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混濁の世

   いま、世間にはいろんな生き方に関する情報があふれている。人々がいろんなことを語りあっている。学校でも、社会でも、若者の引き起こすさまざまな事件が伝えられない日はない。その根底には、近代の日本の少年や青年の多くが規範としてきた生き方の枠組みが、もはや現代の青年の生き方を規定する力をもたず、かといってそれにかわる新たな枠組みもないという事実がある。これが現代である。

   明治時代以来、一人一人が努力して勉強すれば、世の中に認められ自分の社会的な地位があがるとともに、それがまた世の中のためであり、会社や地域や学問の世界などで何らかの貢献をすることになる、このような考え方が大勢として続いてきた。さまざまの生き方、考え方は、この大勢を軸にそれとの距離を意識して、生み出されてきた。これには客観的な裏付けもあった。つまり、実際にこの百数十年間、経的済な規模が増大し、各分野の世界の広がりに人生過程をいろんな形で重ね合わせ、自分を成長させることができた。

   いわゆるバブル経済の崩壊による高度経済成長の終焉以降、このような考え方はもはや事実として成り立たない。七〇年代初頭、公害問題の噴出などによってこのようなゆきづまりが予見された。つまり、六〇年代初頭に開始された高度経済成長はそれまでの生活とその基盤を掘り崩し、大きな困難を人民にもたらすことがすでにこのとき示されていた。

   経済成長が人々を幸福にはしないことが実際に誰の目にも明らかになったのは、八〇年代のバブル経済が九〇年代中期になって崩壊したことを契機としている。一見ものは豊かにある。しかし、富は偏在している。戦前、戦中、戦後の貧しい時代の記憶をバネにして経済の拡大そのものに価値を見いだし、ひたすら走ってきた。しかしバブルの崩壊以降の現実は、少数の豊かなものがますます豊かになっただけではないか。経済の拡大それ自体は価値ではなかった。

   それぞれの時代には世の中で実現されるそれぞれの生き甲斐があった。社会的位置、立場、人間の思想、それらによってもちろん生き甲斐は異なる。しかし今ほど一様に失われた時代はない。二十一世紀の初頭、とりわけ日本語世界の人間は、大人も若者も等しく混迷と混乱のなかに放り出され、人としての寄る辺を見失っている。

   経済問題も、政治問題も、教育問題も、いずれをとっても、これだけ問題が目の前にあるのに、そしてまた、アメリカの引き起こした戦争が世界中の人間を苦しめているのに、真の解決に向けて行動することができず、既成の政治や政党は方向を提起することもできないままに空しく議論を繰りかえしている。国も地方も膨大な借金を抱え、さらに借り入れを増やしつつ、問題の解決を先送りしている。このままでは立ち行かなくなることがわかっていながら、その日その日の目先の生活を送っている。国家はいつまでもアメリカからの独立を果たせず、政治も経済もアメリカに従属することでつかの時間稼ぎをしている。

   格差社会といわれる。格差とは、階級間の経済的、政治的、文化的、そして何より生存のために用いうる方法の差異に他ならない。それがもはやごまかすことができないまでに大きく広がり、その結果、人間性の深い荒廃をもたらしている。

   日本国は、非西洋にあって最初に資本主義を導入し、「近代化」をはかるという方向で百数十年やって来た。西洋のようになることに価値を見いだし、すべてをその実現のために組織し編成してひたすら進んできた。その過程で、江戸期までの長い間をかけて人と人との間に築かれてきた関係が失われた。心あたたまる隣人愛、助け合い、はげましあう下町情緒などはもうみることができない。

   外見的には「近代化」が一通り達成された。そのとき、進むべき方向やいかに生きるかを考える規準を失っている。それが日本語世界の特別な現象であるのかといえばそうではなく、むしろ爛熟期にある資本主義内部に起こるある種の崩壊現象として先進的でもある。失われた規範を取り戻そうとしてもそれは出来ない。規範そのものが成立しなくなっている。

   「近代」とは資本主義経済とその上にのった世の中を作っていこうとする過渡的な時代である。この時代は、夢や希望によって人々を動かし、引っぱって行く時代であった。この夢は、封建的な身分や生まれ、社会階層で人生を拘束することから人々を解放し、自由な個人を生みだすという、人権、自由、平等の普遍的な理念を内実としているがゆえに、必然性をもって全世界的な流れとなった。近代はこの面において避けがたくまた意義あるものである。内部にこの近代をさえ打ち立てないままになされる「近代の超克」は、結局はファシズムや軍国主義などの前近代へ逆に戻ろうとするものでしかない。

   近代化は国民国家の確立という段階を必ず踏み、それによって加速される。近代化はそれを開始したときの世界がどのような時代であるかによって、それぞれに異なる様相を見せる。明治維新による国民国家の確立にはじまり、バブル経済の崩壊による近代化過程の終焉に至る過程も、多くの近代化の一つの過程である。いい大学を出ていい会社に就職して、よく働き、仕事を通して社会に貢献する。これが近代日本国の一般的な人々が目指す生き方であった。大学制度もまたこのような構造のなかに組み入れられて機能してきた。

   しかし、このような近代化は当然にも限界に到達する。資源は有限であり、環境もまた限界がある。日本国のいわゆるバブルの崩壊もこの限界の存在が引き起こした。中国はまだ限界にまでは来ていない。しかしいずれ何らかの限界に来ることもまたまちがいない。限界に来る形には個別性がある。しかし、資本主義的近代化がいずれ壁にであうことは必然である。

   これまでの近代化の歴史では、一つの社会が限界に達したとき、他国を侵略し経済世界を拡大して当面の限界を取り払うという方法がとられてきた。二十一世紀初頭のアメリカは未だにこの立場にたち、イラクを侵略した。イラクの石油をはじめとする世界の資源支配力を高め、巨大な経常赤字に信認が揺らぐドルの現状に対し、軍事力によって石油・ドル本位制を補強し、アメリカ経済の限界をさらに超えようとしている。

   戦争はつねにこのように経済的理由を根拠に始まる。侵略されたアラブ世界には、アメリカの侵略と戦うだけの思想と方法がまだ生まれていない。しかし人間は、人間の尊厳を奪う侵略者に対しては、そのときにある思想で戦う。今それはイスラム教である。イラク戦争によって新たな世界大戦が開始された。世界戦争によって必ずいくつかの帝国が衰退してきた。アメリカは今日唯一の帝国である。アメリカ帝国主義の古典的な帝国政策は必ずアメリカ帝国主義自身の凋落をもたらす。アメリカ帝国主義は2006年の秋、イラク、アフガニスタンで泥沼に陥っている。

   これはすべて、地球という有限世界における資本主義の限界の具体的現象である。

   限界にまで達した近代化の果てに、一人一人がどのように生きていくのか、それはまだ見いだされていない。あるいはこれを考える土台がない。この意味で、まさに今は混濁の世である。日々の生活におわれるなかで、ふと立ち止まり、我が来し方を省み行く末を考えるとき、人は何か胸をかきむしられるような気持ちに襲われるのではないだろうか。高度経済成長を終え一定の物質的達成を実現したとき、実はそれは人間にとってそれほど大切なことではなかったのだということに気づき、しかしではどうすればよいのかわからない、それが今、日本の世界の人間がおかれているところなのだ。そして同時に、問題はこのように日本社会だけの問題ではない。この意味で普遍的に開かれている。

   寄る辺などなくてもよいという考えもある。事実、一九六〇年代末の「期待される人間像」にはじまり二十一世紀初頭の「心の教育」まで、国家はいろんな「寄る辺」をつくろうとしてきた。日本国は教育基本法を変え、憲法を変え、生きる規範を外から与えて従順な国民をつくり出し、混乱のなかでも国民統合を強めようとしている。しかしそんなことで人々の心の空洞を埋めることなどできはしない。一人一人の考える力さえ、今はどんどん崩れていっている。

   このときなすべきことは何であろうか。問題は深く大きい。根本には、弱肉強食と金がすべてという拝金主義の資本主義がある。今日の世は、金によってすべてが動く動物としての国家であり、社会であり、人間だということである。しかし、問題はそのようななかで自分を見失わずこの世で目的をもって生きていく力はどこから生まれるのか、である。

   いちどは問題を根本から考えよう。個人の人生の問題の底には、世界の意味そのものの問題がある。近代化は、大きく言えば人類が新石器時代の革命以来、生産技術を発展させ生産力を増加させ、世界を広げてきた、その歩みの最後の段階であった。数千年の歴史がこの問題の底にはある。このことを押さえ可能なかぎり大きな枠組みのなかで、しかし着実に考えなければならない。

  


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