的応用であり、中性子の回折干渉の応用や原子を1個づつならべる技術など、すべて量子力学が基礎理論となっている。二十一世紀になって実際に応用されはじめた、一〇億分の一メートルの世界の技術、いわゆる「ナノ技術」もまた量子力学ぬきにはありえない。

相対性理論と量子力学によって人間は原子力エルギーという現代の火を手にし、高度情報化技術を獲得した。これは本質的には、かつて人をして人間とした、火の使用と言葉を生みだした有節音の獲得に匹敵する、根本的意義を有している。

だがそれは単に前進したとか進歩したとかいう問題ではない。何よりそれは近代の合理主義が生みだしたその対立物だということである。この近代合理主義の根底には、人間を世界から隔て自然を対象化するという本性がある。その本性が産業革命を生みだし、産業革命の技術がもたらした新しい認識が、産業革命の土台にある近代合理主義と矛盾する現象を人間に伝えた。

近代の合理主義は生命を物質に還元することで大きな結果を生みだした。物質への還元はまた、生物を個別の切り離されたものとして考えることを前提にしていた。しかし、その結果として遺伝子を物質的に扱い分析したとき、生物を個別の切り離されたものとする考え方とは正反対の事実が人間に示された。遺伝子の普遍性と環境を前提にした遺伝子展開の構造、である。遺伝子の普遍性は、いのちが一つにつながっていることを示している。遺伝子は単独で存在するのではない。一つのいのちを前提にして、発現する機能を変化させてきたことが判ってきた。

まとめれば、西洋近代合理主義は科学を生みだした技術を発展させたが、その結果、近代思想の枠を超える事実が発見された。相対性理論と量子力学と遺伝子学である。人間はこれを制御することができていない。近代思想の枠になかで御することはできない。

西洋の歴史的閉塞に対して、東洋の「思想」や非西洋の考え方、「野生の思考」などを対置することは誰でもする。しかし、西洋近代は人間のあり方に深く根ざしており、その必然性もまた深い。『ことわりの学・理学』が考えていることは容易なことではない。

これまでの社会主義理論は、原始共産制「社会」−階級社会−共産主義「社会」、といずれも「社会」という考え方内部での革命であった。しかし、われわれが見てきたように、人間が組織化され社会が生まれたのは新石器革命であって、それ以前はこの社会への過渡期であった。そこには厳密な意味での社会はなかった。ならば、われわれがめざすものもまた共産主義「社会」ではない。まずそれは社会の解体である。しかし、解体のうえにどのような人間と生命のつながりがあるののか、それはまだ人類の前に開かれてはいない。共産主義は運動だというマルクスにあった思想はその後のなかでは現実には機能せず忘れられた。永続した運動を支える言葉のあり方もまた、未知なままである。

当面の世界

このように近代の限界が一般的に認められるようになった二十一世紀初頭、二〇〇一年九月十一日、ちょうどこのとき「二十一世紀型世界大戦」が勃発した。今日、地球上には、戦争と内乱、民族紛争と国境対立、宗教戦争と部族抗争、暴力事件とテロ行為、汚職と腐敗、政府の無能と無策、あらゆる犯罪と社会的事件があふれている。これが世界の危機となり、反テロ連合を形成させている。すべては頂点に上り詰め、らん熟し、腐敗した階級社会の現実である。

アメリカや同盟軍は市場主義という自らの支配のみを利する弱肉強食の価値観を振り回し、それに従わないものを「テロリスト」として抹殺しようという、歴史上最悪のファシズムを推し進めている。だが、戦争によってタリバン(イスラム神学生による改革運動)政権を破壊し、首都カブールに別の政権を樹立した。それでもテロはなくならず、第二、第三の同時多発テロは姿、形を変えて続発する。アメリカ経済はいよいよ混乱と危機を深め、アメリカ帝国主義との階級矛盾はアメリカの内外で深まり続ける。パレスチナの闘いは、失うものはなにもないという絶望的な状況のなかで、逆に強まるばかりである。アメリカ帝国主義は正義ぶり強がりを言っているが、歴史的には敗北する運命にある。テロはもともと、独善的で偽善的な帝国主義の支配、その国家と権力が生み出すものである。近代資本主義が生みだした相容れない対立物の一つの現れそのものである。

アメリカ帝国主義は、経済が左前になればなるほど、市場経済という大域主義を振りかざして世界支配を露骨にしてくる。それに対するには、それぞれの経済、文化、言葉、歴史等の固有性と、人間が共に生存するという普遍性が一つになったわれわれの生き方が生みだされていかなければならない。

われわれは、一本道の歴史観から自由に、それぞれの固有の歴史を尊び、固有性が真に共存する場を準備しなければならない。歴史の各段階に優劣はない。それはいずれにせよ階級社会なのである。われわれは「社会」という考え方自体を問い直し、社会を超えた人と人のつながりの言葉を生みださなければならない。

それが人間の向上であり、そのためになしうることをするのが、その人の向上である。

第一、
人間は協同して働くことをとおして言葉を獲得した。言葉の獲得は、人間の自覚と結びつきを深め、それは社会の成立に至った。その過程が原始共産制といわれる過渡期である。
第二、
成立したこの社会は、実際には階級社会であった。人間を差別し弱肉強食を是とする社会であり、生産力は内部の力で自己展開し、階級社会自身によっては制御が不可能であった。
第三、
言葉によって言葉を越え、社会というものを超えた人と人のつながりの言葉を生みださなければならない。固有性が真に共存する場を準備しなければならない。
第四、
人間が食物連鎖の頂点に立って以来の考え方である、人間を特別なものと見なす考え方をものりこえなければならない。遺伝子は本質的に普遍なのである。
第五、
それを実現する新たな人のつながり方はまだ見いだされていない。われわれは今そのための言葉を耕している。

今そのような歴史を作ろうではないか。

三つの命題、二つの課題

これまで考えてきたことを、もっと深くきり拓き耕すために、何を言ってきたのかという観点から再編成すると、三つの命題と二つの課題が浮かびあがる。

三つの命題とは何か。

第一、
言葉は固有の言葉の内から定まらねば意味をもたず、真に考えるためには固有の言葉を耕すことが不可欠である。
第二、
人間が困難に直面したとき、結局は内からの力による以外にこれを乗り越えることはできず、何事をも解決しえない。
第三、
この社会は階級社会としてはじめて成立した。いわゆる「原始共産制社会」は、社会成立に向かう過渡期であってそれ自体はまだ社会ではない。

二つの課題とは何か。

第一、
固有性が共に生きる場としての普遍性、西洋を相対化する高い段階における普遍、このような普遍を実現する。
第二、
さちを奪い資本を蓄えこの世を支配する階級と、さちを直接に得ながらそれを奪われ、支配される階級、この二つの階級に分裂したこの世のあり方を乗り越える。

これらのことはいずれも、われわれのこれまでのこの世での生活と闘いと思索によって形成され、経験にもとづく確信をもつ。 もとより、いまだ論証されたわけではない。

すべては今後の課題である。さらに耕し続けよう。


Aozora Gakuen