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問いを生きる

   問いは人生のなかで生まれる。現実の人生を離れて問いはない。 私はいつも次のような問いをかかえてきた

第一、
存在について。

   人は誰でもこの存在の不安をかかえて生きている。 「ある」とはどういうことなのか。 自己があるとは要するに何なのか。 日頃は意識の表に現れることがなくても、 人生に何かゆきづまったとき、 この不安が人を襲う。

   ひるがえって問う。 世界はそもそも存在するのか。すべては空ではないのか。 現に目前にあるのは何か。それは本当に存在するのか。

   観点を変えて、世界に存在の意義はあるのか、と問うてみる。 このように荒廃した世界にいかほどの意義があるのか。 人間は、本当に確固とした基盤のうえにいるか。 人生は夢なのか。

   人間は苦しむことが生命の輝きであるという矛盾を生きねばならないのか。

第二、
時について。

   ときとは何か。 これほどあってないようなものはなく、 しかもこれほど切実なものはない。 なぜときが切実なのか。人間が死へ向かう存在であり、人生に限りがあるからなのか。

   さらにまた、死へ向かう存在であるから、 人間は今はどんなときかを問うのではないか。 歴史を意識するのも、人生の有限性の結果であるのか。 今を問うことは、 時代の要求とそれに対する自己の存在意義をつかむことか。 人間が存在意義を問うのもまた個別の生の有限性の結果か。

   人間を離れて時はないのか。 しかも個々の人間の生は有限であるのに。 これは逆説か。

第三、
転換について。

   これを転じることは出来るのか。 不安、有限、死、世界の無意味を越える道はあるのか。 そもそもなぜ越えねばならないのか。

   さらにまた、この輝きの覆われた世界の現実を転換することは可能なのか。 あるいは地球という船はこのまま沈むのか。 資本主義は近代科学技術と同根ではないか、技術を制御できないのではないか。

   人間がかかえてきた存在の不安と、今日の世界の閉塞とは、どのようにつながっているのか。あるいは別々のことなのか。宗教の経験、社会主義の経験はいかに生かされうるのか。

   問いがあることは転換が求められていることではないのか。 必要性は可能性の根拠ではないのか。 あたらしい智慧、あたらしい枠組みは可能なのか。

第四、
人生について。

   自己とは何か。世界とは要するに何なのか。 いのちとは何かか。自己のいのち、いのちの深まり。 ひとりひとりのいのちと、大いなるいのちは、どのようにつながるのか。

   問いをかかえて、人はどう生きるか。 人生の意味はどこにあるのか。 人は自己のために生きるのか。人のために生きるのか。

   私はこのような問いをかかえて生きてきた。 これらの問いに答はないのかもしれない。 ただいつも結局はこのような問いかけを、 自らに向けてきた。

   問いを問いとして、その問いを生きてきた。 釈迦はこのような問いには答えなかった。 問わなかったのではない。答えなかったのだ。

   まず問うことである。 問える人になることである。 問うことが人としての自立の一歩である。

   人間が生きていくのは、実に難しい。多くの悔恨と苦しみをかかえていかなければならない。それが人生というものである。人間の歴史はこのような苦しみの連続であった。いつの世も、一部の人間にのみ都合よく大多数の人間には苦しみの連続であった。また、なぜ自分にこんな理不尽なことが起こるのか。何か悪いことをしたというのか。こんなこともまた、つねにあり得る。

   一方、人間はその本性として「人間としてよく生きたい」と願う。価値ある人生を実現したいと考える。しかしまた、「自分は何の価値もなく、いてもいなくてもいい人間だ」と思いこみ、引きこもったりあるいは自死したりする人がいる。これは大変難しいことであるのだが、他の縁ある人から見て、なくてはならないその人の意義というのは、じつは己を空しくして人のために尽くそうとするなかでしか実現しない。「自分は価値のない人間だ」と考えることのなかには、未だ自己への執着がある。

   現在の市場経済の下で支配的な考え方の枠組みは、自己に執着し、この世の中で成功することを価値あることとする。しかし、それは今の一時の価値観に過ぎない。本来人は言葉によって協同して働く命であり、その本性からして、「人のために」と考えて生きるところにこそ意義が生まれる生命である。

   人間が考えるということは、結局はいかに生きるかを考えることだ。人間は、自らの仕事として何かをしようとする。何をなすべきかを知らんがために考える。考えたことを次に伝えていく。ここに理学がはじまる。理学は、いかに生きるかを考えるための土台とならなければ意味がない。

   私はこれまでいろんな仕事をしてきた。それぞれの仕事において多くの失敗があり、試行錯誤があり、挫折もあった。しかしその一つ一つの段階を経て、今日があることも確かである。いずれの段階においてもそれなりに精一杯のことはしてきた。 その時々に考えてきたことが理学である。その経験を深め、言葉を深める。これが人間が考えるということである。変化の大きい人生であったが、一貫して問いをかかえ、言葉をめざして生きてきた。

   個人的なことは大切なことではない。個人的なことを通してなにがしかの共通の問題が浮かびあがればよいだけだ。

   さて、今日が転換を準備するときであることはまちがいない。 ならばやはりこれしかないではないか。 言葉によって言葉の限界にいたり、越えよ。 無限の向上、ここに人生がある。

   人間の存在は、大いなるいのちとしての大海に現れたひとりひとりのいのちのとしてのさざ波のような面がある。縁によって起こり、また消えまた起こる。しかしこのさざ波はかぎりなく貴い。さざ波の一つ一つがかぎりなく貴いのはそれが大海のさざ波だからである。大海のいのちの事実であるがゆえに貴いのではないか。

   問いを立てること自体は、世界を言葉でつかもうとすることであるかもしれない。分節はあくまで切り取ってつかむためのものであり、切り取るという営為によってつかめることは本体の影にすぎないかもしれない。分節される以前のこの大いなることを直接につかむことが出来るのか。その道への問いかけをつねに考えていなければならない。分節することは、この大海をいろんな側面から見ることなのではないのか。大海を自覚すること、あるいはこの大海を分節することなくそのまま飲むこと、その道があるのかないのか。

   この大海をいまは「大いなること」といおう。すべてはこの大いなることのうちにある。生も死もすべてはこのことそのものである。ここに心を落ち着けよ。それはかぎりなく懐かしい。このような智が人には備わっている、といえるか。

   新石器革命のときから、人はこの大いなることを忘れ、このことから離れた日々を送ってきた。しかしまた一万年の変化転移を生み出してきたのもこのことである。このことを無意識に閉じこめ日々を過ごしてきた。そして階級が生まれ、社会が生まれ、資本主義が生まれ、そしてそれは今日行き詰まっている。

   このこと、それは悲であり、いのちであり、一つである。人は懐かしさとして、このことに向きあってきた。このこととわれらを結ぶのが悲の風である。このことからあふれ出た仏教は、現実に存在するやつねにこの世を支える俗に堕してきた。

   今、言葉に出来ることは少ない。だが、この大いなることのうちにあって、分節しつつ大いなることを指し示す、そのような言葉を生み出してゆきたい。近代の壁を越える道はここにはじまるのではないか。

   兆民の遺言これを述べることであり、ここに理学ということがはじまる。

   人間は無限の向上を目指す。そしてそれは、自己への執着を取り払っていくことと一体である。学び追求する土台にこのような人生観をおく。学ぶことと生きることは一体である。この意味において、日本語を固有の言葉とする若い人に呼びかけたい。「来たれ。ともに考え、意義ある人生をともに生きよう」と。


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