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言葉を耕す

   このような理学を述べるためには、その言葉の現在が、つかまれていなければならない。 そのうえでこそ、考えて耕すことができる。

   準備的な作業として『構造日本語定義集』の編纂をはじめた。

   現代日本語に対する違和感は大学生の時代からあった。言葉の意味が自分の存在に響かないことをつねに感じていた。当時はやっていた「能所」とかいて「エクリチュール」とルビを振るような言葉使い言いしれぬ嫌悪感を感じていた。

   このような問題を根本的に考えるために、左派党派の書記として機関誌の文章を書き続けていた時代もある。命をかけた協同の闘いのなかの言葉には、新しい言葉のいのちがあると考えたのだ。しかし数年を経ずしてわかったことは、党派も、さまざまの社会運動も、言葉の現段階に深く規定されているということであった。

   社会的な諸運動と言葉の問題を考え、新しい段階に進むためには、まずこの考える言葉自体を耕さなければならない。

   現代日本語の基本的な構造を定めている言葉と、近代になって作られた漢字語、そしてさらには音訳洋語がそれぞれに乖離し、思想の言葉が日常の言葉と切り離されている。この現状を打破し、せめて考えていくための前提のところまでは、基本的な言葉をつかんでおきたい、これが『構造日本語定義集』をはじめた動機であった。

   本当に言葉が定義できるためには、まとまったものの見方や考え方がなければならない。だがそのような見方考え方自体が言葉なしにはあり得ない。言葉の意味を深めることと、考えそのものを深めることは、相互にすすむ。双方を尊重する人間の基本姿勢というものが定まっていないと、これは難しい。近代日本語は言葉を内から定義するということをほとんどせずにやってきた。

   われわれの『定義集』の定義は言葉の定義として、一般的で広く適用できるように記述されている。理学のなかで改めて必要な言葉の定義を行いながら、考えそのものを深めていく。

第一、
固有の言葉で考えなければ人間は人間たり得ない。

   「固有の言葉」とはその人をして人としている言葉である。人間は協同の労働と言葉によって人間である。その人が人間であることを成立させている言葉、それが固有の言葉である。言葉とは具体的であり、現実的であり、まったく固有である。人間が生きるとは、協同で働き言葉で考え生きることである。であるならば、すべての学もまた、智慧の体系として、固有の言葉で考え語られねばならないし、そうであるとき、そのときにかぎり人間の営みである。
 

第二、
固有の言葉で考えなければ、言葉の限界まで考えることはできない。

   世界の存在は人間の言葉を越える。人間の存在も世界の内の存在として言葉を越える。しかしまたこの事実を人間は言葉でつかむ。言葉のとぎれる端まで言葉で行き、そしてそこを越える。これが人間が生きる事実である。もし固有の言葉で考えなければ、言葉遊びは出来ても、本当に言葉の限界に直面するということはできない。それは人間としての生を生きることはではない。
 

第三、
固有の言葉を耕さなければ、近代の壁を越えることは出来ない。

   近代とは何か。資本主義生産が生み出した世のありようであり、人間が見るものと見られるものに分裂した時代である。世界が分裂しているのではない。資本主義生産における人間の役割が、資本を操り生産手段を占有して富を蓄えるものと、働くしかないものに分裂してる。この分裂に応じて、人間の認識もまた見るものと見られるものに分裂する。この分裂はのりこえなければならない。人間はいつも、時代の壁を越えるとき、協働の場で人間としての土台に立ちかえり、新しい段階を生み出してきた。人間はこのようにして時代を積んできた。人間の歴史は言葉の面からいえば、固有の言葉を耕し深めてきた道程でもある。一人一人の営みが言葉を耕すことにおいて一つの歴史に合わさる。

   現代の閉塞からの活路は、もう一度固有の言葉を耕し始めることによらねば切り開かれない。 日本国のあらゆる文化政策に構造的に組み込まれた愚民政策の土台は、 日本語をその土台から切り離し、言葉の力を弱めることである。 これは事実である。ここからの活路は、もう一度意識的に、言葉の土台を吟味し、考え、この日本語という場を耕すことである。


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