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愚民政策に抗う

   近代日本語は、西洋帝国主義に対抗して、日本国の資本主義を立ちあげる必要に迫られて作られた。工場が稼働するに必要な日本語、軍隊が機能するに必要な日本語、それが大急ぎで作り出された。そのための日本語であった。考えを深めるための言葉を育てる余裕はなかった。またそれを近代日本の国家に求めても甲斐のないことであった。

   さらに自由民権運動に懲りた明治政府は愚民政策をとった。明治政府は民衆が考える力をもつことを望まなかった。学術の言葉と日常の言葉は切り離されている方が都合がよかった。愚民政策は、文教政策に携わる機関の中に構造化されて組み込まれている。これは今日も続く日本国の教育の基本政策である。近代日本語には、言葉の意味をあいまいにし、人民の考える力をそぐための仕掛けが込められている。良心的な人でさえ多くはこの仕掛けにはまり、力無い言説をくり返している。

   二十一世紀になって学力の落ち込みがいろんな形で指摘される。「学力の崩壊」が叫ばれ、さまざまな角度から「教育の危機」が語られる。しかし、それは決して自然現象はなく、構造的な愚民政策の結果である。この認識を欠いた議論は空論である。現代の高校生がおしなべて論述の力を失い、将来を考える力が崩壊しつつあるのは、やはり作られたものである。人間は無意識のうちに深部において言語に整合性を求める。言語を単なる道具と見て、取りかえたり削ったりしても、その言葉で世界を切りとってつかんだ構造に、空隙や食い違いが生じる。つまり人工的な言葉は、深部で人間を動かすことはできない。時代が激動し、人間が生き方を根本から問われるときに、そのような言葉は無力である。

   人工的な言葉は、作られたものである以上、転換することもまた不可能ではない。構造化された愚民政策も、そのことを認識し奪われた学力を自ら取りかえすという立場に立つことによって、闘うことが出来る。「日本語で考える」ことは、この仕掛けを暴きつつ、国家の愚民政策と闘い、人民が考える力を取り戻すことそのものである。現実には、あらゆる場で、ひとつひとつの言葉の意味を定め、仕掛けをはずしつつ進まなければならず、簡単なことではなく、一人がなしうることでもない。

   愚民政策の典型は現代アメリカである。六〇年代の公民権運動に懲りたアメリカの支配層は、黒人や有色人の多数から学ぶ機会を奪いつつ、それをごまかすために従順な小数の黒人を政権の中に取り込んできた。圧倒的多数はこの四半世紀、ますます貧しくなっている。

   青空学園は、差別され下積みに押し込まれたアメリカの若者にも同じことを呼びかけたい。国の進める愚民政策と闘い、生きる智慧と力を自らがつけていこう、と。

   青空学園は「日本」という考え方をとらない。しかし、言葉のうえで「日本」を否定してこと足れりとするだけでは、近代資本主義日本の国家としての日本の現実をそのままにすることになる。現実に国家の力の及ぶ範囲として「日本国」が存在している以上、言葉だけでの否定は実際には現実を肯定することになる。観念で否定し現実で肯定する偽善的な「知」のあり方も、青空学園は批判する。「日本という同一性は虚構だ」というとが知識人の間で共有されている。青空学園もその立場に立つが、しかしそこに留まることは実際には現実を肯定することだと考えている。虚構だというだけでは何も変わらない。

   「日本語というのは『正しい本来の日本語』という意味で、国家が強制した考え方だ」という意見もそれ自身は正しい。しかしだからといって「言葉を耕す」ことをおろそかにすることはできない。言葉の意味を外国語に頼ることもできない。人間は言葉によって人間である。「言葉を耕す」ことをおろそかにすることは、人間としての自らをおろそかにすることである。

   固有の言葉ですべてをはじめから考えよう。考えて考えて、これはというところから積みあげる。日本語を考える言葉として育てることは、とりもなおさず日本語でもって人間であるものが、もう一度自分の足で大地に立つことである。何よりこの言葉で考える。日本語で、豊かに、はっきりとこの世界を述べる。この世界を切りとる基本的な言葉の意味を、世界そのものをはっきりと述べることによって明確にする。こうして、言葉が耕される。はじめて考える力の土台がしっかりと育つ。

   考えたことを『理学』としてまとめていく。『理学』とは、中江兆民が『理学鈎玄』で「理学の趣旨は万事に係わりて基本原を窮究するに在り」と定義した学、その学を継承し考えていこうとする学の総称である。

   その草稿を青空学園の試みに加えていく。明治以来日本国で一般的に行われてきた言葉の使い方をいったんは括弧に入れて、異なる道で言葉を育てたい。現にある言葉で考えつつ、言葉を対象化し、少しずつ意味と使い方を動かしていかなければならない。しかしそれはたやすいことではない。にもかかわらずやはり、このような試みなくして日本語で生きる人間の活路はなく、日本語の再生はないと信じる。

   二十一世紀は、固有の言葉を真に考え得る言葉に深められるか否かが試される時代である。いろんな政治的あるいは経済的な転変が起こるであろう。日本語世界を含むこの世界は大きな混乱と混迷が続く。国破れて山河さえなし、である。このようなさまざまの現象の基底にあるのは、固有性はどれだけ、またどのように普遍の場で生きうるかという問題への指向である。あるいは逆に、固有性が本当に生かされる新たな普遍性は可能なのか、と問うてもよい。いずにせよ活路はまだ見えない。しかし、人間はやはり固有の言葉で考え、そしてこの言葉を耕し続け、そしてある言語は新たな段階に至り、ある言語とその文明は歴史から消え、あるいは再編成されるであろう。なぜなら、人間は人間である以上、人間の条件としての言葉について、このような営みのなかで生きるものだからである。

   『理学』は、学問のための学問ではない。人間の生き方と直結した、智慧ともいうべき新しい「学」と「知」をめざしている。それが『ことわりの学・理学』である。近代日本国の学術は、人間が生きることと切り離された、学問のための学問だった。その「学」のあり方が、今日いたるところで破綻している。「生きるための智慧」としての「学」を再建する。これが「日本語で考える」課題の骨格である。「こころざしは大きく、なし得ることから一歩一歩」でいきたいと考えている。

  


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