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資本主義とその向こう

いのちと幸

人はいのちとして働き、ものと語らい、ものから生きる糧(かて)としての「さち」を受けとる。「海の幸」「山の幸」の「さち」であり、世界が人に贈るもののことである。「さち」もまた三つの側面をもつ。

第一、
人はものと係わり、もののことをわり、世界から生きる糧を得る。それが人のいのちのはたらきである。糧を得るそのちからが「さち」である。人々は心を一つにして一心不乱に働き、さちの力をその身に得る。田畑、山野、海原、工場、商店、学校等のあらゆる場において、耕す。そのとき世界は人々に豊かなものを贈り届ける。さちは何よりちからであり、働きである。
第二、
「さち」は、そのちからによって得られた糧そのものでもある。海の幸、山の幸、自然のめぐみ、このような直接贈られたものも「さち」なら、すべての作られたものもまた「さち」である。人がことをわり、そして贈られたすべてのものが「さち」である。命そのものとしてのたま(魂)が、見えないところにこもり、新しいものが現れるように、蚕が蛹から孵るように、稲穂が実るように、それまではなかったものが現れる。耕すことによっていのちがこもり、はじめてさちは「なる」。
第三、
「さち」を受けとる働き、それが人が世界に生きてあることの姿であり、世界の輝き、世界の響きあいそのものである。人はこのさちを、協同して働くことによって受けとる。さちを得て生きること、これが人がこの世界で生きることそのものであり、その実現は人の人たるゆえんの実現である。さちを受けとるとき、人は幸いである。それが人のいのちの輝きである。「幸い」とは、ものが成るはたらきが頂点に達し、内から外に形を開き、いのちのはたらきが盛んな様そのものである。

働くことは耕すことである。耕すのはなにも田や畑だけではない。職人がたくみに工芸するのも、旋盤工が職人技を見せるのも、自動制御の流れ作業のなかにおいても、やはりそこには耕す作業がある。人に教える仕事もまた、耕すことである。耕せば耕すだけ、必ずさちは人のものとなる。働くよろこびであり、生き甲斐である。さちはこのように本来、人に幸いをもたらす。

資本主義

しかしながら、今日の世界の事実は、人は働いても「さち」を自らの手にすることはできず、働くことと人の「幸い」は切り離されている。そうではないか。人が得た「さち」はそのまま人のものになるのではない。今日の世界は、人が働いて得る「さち」を奪い、同時に豊かにさちを生みだす環境を破壊する。奪われたさちは集められ富となる。富を得るものはますます富み、奪われるものはますます奪われ、奪いつくされる。そうすることでますます富を偏在させる。

人間の働く力は、人間が生まれ出たものの世界から人間に贈られた力である。この力が今日の社会では労働力という一つの商品になっている。

その商品としての労働力は今日どのような構造のなかにおかれているのか。このような問題を最初に考え、人間が働くことのうちにある搾取の秘密を明らかにしたのは、カール・マルクスである。それがマルクスの「労働価値説」と労働過程論にもとづく搾取論である。今日の資本主義の世界ではすべてが商品であり、商品でないものはない。労働力も商品である。この商品は、働くものが今日の社会で働らくものとしての自己と家族が命をつなげるだけの貨幣と交換される。労働力がものから受けとるさち、つまり労働が生みだす価値はそれよりもはるかに大きいのにも係わらず、かろうじて生きるだけの対価しか得ることはできない。それを超えるものはこの労働力を買い入れた資本家のものとなる。

富は再び生産を組織するために使われるとき「資本」となる。

第一、
さちは人から奪われ別に蓄えられ「資本」として再び働きの場に戻る。しかしこのとき、その働きは最早人の働きではなく、さちを奪うための生産組織のなかに組み込まれた働きである。働く人にはその人が生きるだけのものが「貨幣」として与えられる。それよりもはるかに豊かなさちを生みだしたのに、それは人を豊かにしない。資本主義のもとにあるのは「さち」を受けとる力としての「労働力」である。「労働力」は売り買いされる。その人がかろうじて生きるだけの価格でなされる。人は、それよりはるかに豊かな「さち」を受けとるのにそれは資本に横取りされる。
第二、
こうして、さちを人から奪い、「資本」を増やすことを第一とする制度、それが資本主義である。資本主義は協同して働く人を個別に切り離す。切り離して「さち」を奪う。本来、協同してははたらきさちを受けとることは世界の輝きであり、人が人間であるあかしであった。しかし、資本主義のもとでこの輝きは覆われている。職があればあったで働くことは苦しみであり、職を失えば失ったでたちまち路頭に迷う。これが現代の労働の真実の姿である。
第三、
今日世界は、さちを奪い資本を増殖させますます肥え太る世界と、さちを奪われますますやせ細る世界とに、完全に二分された。さちを奪い資本として蓄えることを実現する基礎は、遠く新石器革命にさかのぼる。そのとき、さちを奪い操って増やす側の人間と、さちを生みだす働きに従いながら、それを奪われる側の人間との分裂がはじまった。今日の世界はその行きつくはての世界である。

このような世のあり方を資本主義という。

資本主義のもとにあるのは「さち」を受けとる力としての「労働力」である。「労働力」は売り買いされる。その人がかろうじて生きるだけの価格でなされる。人は、それよりはるかに豊かな「さち」を受けとるのにそれは資本に横取りされる。こうして、さちを人から奪い、「資本」を増やすことを第一とする制度、それが資本主義である。

近代資本主義は、すべてが金の社会であり、人間の労働力をも商品とした社会である。その帰結として人間社会と人間精神は徹底して荒廃した。人間の社会は新石器革命以来段階を追って発展してきたが、その段階は商品生産がどこまで広がったかという指標によって特徴付けられる。資本主義制度は商品をもととする社会としては最後の段階にある。なぜなら商品生産がすべてを貫徹し労働力自身を商品としたことによって、もはやこれ以上の広がりはないからである。

社会主義陣営の崩壊

今日、資本主義はその本質としてますます人間を動物に退化させ汚濁と腐敗にまみれている。このような資本主義に対して、「真に平等で万人が人間としての本質を実現していくことのできる新しい社会」に向かって一歩前へ進んだのが、ロシア十月社会主義革命であった。全世界の搾取されているプロレタリアート、抑圧されている民族の未来を確実にきりひらいた。だが二十世紀後半に至り、ロシア革命や中国革命は崩壊した。社会主義陣営は崩壊してしまったが、人間の尊厳という人間に固有の本質があるかぎり、人類史がその歩みを止めることはない。なぜロシア十月社会主義革命がかけた新しい段階への橋は崩壊したのか。それは人類史にいかなる問題を提起しているのか。

資本主義はしぶとかった。資本主義の思想と闘うのに、レーニンの残した資産だけでは、不十分であった。しかしそれは当然である。レーニンにすべてを準備することなどできない。社会主義政権の修正主義による内部から解体と闘うことは、レーニンの時代の課題ではなかった。したがって、歴史の課題という観点からみれば、たとえレーニンの方法が、修正ブルジョア思想によって解体された結果としての現代の修正主義と闘うに不十分であったとしても、原則を失わずにレーニンを継承し乗りこえることは可能であったし、またなさねばならぬことであった。だがそれはなされず、結果として、いわゆる社会主義陣営はすべからく崩壊した。

長い人類の歴史のなかで、階級社会から社会主義を経て共産主義へ至る転換ほど根本的なものはない。それは新石器革命と対になった根元的な革命である。このような転換期は、すべての人間に、それぞれの条件のなかで、ものごとを根源的に考え実践することを要求する。

この転換は、これまでの生物期のように、偶然による試行錯誤のなかから淘汰され道を見出すという方法でなされたり、人間期のように生産力の発展が意識するとしないにかかわらず人間の歴史発展の原動力であるという方法でなされるのではない。

われわれはそれでも、人間の目的意識的な営みを信頼する。この目的意識性は、マルクスによって現実のものとされた。マルクスが到達した段階を清算するのではなく、引き継ぎ超えていかなければならない。人間は社会的人間として自らを形成したが、その内実は「階級社会的人間=生産関係によって組織される人間」であった。ここから出発し、そして、「階級社会的人間」をのりこえなければならない。これは言葉によって言葉を越えた人間の新しい協働の世界、資本主義の暴力を制御する智慧をもった新しい人間の関係とそれを可能にする場を生みだすことと同値である。

新しい歴史の始まり

客観的事実として、人間は、生物としての人から発展し、技術の進歩を土台に生産力を発展させ社会を変革し思想を深め、ついに、マルクス主義を獲得したことによって、世界に対する目的意識性と能動性を最終的に生みだした。人類ははじめて、「客観的歴史」の法則と目的意識的活動を統一した人生を生きることが可能になった。人類史の新しい段階、それを共産主義と言うならば、共産主義を生みだす可能性が準備された。現代の共産主義思想とその実践、歴史に対する目的意識性、これは近代西欧文明のなかからそれを乗りこえるものとして生まれた。『今までの哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけであった。だがそうではなくて、もっとも大切なことは世界を変革することである』(マルクス『フォイエルバッハについてのテーゼ』1845年)。このマルクスの言葉が今ほど輝いている時は、実は他にない。

この可能性は二十世紀にロシア革命、中国革命として現実性に転化した。しかし、その試みは少なくともいったんは挫折した。しかしその試みが終わったのではない。理学は、学の内的発展として、二十世紀の経験をわれわれの立場から掘りさげる。そして、新たな時代の礎を築くために、今なしうることをする。

第一、
西洋近代、とりわけその土台である産業革命は、根本的にギリシア後期のプラトン以来の考え方を最後まで進めることで達成され、その世界への拡大が近代であった。しかし今やそれは地球という有限な世界のなかで限界に至っている。資本の増大を第一にする拡大の運動は、地球の破滅要因となり、これを制御するとことはできていない。
第二、
人間と世界の存在に意味は何か。資本のためなのか。そんなことはあり得ない。さちを受けとる喜びこそ、意味の有無を超えた輝きである。西洋の「学」はギリシア時代に労働を奴隷に任せた貴族の「知」として成立した。生きる現実からのからの遊離は、キリストの神の前の真理として「真理」それ自身を自己目的化することによって正当化された。この「労働」と「知」の分裂は形を変えて生き続けている。この知はこの喜びを知らない。
第三、
理学は、働きの場のさちを受けとる喜びこそ、固有の言葉の生まれるところであり、ことわりの世界そのものであり、働くものが固有性に立脚してたがいに分かりあえる土台であると考える。理学はそうすることで、非西洋の固有性を深く耕して徹底し、固有性を突き抜けた生きた新しい段階の普遍性をめざす。言葉のなかに蓄えられてきた智慧は、それが直接の生産を土台にする生きた人間の智慧であるかぎり、十分に掘り起こされたならば必ず通じあえる。人間はわかりあえる。
第四、
理学は、マルクスによって獲得された、世界に対する目的意識性と能動性を、西洋自体にも向ける。西欧文明が押しつけた疑似の普遍性ではなく、固有性が解放された人間の生き生きとした普遍性は可能である。固有性が互いを認めあって共存するところ(場)としての普遍性は可能である。
第五、
歴史が求める可能性は必ず現実に転化することができる。しかし、その途はまだ明かでない。可能性を現実性に転化するための実践的方途は、開かれた問題のままである。現在を転換するこの途を見いだしていくには、膨大な努力の蓄積と、現実のちからが不可欠である。

理学は、近代日本語の黎明期に「理学」をとろうとした先人のこころざしにある異なる近代の可能性を継承し、日本語の理に立脚して考えた少数者の営みを深める。人間と世界をあらためて固有の言葉としての日本語でとらえ直すことにまでたち返る。今日だれの目にも明らかなこの現代の荒廃の中から再び立ちあがって、考え生きていくうえでの土台を築く。


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