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働く輝きを

世界は転換される

資本主義は「市場主義」や「大域主義」という普遍性の名の下に、働いた人からさちを奪い資本を増殖させる。さちを奪い資本を増殖させる場所、それが市場である。市場のやりとりを善とする世界に対して、さちを奪われる側の世界は、今日もさちを受けとるいとなみ自体に価値を見いだす。理学もまたさちを受けとるいとなみこそが人間のいとなみであり、人生の意味であると考える。その営みそのものが世の前に出なければならないし、今日の世界のあり方は必ずそのように転換されると考える。

その根拠は何か。

第一、
人が協同してはたらくことを協働という。協働の場は言葉によって成立する。協働の場はことわりのひらかれる場である。協働の場を成立させる言葉、それは同時にその人をして人としている言葉である。それを固有の言葉という。ことわりは必ず固有の言葉でひらかれる。それ以外にない。固有の言葉を粗末にするものにことわりがひらかれることはない。固有の言葉で切実に生き、はたらかなければ、ことわりはひらかれない。人がこのように生きることは言葉の違いを越えた真理である。
第二、
働くものは、いのちのはたらきとして耕し、ものの世界からさちを直接に受けとる。この形式はさまざまでも、この本質は人間に共通のものである。世界は、一方で国家に分断され、一方でさちを奪う側と奪われる側に二分されている。だが、直接にさちを受けとる場で働くものは、はたらくものとして同じ経験をしているがゆえに、必ずわかりあえる。協働の場には共感と連帯がある。これは国家の力による世界の二分を乗りこえる。国家の力を背景に資本を操り資本の増殖をめざすものは、固有の言葉が生まれ育つこの場とついには切り離されている。直接にさちを受けとるもののみが、結局はこの世界の意味である。
第三、
このゆえに「さち」が人の「幸い」である世は実現可能である。ことわりあいの場に届くまでに耕された言葉と言葉が、ことわりのひらかれる場において出会うとき、それは可能である。ことわりがひらかれるとき、そこで輝くことを聞きそして語らえ。考えてなったことを智慧としてことばに留めよ。それはかならず、時空を越えて、固有の言葉で切実に生きるものにつたわり、また他の言葉で生きるものにつたわる。そして、はたらくものをひとつに結びつける。言葉の智慧はこの世界を転換し、いのちの輝きを取り戻す。こうして固有性が輝いて共存する世となることは可能である。

この転換の可能性はどのように現実になるのか。手だてはあるのか。

手だてを編み出すためのその基本は何か。それは、世界、つまり自然界と人間社会のすべてはひとつのものとして生成発展し、大宇宙銀河の果てから人の世を経て極微の世界まで、すべてはひとつのものである、という事実である。

人がともに協同して働き、もののことをわり、世界からさちを受けとり生きる。一人一人にとって、このいとなみの場所はうちの世界であり協働体である。しかし人間が世界からさちを受けとる働きは、局所的な孤立したいとなみではない。その逆に、すべてのいとなみは世界のすべてとつながっている。

協同のはたらき自体が、その技術と道具を世界に負っている。さちとなった「もの」は実際に世界のなかに交流する。さちは協働の場から奪われ資本となる。資本は世界を駆けめぐる。すべての協働労働は世界と結びつく。このゆえにまた局所的な働きは大域の営みの部分であり、世界の一部としての局所である。

世界の部分としての協働労働は、その労働を担う人間を「発見させた」。資本主義は逆に人間という考え方を生みだす。そして、そこからすべてはひとつのものであることが発見される。

第一、
世界の諸々のものは孤立したものではなく、反対に世界のあらゆるものはたがいに語りあいつながりあって意味のある関連のもとに一つのものとして存在している。世界は大宇宙の果てから極微細なものまできわめて複雑でかつ階層的なひとつの構造をもった一つのもである。
第二、
世界のあらゆるものは、たがいに語らい響きあっている。静止と不動、停滞と不変の状態にあるのではなく、反対に不断の運動と変化、不断の更新と発展のもとにある。宇宙は輝き、生命ある人は働き、さちを受けとり、燃焼させ光芒を残して燃えつき、また新たな人が出現する。人の世もまた変転流転かぎりない。一刻として留まることはない。
第三、
世界のあらゆるものは、内部の因を縁として発展している。もののの内部には、矛盾、否定と肯定、古いものと新しいもの、前進と後退、などの二つの側面がつねに存在している。これが内因の現実である。世界のあらゆる運動と発展の原動力、推進力は、この内因による。すべては内因を縁として生成し発展する。
第四、
世界と人間社会のあらゆるものの運動と発展はどのような形で実現するか。内因による個別の変化や発展の量の蓄積がやがて質の転化、つまりはそのものを根底から変えてしまう質的な変化をもたらす、という形で実現する。たまりたまったものが爆発する。人の成長も社会の発展も、すべて爆発である。集中し考えに考えてあるとき「わかった」となるのもまた爆発である。
第五、
世界のあらゆるものにおける量から質への転化は、決して少しずつ起こるようなものではなく、単純でなだらかで静かなものではなく、はっきりとしていて、根本的で、急激で、爆発的なものである。いつどこで、という爆発の時間と空間はそれまでの量的な蓄積とそのときのそのものを取りまく条件によって決まる。大きなことから小さなことまで、世界の生成発展のすべては、このような量から質への転化によって行われている。

さちが奪われ資本として蓄積される世界のあり方は、人のあり方ではない。富めるものの世界とやせ細るものの世界に二分された世界のあり方もまた人の世ではない。働く輝きが資本によって覆われた今日の世界は必ず転換せざるを得ない。働くことの輝きは世界の輝きそのものであり、世界の意味である。これが覆われた世界は必ず転換される。

内因論

この現実を変えたい。個人としても世のあり方としても、足を地につけてしっかり働きさちを受けとり幸いになる、このように転換したい。それは可能か。そんな力はどこのあるのか。このとき大切なことは、手だては確かにわれわれの手の内にあることを知ることである。

ものはすべて内(うち)からの力によって動き、生成し、発展し、成長する。結局は内からの力による以外に何事も解決しない。ものが置かれた世界との関係を内からの力で変革する。どれだけ内部の要因が熟し、内部の力が育っているかがすべてを決める。これが理学の立場である。

この理学のものの見方・考え方の基本を「内因論」と名づける。つまり内因論とは、すべてのものは置かれた状況に対応して、それ自身の内(うち)の要因によって展開し、それ以外ではあり得ない、という立場である。そして、であるならば、われわれ自身の内のちからを第一にして、何ごとにも取り組もう、とする基本的な態度である。

これは単純なことであり、誰もが否定しがたい。しかし内因論を、ものの見方や考え方、人間の生き方、そして組織のあり方にまで一貫させるには、目的意識的な努力が不可欠である。求道の心を失わず、たゆまず努力を積み、人生における無限の向上をめざすもののみが内因論に徹することができる。

理学は、固有の言葉・日本語にこめられた智慧を掘り起こし、現代の協同労働の実践によって豊かにし、次代に引き継ごうとする。それはまた、時代の表面的なあり方とは違って、現代という時代が根底において日本語に求めていることである。この営みそのもの、これが『ことわりの学・理学』である。理学は、根本において人がいかに生きるかの智慧に他ならない。生きるための智慧の結晶であり、すべての人生と学問の土台である。したがってそれは、近代の「学」のように「学」に自己目的化された「学のための学」ではなく、「生きるうえでの学」である。われわれは内因論を基本的な態度として堅持し、この問題に取り組む。

「もの」がすべての基本である。この世界の他に別の世界はない。すべては、われわれが存在するこの世界のなかで解決しなければならない。「もの」は個別の人間の個々のはからいをこえて存在する。ものはすべてが互いに関連し何一つとして孤立するものはない。すべては関連しあって一つである。そしてものは、生き生きとその内からの力で生成し展開し発展する。この人間の世界もまた内部からの力で展開する以外にあり得ない。

内因論は世界観であると同時に、われわれの人生観でもある。われわれの考え方であり、生き方である。

内発的発展論

人間社会をとらえる学問としての内因論は「内発的発展論」といわれる。さまざまの考え方がある。そのひとつは鶴見和子によって提起された(その過程は『日本を開く』鶴見和子著、1997、岩波書店、第一章「内発的発展論の視点から日本を開く≠ニいうことを考える」に詳しい)。これは現存する内発的発展論の一つの典型である。内発的発展論は、全ての社会が一本の道を歩むという考え方に対し、道が多数あるという考えるところから出発する。内発的発展論は、人間の全人的発展を究極の目標として想定し、外因による他律的発展を否定する。

これは、社会の展開を内因論で考えようとする見地の典型である。理学は、西洋近代資本主義にならう道に反対して内部からの発展と展開を掲げるこのような内発的発展論を支持する。しかし同時に、三つの課題を指摘する。

第一、
「内発的発展論」は、いわゆる近代化は「西洋における内発的発展」のひとつの型であり、その理論化された内容は西洋自身の内発的発展論であって、それは、非西洋の発展の見本とはならないと考えている。しかし、西洋の近代化もまた、資本主義によって強制されたものではないのか。フランス革命は圧倒的なイギリス資本主義に対抗する必要から遂行されたのではないか。この観点がなく、結果、西洋近代を相対化する普遍性には達していない。「道が多数ある」としてもそれを貫く資本主義を批判しうるより深い立場には至っていない。
第二、
実際の内発的発展論にもとずく社会の建設は現在までのところすべて西洋近代資本主義に敗北している。中国革命の「自力更生路線」やキューバの社会建設、ユーゴスラビアの自主管理社会主義は、すべて資本主義市場経済にのみこまれた。
第三、
開発独裁型のアジア諸国の近代化は日本の明治革命以来すべて西洋近代に範をとり独裁権力のもとで西欧近代資本主義を実現しようとした。近代資本主義が生み出した貧困と隷属を、自らが西欧近代資本主義に転化することで抜けだそうとしてきた。結局「道が多数ある」といっても「開発独裁」しか道は現実化しなかった。開発独裁は内部の矛盾を深め、それに対する反対は一貫して続いてきた。が、内発的発展論もまた、「開発独裁」を批判する。しかし、その反対運動は「反」西洋近代を超えていないために「打ち壊し運動」を本質的に克服し得てはいない。

このような問題に対して解決の活路を見いだすことは、考え方から生き方から社会的な実践までのすべにわたり、西洋近代を相対化する本質的に新しいより深い普遍性を獲得しなければ不可能である。理学はこのような課題を念頭におきながら、土台の部分、考え方の基本を建設するために目前の荒れ地を耕すことからはじめる。

2001年5月7日の『日本経済新聞』「ひとニュース」欄で「回生いよいよ輝く」と題して鶴見和子氏の近況が取り上げられた。副見出しに「77歳のとき、脳卒中で倒れ半身麻まひに/第二の人生感じ、歌がほとばっしった/理屈だけだった学問に実感がもてる」とあるように、1995年12月24日に倒れ、一時は「もう歩けない」といわれたがよき医者にめぐりあい、つえがあれば歩けるようになった。

    私、今ね、倒れてよかった、と思ってます。あのまま走り続けていたら、囚(とら)われ人だった。つまり社会学の一つのパラダイム(枠組み)に縛られもがいてた。今まで言っていたことが間違ってたというのではなく、その意味が実感として分かつてきたんです。一番大きいのは、自然と人間との関係の問題です。それはね、水俣病の患者さんたちから教えていただいた。

    …(略)…

    人間は自然の一部だから、自然を破壊すれば人間自身を、人間の魂も共同体も家族も全部破壊してしまう。それを『内発的発展論』の核にしようと思っていたんですけど、それは理屈だった。だから私と水俣病の患者さんたちの間にはすき間風がしよっちゆう吹いていた。私は理屈でむこうのことを受け取る。むこうは自分の実感としてしゃべってる。ところが自分が半身不随の身体になってはじめて、いくらか、あの人たちとつながり、分かるようになったという感じなんですね。 「片身麻痺(まひ)の我とはなりて水俣の痛苦をわずか身に引き受くる」という歌を作ったんですけど。そこから自分の理屈として言っていた内発的発展論をもうちよっと深めたいと思っています。

このとき83歳の鶴見氏の今後の深まりに期待する。このような人生の転回自身、鶴見和子という知性が内因論で生きてきたがゆえに可能であった。それとともに、ここからわれわれ『ことわりの学』自身の課題もまた明らかになる。

鶴見氏は「それは理屈だった」という。しかし「理屈」であったから「すき間風がしよっちゆう吹いていた」のだろうか。「理屈」であることが問題の本質ではなく、水俣に屆かない「理屈」であることが問題なのではないか。屆く理屈の言葉、響きあう理屈の言葉は可能なはずだ。その試みを放棄して「理屈」から「実感」へ回帰するだけなら、それは九鬼周造の挫折と同じである。「すき間風」のふく「理屈」から、言葉が水俣とつながる「ことわり」へ、そのための基礎作業、それがこの『ことわりの学』の課題のひとつである。

内因論を貫け

人間が困難に直面したとき、結局は内からの力による以外にこれを乗り越えることはできず、何事をも解決しえない。これはまったく正しいし、人間や組織の基本的な態度でなければならない。世の中の内的発展を重視しなかった近代日本国の今日の閉塞の根源が、国家社会の内因論の放棄であるというのも正しい。

ものの内と外は本当に切り離されているのか。内部の要因といってもそれは外部からの働きかけではじめて動き始めるのではないのか。ものが動き発展する、つまりはこの世界が生成流転するしくはまだすべてはのべ切れていない。うちの力を引き出すのは、そのものがおかれた環境からの働きかけだ。うちの力に頼りつつ、おかれた環境にあるもののはたらきかけを聴きとらねばならない。

内因論はいわゆる自然成長主義ではない。自然に内から発展するのではない。外からの働きかけとそれに呼応した内の力、これが内因論である。しかし、その上で決定的な要因は内の力である。単なる心構えとしての内因論ではなく、世と人間のあり方を踏まえた人生観であり、世界観であり、方法論である。

これからの時代を生きることは、内因論を深めることそのものである。

ことわりの前に謙虚たれ

内因論をしっかりもって手放さず「もののことをわる」、これが人間が生きることである。わられたことの内容、それが「ことわり」である。「ことをわる」のは人間の命のはたらきである。そのとき人間のはからいを超えて真理が開示される。それは人間の勝手な思いこみとは無縁である。人間が、わられた内容としてのことわりを聞きとることができるためには、長い困難な求道のときが必要である。

ものが語らい世界をのべる。人は働きの場でそれを聞きとり、生きる。その内容、それが学問と人生と協働の土台である。

人生のすべてにおいて、すべてを聞き取りすべてを見ることをつねに心がけよ。そして決断し、行動せよ。真に知るのは自らの決断と実践のなかである。人間は必ずこのいのちの真実を知ることができる。

第一、
ことわりの前に謙虚たれ。この世界はことわり(理)のはたらき(働き)として存在している。近代科学が明らかにしたことはこの理のほんの一部、ほんの表面に過ぎない。理のまことの内容ははるかに深くまたその有りようは思いもよらない。理の働きそのものがこの世界である。この理の働きとしていのちがあり、いのちの輝きがある。人間があり、向上がある。人の世があり、世の変転がある。人間はこの世界から出現し、いのちとしてこの世界の理にしたがっている。そのとき人間はこの世界の理の一端を知り、そして世界の造りをかえようとする。そしてそれもまた理の働きの内のことである。 人生はことわりの内にある。人間は謙虚でなければならない。
第二、
無限向上、これが人生の根本である。世界は目的を持って存在しているのかいないのか。人生には生きるに足る意義があるのかないのか。世界はそれに一切答えることなく、目的や意義などは賢しらな人間の思いにこみ過ぎないというかのように、ただたがいに響きあい輝いている。響きあう形式はまさに千差万別種々様々である。いのちもまた、この響きあいのなかで輝いている。世界が理において存在し、人間はその世界に存在する。理において生かされ、理において生きている。それが生きているという事実のありようである。人間は自らを生かす理を知り、理とともに生きようとする。それが人間の本性であり、その人生を実現するしようとすることが無限の向上である。無限向上をめざすとき、人間は真に自由であり解放される。このような人生を生ききり、ものから生まれてものに還る、それが人生である。
第三、
人間のいのちの響きと輝きの実際、それは協同労働による生産である。いのちとは、響きあいのひとつの形式そのものである。いのちを支える響きあいは、ものの環流であり、ものの交流と人間同士の交流そのもの、協同の労働による生産そのものである。ものの環流の結節点こそいのちである。生産は人間の協同の働きである。生産、それは世界の輝きそのものであり、世界の輝きと響きあいの人間における形式である。人間は、いのちの輝きと響きあいの形式そのものとして、協同の労働によって生きてきた。協同の労働は協働体においてなされる。協働体は言葉によって組織され、言葉は逆に人間をして考えるいのちとした。協働体は一定の段階で社会となった。
第四、
だが、今日、この人間の生産の輝きは覆われている。人間の社会は、社会として成立したとき、それは階級社会として成立した。実際に世界を耕し切り拓く人間の価値が貶められ、働かない人間が支配する階級社会として成立した。人間の協同労働がこの社会を生みだした。これは矛盾であった。この矛盾は、長い歴史から見れば人をして人間として自覚させるために必要であった。そして階級社会は新たな段階に進めば進むほど、協同労働による生産の輝きは覆われていった。人間の長い歴史のなかで、今ほど輝きが失われているときはない。
第五、
世界の輝きを取りもどすために働く、ここに無限向上の人生がある。自己の周りの世界でのささやかな行い、これが土台である。そこからはじめ、なしうることに最善をつくす、これが無限向上である。言葉の輝きを取り戻すための基礎作業もまたそのような仕事の一つである。今、世界のの輝きは覆われ尽くしている。直接の生産者、労働する人間は貶められている。人間の社会を支えてきたのは協同して働く人間であった。働くことはいのちの輝きそのものであった。これがいま覆われ尽くしている。輝きを再び回復しなければならない。そのために働くことこそが、今、人間の無限向上である。あらゆる分野における人間の活動は、輝きを取り戻すために働くとき、深い意義をもち、その人生はそこで輝きを取り戻す。われわれは、世界の輝きをとりもどすために、今ひとときの人生を生きる。

われわれはこのように生きる。固有性が輝いて共に生きる世がなるように、この世界で営々と荒れ地をきり拓き、耕し続けよう。自分を空しくして働こう。私個人の存在よりも、縁ある人々の生きるこの世界が大切である。このように考えるとき、悩みはない。

にもかかわらずわれわれの人生には困難がつきまとう。困難や逆境それ自身は問題ではない。問題なのは、その困難と逆境に負けず、これをはねのけて進む意志が問題なのだ。すべては己に打ち勝ちことである。すべてのカギは自分自身にある。他人が問題なのではなく、自分自身が問題なのである。

来たれ。ともに考え、意義ある人生をともに生きよう。


Aozora Gakuen