資本主義は「市場主義」や「大域主義」という普遍性の名の下に、働いた人からさちを奪い資本を増殖させる。さちを奪い資本を増殖させる場所、それが市場である。市場のやりとりを善とする世界に対して、さちを奪われる側の世界は、今日もさちを受けとるいとなみ自体に価値を見いだす。理学もまたさちを受けとるいとなみこそが人間のいとなみであり、人生の意味であると考える。その営みそのものが世の前に出なければならないし、今日の世界のあり方は必ずそのように転換されると考える。
その根拠は何か。
この転換の可能性はどのように現実になるのか。手だてはあるのか。
手だてを編み出すためのその基本は何か。それは、世界、つまり自然界と人間社会のすべてはひとつのものとして生成発展し、大宇宙銀河の果てから人の世を経て極微の世界まで、すべてはひとつのものである、という事実である。
人がともに協同して働き、もののことをわり、世界からさちを受けとり生きる。一人一人にとって、このいとなみの場所はうちの世界であり協働体である。しかし人間が世界からさちを受けとる働きは、局所的な孤立したいとなみではない。その逆に、すべてのいとなみは世界のすべてとつながっている。
協同のはたらき自体が、その技術と道具を世界に負っている。さちとなった「もの」は実際に世界のなかに交流する。さちは協働の場から奪われ資本となる。資本は世界を駆けめぐる。すべての協働労働は世界と結びつく。このゆえにまた局所的な働きは大域の営みの部分であり、世界の一部としての局所である。
世界の部分としての協働労働は、その労働を担う人間を「発見させた」。資本主義は逆に人間という考え方を生みだす。そして、そこからすべてはひとつのものであることが発見される。
さちが奪われ資本として蓄積される世界のあり方は、人のあり方ではない。富めるものの世界とやせ細るものの世界に二分された世界のあり方もまた人の世ではない。働く輝きが資本によって覆われた今日の世界は必ず転換せざるを得ない。働くことの輝きは世界の輝きそのものであり、世界の意味である。これが覆われた世界は必ず転換される。
この現実を変えたい。個人としても世のあり方としても、足を地につけてしっかり働きさちを受けとり幸いになる、このように転換したい。それは可能か。そんな力はどこのあるのか。このとき大切なことは、手だては確かにわれわれの手の内にあることを知ることである。
ものはすべて内(うち)からの力によって動き、生成し、発展し、成長する。結局は内からの力による以外に何事も解決しない。ものが置かれた世界との関係を内からの力で変革する。どれだけ内部の要因が熟し、内部の力が育っているかがすべてを決める。これが理学の立場である。
この理学のものの見方・考え方の基本を「内因論」と名づける。つまり内因論とは、すべてのものは置かれた状況に対応して、それ自身の内(うち)の要因によって展開し、それ以外ではあり得ない、という立場である。そして、であるならば、われわれ自身の内のちからを第一にして、何ごとにも取り組もう、とする基本的な態度である。
これは単純なことであり、誰もが否定しがたい。しかし内因論を、ものの見方や考え方、人間の生き方、そして組織のあり方にまで一貫させるには、目的意識的な努力が不可欠である。求道の心を失わず、たゆまず努力を積み、人生における無限の向上をめざすもののみが内因論に徹することができる。
理学は、固有の言葉・日本語にこめられた智慧を掘り起こし、現代の協同労働の実践によって豊かにし、次代に引き継ごうとする。それはまた、時代の表面的なあり方とは違って、現代という時代が根底において日本語に求めていることである。この営みそのもの、これが『ことわりの学・理学』である。理学は、根本において人がいかに生きるかの智慧に他ならない。生きるための智慧の結晶であり、すべての人生と学問の土台である。したがってそれは、近代の「学」のように「学」に自己目的化された「学のための学」ではなく、「生きるうえでの学」である。われわれは内因論を基本的な態度として堅持し、この問題に取り組む。
「もの」がすべての基本である。この世界の他に別の世界はない。すべては、われわれが存在するこの世界のなかで解決しなければならない。「もの」は個別の人間の個々のはからいをこえて存在する。ものはすべてが互いに関連し何一つとして孤立するものはない。すべては関連しあって一つである。そしてものは、生き生きとその内からの力で生成し展開し発展する。この人間の世界もまた内部からの力で展開する以外にあり得ない。
内因論は世界観であると同時に、われわれの人生観でもある。われわれの考え方であり、生き方である。
人間社会をとらえる学問としての内因論は「内発的発展論」といわれる。さまざまの考え方がある。そのひとつは鶴見和子によって提起された(その過程は『日本を開く』鶴見和子著、1997、岩波書店、第一章「内発的発展論の視点から日本を開く≠ニいうことを考える」に詳しい)。これは現存する内発的発展論の一つの典型である。内発的発展論は、全ての社会が一本の道を歩むという考え方に対し、道が多数あるという考えるところから出発する。内発的発展論は、人間の全人的発展を究極の目標として想定し、外因による他律的発展を否定する。
これは、社会の展開を内因論で考えようとする見地の典型である。理学は、西洋近代資本主義にならう道に反対して内部からの発展と展開を掲げるこのような内発的発展論を支持する。しかし同時に、三つの課題を指摘する。
このような問題に対して解決の活路を見いだすことは、考え方から生き方から社会的な実践までのすべにわたり、西洋近代を相対化する本質的に新しいより深い普遍性を獲得しなければ不可能である。理学はこのような課題を念頭におきながら、土台の部分、考え方の基本を建設するために目前の荒れ地を耕すことからはじめる。
2001年5月7日の『日本経済新聞』「ひとニュース」欄で「回生いよいよ輝く」と題して鶴見和子氏の近況が取り上げられた。副見出しに「77歳のとき、脳卒中で倒れ半身麻まひに/第二の人生感じ、歌がほとばっしった/理屈だけだった学問に実感がもてる」とあるように、1995年12月24日に倒れ、一時は「もう歩けない」といわれたがよき医者にめぐりあい、つえがあれば歩けるようになった。
私、今ね、倒れてよかった、と思ってます。あのまま走り続けていたら、囚(とら)われ人だった。つまり社会学の一つのパラダイム(枠組み)に縛られもがいてた。今まで言っていたことが間違ってたというのではなく、その意味が実感として分かつてきたんです。一番大きいのは、自然と人間との関係の問題です。それはね、水俣病の患者さんたちから教えていただいた。
…(略)…
人間は自然の一部だから、自然を破壊すれば人間自身を、人間の魂も共同体も家族も全部破壊してしまう。それを『内発的発展論』の核にしようと思っていたんですけど、それは理屈だった。だから私と水俣病の患者さんたちの間にはすき間風がしよっちゆう吹いていた。私は理屈でむこうのことを受け取る。むこうは自分の実感としてしゃべってる。ところが自分が半身不随の身体になってはじめて、いくらか、あの人たちとつながり、分かるようになったという感じなんですね。 「片身麻痺(まひ)の我とはなりて水俣の痛苦をわずか身に引き受くる」という歌を作ったんですけど。そこから自分の理屈として言っていた内発的発展論をもうちよっと深めたいと思っています。
このとき83歳の鶴見氏の今後の深まりに期待する。このような人生の転回自身、鶴見和子という知性が内因論で生きてきたがゆえに可能であった。それとともに、ここからわれわれ『ことわりの学』自身の課題もまた明らかになる。
鶴見氏は「それは理屈だった」という。しかし「理屈」であったから「すき間風がしよっちゆう吹いていた」のだろうか。「理屈」であることが問題の本質ではなく、水俣に屆かない「理屈」であることが問題なのではないか。屆く理屈の言葉、響きあう理屈の言葉は可能なはずだ。その試みを放棄して「理屈」から「実感」へ回帰するだけなら、それは九鬼周造の挫折と同じである。「すき間風」のふく「理屈」から、言葉が水俣とつながる「ことわり」へ、そのための基礎作業、それがこの『ことわりの学』の課題のひとつである。
人間が困難に直面したとき、結局は内からの力による以外にこれを乗り越えることはできず、何事をも解決しえない。これはまったく正しいし、人間や組織の基本的な態度でなければならない。世の中の内的発展を重視しなかった近代日本国の今日の閉塞の根源が、国家社会の内因論の放棄であるというのも正しい。
ものの内と外は本当に切り離されているのか。内部の要因といってもそれは外部からの働きかけではじめて動き始めるのではないのか。ものが動き発展する、つまりはこの世界が生成流転するしくはまだすべてはのべ切れていない。うちの力を引き出すのは、そのものがおかれた環境からの働きかけだ。うちの力に頼りつつ、おかれた環境にあるもののはたらきかけを聴きとらねばならない。
内因論はいわゆる自然成長主義ではない。自然に内から発展するのではない。外からの働きかけとそれに呼応した内の力、これが内因論である。しかし、その上で決定的な要因は内の力である。単なる心構えとしての内因論ではなく、世と人間のあり方を踏まえた人生観であり、世界観であり、方法論である。
これからの時代を生きることは、内因論を深めることそのものである。
内因論をしっかりもって手放さず「もののことをわる」、これが人間が生きることである。わられたことの内容、それが「ことわり」である。「ことをわる」のは人間の命のはたらきである。そのとき人間のはからいを超えて真理が開示される。それは人間の勝手な思いこみとは無縁である。人間が、わられた内容としてのことわりを聞きとることができるためには、長い困難な求道のときが必要である。
ものが語らい世界をのべる。人は働きの場でそれを聞きとり、生きる。その内容、それが学問と人生と協働の土台である。
人生のすべてにおいて、すべてを聞き取りすべてを見ることをつねに心がけよ。そして決断し、行動せよ。真に知るのは自らの決断と実践のなかである。人間は必ずこのいのちの真実を知ることができる。
われわれはこのように生きる。固有性が輝いて共に生きる世がなるように、この世界で営々と荒れ地をきり拓き、耕し続けよう。自分を空しくして働こう。私個人の存在よりも、縁ある人々の生きるこの世界が大切である。このように考えるとき、悩みはない。
にもかかわらずわれわれの人生には困難がつきまとう。困難や逆境それ自身は問題ではない。問題なのは、その困難と逆境に負けず、これをはねのけて進む意志が問題なのだ。すべては己に打ち勝ちことである。すべてのカギは自分自身にある。他人が問題なのではなく、自分自身が問題なのである。
来たれ。ともに考え、意義ある人生をともに生きよう。