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「普遍」を超えて

   アメリカ帝国主義は凋落する帝国主義である。ネオコンは帝国再興のために、謀略を用いて9・11事件を引き起こした。これを機にアフガン戦争、イラク戦争と戦線を拡大し、そしていよいよ泥沼に陥っている。かつて日本軍国主義は、テロによって共産主義者や社会主義者・自由主義者を弾圧し、謀略によって柳条湖事件・盧溝橋事件を起こした。しかし日本軍国主義は最後には敗北した。アメリカ帝国主義もまた同じ道をたどるだろう。

   二十一世紀初頭、アメリカ帝国主義の振りかざす偽りの普遍性はまだ力を失っていない。「唯一の超大国」としてわがもの顔に振る舞っている。アメリカはいまや地球の災いである。中期的に見れば、これは逆にアメリカ帝国主義の凋落を早める。なぜなら、アメリカ国内外の矛盾はいっそう尖鋭化し、いずれ新たな混乱が必至だからである。

   日本国はアメリカから自立して国家の長期的な戦略や進路を考えることができずアメリカに追随するのみである。「朝鮮民主主義人民共和国」と一旦は独自に交渉を試みたがすぐに挫折した。こうした政府の迷走とアメリカへの従属の現実の暴露を通じて、日本国もまた大きく分裂しそれが明確になる。混乱と混迷は必至である。

   アメリカの財政赤字はとどまることなく、ごく少数の富めるものと圧倒的多数の貧しいものに分裂したアメリカ、ただ力によって世界中の金と資源をかき集めることで成り立つ砂上の楼閣、アフガニスタンでもイラクでも、問題を解決し、国際秩序をたてるどころか、秩序を破壊し資源を収奪するだけのアメリカ、それが現実であり、そうであるから余計に帝国主義思想がアメリカをとらえている。

   世界はアメリカなしで生きられるが、アメリカは最早世界なしでは生きていけない。このようなアメリカは早晩崩壊と混迷に直面する。問題はその混乱のときに、われわれはどのような思想を準備しているか、である。われわれが考えることは、アメリカ内部の心ある人々とともに、混乱と混迷のなかから新たな深い普遍性を実現しようとするものであるし、同じ問題をわれわれ自身の生きる場で考えようとすることである。

   アメリカは経済が左前になればなるほど、市場経済という大域主義を振りかざして世界支配を露骨にしてくる。だが、歴史は、如何なる列強といえども、圧倒的な軍事力・政治力に物を言わせて世界に覇権を広げようとすれば、自らの経済を圧迫し、ここから綻びが生じて世界戦略が破綻することを教えている。

   このアメリカという「普遍性」に対抗し、これと対峙するわれわれの生き方は何なのか。少なくともそれは、それぞれの経済、文化、言葉、歴史等の固有性と、人間が共に生存するという普遍性が一つになった生き方でなければならない。われわれはそれを現実のものとするための準備をする。

   理学がめざすような深くかつ広い段階の普遍性の試みはかつて国際共産主義運動のなかに存在した。マルクスは、国家を越えてわかりあえることを保証するものとして、民族や国家をこえる「階級」を基本的な考え方とした。「万国の労働者団結せよ!」である。レーニンはさらに「革命そのものは普遍的である。実際に革命が遂行され存在する形式は民族や地域によってまったく異なる」と主張し、それによってロシア革命を現実化した。民族や地域という固有性が革命という普遍性の場で共存することをレーニンは主張した。日本共産党においても、徳田球一をはじめとする非転向の歴史があり、その闘い自体国際共産主義運動の一環とする固有の闘いであった。このように固有性とそれが共存する場としての普遍性は二十世紀の国際共産主義運動において現実のものとなった。さらに展開する可能性はあった。だが、つまるところ、この試みは二十世紀末のいわゆる「社会主義陣営の崩壊」によっていったんは挫折した。

   二十一世紀の基本的な問題としての「資本主義、国家、民族」について多くの論説があふれている。しかし、すべての言説は、その固有の言葉がその言説をとおして少しでも豊になるものでなければ、無意味であり、意識して言葉の土台を耕す作業を内包しないかぎり空疎である。

   今日、民族国家を越えているのは「市場」という普遍性を掲げる国際資本である。しかしこの普遍性は、「もうかる」ことを第一の規準とし、そのためにすべてを単一の土俵に上げ、もうけの対象としていこうとするものでしかない。かつてのキリスト教の「普遍」もまた、西洋世界の拡大を支える論理であったが、それと同じである。「神」が「市場」に代わった。この「普遍」の下では固有性は抹殺される。この「普遍」に抵抗し闘い、新たな水準で真に「わかりあえること」を実現することは可能か。その道は何か。転向の構造を掘り崩すことを別の面から述べれば、このような提起となる。

   西洋の力の前に、近代日本語世界の「知」は自らを欺いた。西洋哲学がそのまま日本語世界ではあり得ないことを踏まえるのではなく、自らを日本語から切り離し西洋のなかに入り込むみちをとった。だが、明治国家の文化政策である脱亜入欧は根本的には不可能である。脱亜入欧とは実現不可能な標語であり、現実には、新たな帝国主義としてアジア侵略に進むしかなかった。ことわりの学・理学の試みは、この自己欺瞞の百三十年を転換する内部の力を蓄えることでもある。

第一、
われわれは、西洋の掲げる「普遍」をその故だけで排除することはしない。そこにはある必然性があった。それを地上の事実として受けとめる。
第二、
だがまた、われわれは西洋の「普遍」を相対化する場を求める。同時に、今はまだその言葉、つまり方法が実現していないことを認識する。
第三、
われわれは曲がりくねった思索を継続する。すべての思索は、まず古い言葉の上になされざるを得ない。それを述べきり、それを超える。この繰り返しである。

   それが「ことわりの学」としての『理学』である。

  


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