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『理学以前』で、絞り出すように考えたことは、言葉が人を存在が顕わとなった場に立たせる力を、どのように回復するのか、であった。そのために基礎作業として、言葉のうちの最も基本の仕組みを取り出そうとした。
そこで述べたことから末節をそいで再掲する。
理学のはじまりがここにある。
世界のすべては「もの」である。ものほど深く大きいものはない。この単純な事実を土台にする。この世界は「もの」からできている。森羅万象、すべてはものである。これが世界である。まずこれを明確にしよう。この世界は「もの」そのものである。人もまたものの一つの形である。人はこのものを両手で受けとめ、思いをよせ、じっと見、そしてそのもののことを考える。ものに語りかけ、ものの変化を促し、ゆたかな実りをものから受けとる。ものがすべての根本である。
ものは存在し、たがいに響きあっている。これが事実である。世界はそれしかない。そのなかで、人とものとは豊かに交流しあい、語らいあう、これが世界の輝きである。
ものは、いわゆる物質と精神と二つに分ける考え方での物質とは、まったく異なる。このような二分法ではない。
「もの」は実に広く深い。この深く広いものを日本語は「もの」という一つの言葉でとらえる。この意義を吟味し、ここに蓄えられた先人の智慧に注目しよう。
- 第一、
- 「もの」は確かにある。見たり思ったりすることができるものが「もの」である。すべてものは人と係わり、人と係わる一切がものである。ものとは思いをよせる方にあるすべてのものをいう。「もの」を「もの」としてとらえるのは、まず「見る」働き、あるいは「思う」働きである。そして見たものを言葉に切り取り名づける。逆にこの認知の営みが成立するすべてのものが「もの」である。思うことによってものとして切り取られ名づけられてものが成立する。これがものである。
- 第二、
- ものはそれ自体で存在している。人がものに思いをよせ、もののことを考えるのはなぜ可能か。それはそこに、ものが確かにに存在しているからである。それがものである。そのものは、諸々のことが生起する土台にあり、人の力の外にあり、存在をなくすることはできない。ものはもの自身の力で動いている。であるがゆえに、人がものを思うのは、実はものにひきつけられてはじめて起こる。ものは人間をつかむ。ひきつけてはなさない力のある存在である。
- 第三、
- 人もものである。人もまたもののちからで生きる。ものを思い、もののことを考え、ことの内容を聞きとる。それはものが人にはたらきかけることであり、人はものからのはたらきかけを受け、人生を変え、そしてものを動かす。人あってのもの、ものあっての人である。ものは人と無縁に存在するのではない。切実な働きかけと真剣な受けとめ、そして決断、こうして、人は無限に向上する。これが人生である。
人類がこの世界の登場する以前からものはあった。その「もの」はどのように人と係わるのか。まさに「人類がこの世界の登場する以前のもの」を考えることによって、そのものも人と係わる。
人間もまたものからなる。生きるものはすべて、ものが「いのち」という位にあるものである。人間もまた生きものである。ものは孤立しているのではない。ものはつねにたがいに関連しあい係わりあって存在する。人もまたものの世界のなかに生まれ、ものと係わる。人が生きることはものとの係わりそのものである。ものと人が係わる内容、それが「こと」のはじまりである。
- 第一、
- ものの集まりに意味を見いだし一つの「こと」としてつかむ力が人にはある。その力が人を人間に定めている。人が、ばらばらにある「もの」を相互に関連する意味あるもののあつまりとしてつかむとき、そのつかんだ内容を「こと」と言う。話者と世界の関わりを、話者が統一してつかんだとき、それが「こと」である。人にとってこの世界は、動き、生き、響きあい、輝き、生まれ死に、興り滅びしている。それを人は「こと」としてつかむ。
- 第二、
- 山の光景にわれを忘れ、職人が制作に没頭し、全精神を傾けて仕事に打ち込んでいるとき、人は「こと」のうちにある。そしてわれにかえり反省が生まれる。そのとき体験した「こと」を言葉にする。こととしてつかむ行為は、ものの生きた事実から、名づけられた言葉への転化であり、ものとの直接の出会いから、人間の考え方、つまり概念としての把握へ転化する。これが経験である。事実としての存在が本質としての存在に転化する。「こと(の)は(端、葉)」としての「言葉」に現実化する。
- 第三、
- ことそのものは言葉にならない。ことそのものは、有為転変する世界をこととしてつかむ行為の土台であり、その前提である。人はこれを神としてとらえてきた。「みこと(御言)」は神の言葉であった。今われわれはこれを「こと」そのものでつかむ。ことは直接に知るものであり、名づけるものではない。「こと」が、ものからものへ、あるいはものから人へとどけられ、新しいものが「なる」。
このようにして、人間は言葉によって協同の労働をおこなう生命体となる。
「もの」と「こと」はそれぞれに別々なのではない。「もの」は「こと」にしたがい生成変転し、「もの」が生成変転することの中味が「こと」である。この一体のはたらきを「いき」という。ことと一体になったもののはたらきを「いき」という。
この世界の輝きと響きは「いき」の発現であり「いき」そのものである。
「いのち」は、「もの」の一つの存在形式である。「もの」と、ものの「こと」と、ものがことにしたがってはたらく「いき」が、世界のなかで一つの単位をなすとき、それはいのちである。
世界はいきいきと輝き運動を続けている。人間もまたこの世界のなかでいっとき輝きそして生を終えてものにかえる。そのいっときを「いのちある」ときという。いのちあるとき、それを生きるという。人が生きる内実は、「こと」の内に入って「こと」をつかみ、人生を動かしていくことである。この営みを「ことをわる」という。人生とは「ことをわる」営みそのものである。
「いのちある」というその「いのち」そのものはことばにならない。世界が、動き、生き、響きあい、輝き、生まれ死に、興り滅びしている。それはいのちの発現である。人間がいのちあるのもまたいのちの発現である。人間が生まれ、そして帰っていく大元であり、人間にさちを贈る大元でもある。
いのちは深い。いのちの発現は、つねに、ことをわるはたらきという形でおこなわれる。それが人間の存在の基本構造である。
- 第一、
- 人のいのちがはたらくとき、そのところで、ことは言葉となる。いのちは、ときであり、世界の輝きであり、世界の意味である。ものはたがいにことわりをやりとりしている。つまり、ともにはたらく場において「ことわりあう」。「語りあい」、「語らい」である。ものが語らう、これが世界である。ものが語らい響きあうとき、そのことそのものとしてことわりはひらかれる。
- 第二、
- ものの内部の語らい、もののあいだの語らい、この語らいこそが内部からことを明らかにする。語らうことによってものはより高くまた広いところに立つ。問題自身のなかから解決の道を見いだすことができる。人もまた、語らいによって、独りよがりな思いこみから解放される。語らいこそ世界を動かすちからである。
- 第三、
- 人が生きてはたらくことは、ものとひととのことわりあいそのものであり、世界との語らいである。人がこの世界で一定のあいだ生きること自体、ことわりである。いのちあるものとしての人は世界からものを受けとり生きる。それがはたらくということである。直接のもののやりとり、つまり直接生産のはたらきこそ、いのちの根元的なはたらきであり、その場でこそもっともいのちが響きあい輝く。人と人はことをわりあい力をあわせてはたらく。つまり、人は語らい協同してはたらく、つまり協働することで人になる。
「ことわる」はこれまでの日本語では漢字に「断る」をあててきた。これは何を意味しているのか。一つの家や村やなどの内で「こと」を荒立てることは、日常生活において当然のように流れている毎日の時間を断ちきることであった。それがつまり「ことを割る」ことであり、日常生活を「断る」ことであった。協働の場の慣習的な任務に異議を唱えることが「ことわり」であり、したがって日常生活を「断つ」ことを意味する漢字が当てられた。
しかしわれわれは人のいのちのいとなみそれ自身が「ことわり」であり、さらにそのうえでの「語らい」であると考える。人が生きるということは何かしら「こと」を荒立てることなのである。この現実を覆い隠すことはできない。
- 第一、
- 「もの」「こと」「とき」はいのちにおいて現実である。
- 第二、
- 人間のいのちのは、ことをわるはたらきとして発現する。
- 第三、
- ことをわるはたらきの場、それは言葉による協働の場である
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