核汚染の問題とこれに対する課題には、日本列島弧にすむわれわれ固有の問題と、さらにそれがおかれた世界大の普遍的な問題がある。問題や課題は普遍性をもつ。しかし同時に問題や課題はつねに現実の関係の中に存在する。つまりつねに個別性と固有性をもっている。
われわれはまずこの固有の問題を深く考えねばならない。固有性は言葉や風土や歴史をもった人の集まりの具体的なあり方そのものである。それを文化という。固有性を離れたところからの考察は、いかにまじめになされたとしても、力をもたない根なし草になる。固有の問題として、日本列島弧の歴史構造を確認してゆく。
それはつまるところ、いわゆる天皇制の構造の解明である。天皇制が近代官僚制と結びつき、その体制があの十五年戦争をはさんで存続した。その近代官僚制の行きついた先が東京電力核惨事であった。これを乗りこえる契機とその方法があるのかないのか。固有性のうちに固有の問題を乗りこえる力を見いだすことはできるのか。これは今日の世界で普遍的な問題の日本における固有の形である。
現代世界の普遍の問題とは何か。それはつまり、歴史の現段階の課題は何かという問題である。八百年続いた経済拡大を第一とする資本主義は、もはや持続することができず、終焉に向かいつつある。これが客観的な事実である。資本主義は、その回りに周辺を置き、そこから収奪する。この拡大再生産という拡大循環を維持しなければ破綻する。しかし現代、もはや資本主義が周辺となし得るのは、その内部の架空空間のみである。拡大を旨とする経済は終焉が不可避である。
本来、人にとって、経済は手段であり方法であった。それが目的となったのはこの八百年のことであって、この八百年は人の世のあり方として過渡的なものである。これがゆきづまっている。歴史は転換を求めている。転換の方向を一言でいえば、経済第一の世から人第一の世への転換である。
人はどのようにこの転換を現実にしてゆくのか、これが普遍の問題である。その方法を見いだし、それを担う人を育てる。これが現下の歴史の課題である。
課題は歴史的な固有性に規定されて個別性をもって現れる。しかし、経済から人への大転換という転換の本質と、その方法を具体的に見いだすという問題そのものは普遍である。
ここに歴史の課題がある。これを自らの課題とするものは、まず何より、互いの固有性を認めあい、ともに生きる場を生みださなければならない。この場それ自体が新たな普遍であり、この普遍は、西洋が作り出した「普遍」とは異なり、固有性を他方に押しつけることはしない。
西洋の偽りの普遍とは異なる普遍は可能なのか。固有性を認めあう場としての普遍性は、現実に存在しうるのか。当面する過渡期の課題である。このような場に蓄積される力が、新たな政治力とその組織方法を生みだす。世の新しい形は、これまでもこのようにして生みだされてきた。
しかしまた、歴史の課題に耐えきれず、あるいは押しつぶされ霧散して歴史から消えた固有性は、かず知れない。東電核惨事から教訓を引き出すことなく核発電所の再稼働をすすめるなら、日本列島弧の人の歴史は終わるかも知れない。そのような可能性にまで直面していることを確認しなければならない。
人は、言葉によって協同して働くことにおいて人である。人であることの条件とは、言葉とそれにもとづく協同の労働である。
言葉は、まずはそのときの手持ちの言葉で考えなければならない。それが思いの丈を表せていないと感じるとき、そこに新しい言葉をうみだそうとする促しがおこる。このことを心にとめながら、核惨事の中にある今を考え、新しい時代の新しい人の言葉を、古くからの豊かな言葉をもとに生みだす。
経済から人への転換の場において、言葉を拓き耕し、ものとこと、自然と人、物と力を分け離すことなくつかみ、そして語れ。言葉において深く根づく人々こそ、言葉をこえてただ人として、結ばれる。そこに新しい力が生まれる。それだけが新しい時代の深い普遍の礎である。
日本列島弧に世代を継いできたわれわれが、この深い普遍性を担うことができるのかどうか。それは開かれた実践の課題である。そのうえで、われわれは、普遍的な現代の課題を、資本主義の必然的な終焉という現実の問題を通して考える。そして、核惨事の渦中のなかで、この歴史課題を現実に担う人の条件を考えたい。
歴史は、いかに紆余曲折を経ても、その段階において、到達すべき所に到達する。現代についていえば、人原理が息づき、いのちと言葉が輝きをとりもどすときは来る。これを信じている。たとえ、日本語世界そのものは、そのための捨て石になったとしても、経済から人への大転換は、必然である。